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身の程を知りなさいよ。
付き纏われて彼だって迷惑なのよ。
さっさと消えてちょうだい。
あなたなんていなくたって、誰も困らないわ。
泥棒猫。
女ギツネ。
あばずれ。
臓腑を突き上げるような不快感に目が覚めた。口の中が苦い。ねとねとする。背中にもねっとりと汗をかいていた。
うー、とうめいた。
嫌な夢を見たわー。サイテーだわー。気分悪いわー。リリーはぎゅっと目をきつく閉じた。そのままダンゴムシのように丸まって、ベッドの中で不快感が消えるのを待った。
外では、がらがらと荷馬車の音がしている。閉じた瞼が明るい。今日は天気がいいようだ。目を開けると、カーテンの隙間から朝の陽ざしが差し込んでいた。
「起きるかぁ」
リリーは「ふう」とため息を吐いて、のろのろとベッドから下りた。
いつものように、パンと卵とミルクティーの朝食を用意する。卵の調理は日によって変わる。今日はオムレツ。付け合わせにトマト。きのうは目玉焼きだった。おとといは半熟ゆで卵。
今日のパンはロールパン。きのうはライ麦パンだった。たまに差し入れにクロワッサンを貰う。サイコー。
なにせ一人分だから用意するのも片づけるのも簡単だ。朝食を済ませると一階に降りる。様々な薬草の匂いがほのかに漂っている。
ここは、リリーが営む薬屋だ。一階が店舗。カウンター。奥に薬棚と調合用の作業台。二階が自宅。リビング兼ダイニング兼キッチン。小さなダイニングテーブルとイスが二脚。それとくつろぎようの一人がけソファでもういっぱい。
国境に近い田舎町だ。薬屋は目抜き通りのはずれにある。
裏庭には薬草園。田舎なので敷地は広い。リリーの思う存分、畑にできる。ときどき近隣の山や森へ入って、新しい薬草を入手してくる。リリーの薬草園は増殖中だ。
ほうきで床を掃き、モップをかけ終わると、ドアに「OPEN」の看板を掛ける。
売れ筋は傷薬に胃薬、頭痛薬。あと湿布。この町に医師はいないので、たいていの不調はリリーの薬で治すのだ。……たとえ医師がいたとしても、庶民ではとても診療代は支払えない。田舎に行けば行くほど、医師は貴重で高額になる。
さてと。傷薬の在庫が切れそうね。
リリーは器具と乾燥した薬草を数種類ならべて、調合を始めた。始めたとたんに、カランカランとドアベルが鳴った。
「リリーちゃん」
入ってきたのはふくよかなおばさん。
「ハンターさんの奥さん、おはようございます」
「やけどしちゃってねぇ」
ハンターさんの奥さんは、左腕を出してみせた。手首の少し上のあたりが真っ赤になっている。
「あら、たいへん。冷やしましたか?」
「うん、うっかり鍋のお湯をこぼしちゃってね。ずっと水に浸していたんだけれど、まだひりひりするんだよ」
触ってみると、まだ熱を持っている。リリーは奥の戸棚から軟膏を出してくるとやけどの個所にたっぷりと塗った。それからガーゼを張り付け、包帯を巻いた。そして軟膏を小瓶に小分けする。
「しばらくさわっちゃだめですよ。夕方になったらもう一回薬を塗って、ガーゼを交換してくださいね。あしたまた見せてください」
「ありがとう。助かったよ」
こうしてハンターさんの奥さんは軟膏とガーゼを持って帰っていった。
入れ違いに今度はベルさんが入ってくる。
「リリーちゃん、おはよう」
「おはようございます、ベルさん」
「倒れた木にぶつかっちまってな」
ベルさんは木こりだ。作業中のケガは多い。そう言ってシャツから腕を抜いて左肩を出した。紫に変色している。しかも広範囲。
「あらら」
リリーはゆっくりとベルさんの腕を持ちあげて、動かしてみる。
「いてて」
さいわい骨は折れていないようだ。湿布を貼って大きくバッテンに絆創膏を貼る。
「早く治したいのなら、今日のお仕事はお休みしたほうがいいかもしれませんよ」
あちゃー、と言いながらベルさんは替えの湿布を受け取って帰っていった。
こんなふうに、入れ代わり立ち代わりお客さんがやってくる。合間に薬の調合をする。これがリリーの一日だ。
今日も、こんなふうに一日が過ぎるはずだった。
カランカラン。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃ……」
言いかけてリリーは口を噤んだ。入り口に立っていたのは町のお客さんではなく、少々くたびれた旅装の、それでいて隠しきれない気品があふれる背の高い人物だった。
営業スマイルを顔に張り付けたまま、リリーは硬直していた。
「……リリー」
懐かしい、愛しい声が封じ込めたはずの記憶のとびらを、いとも簡単にこじ開けてしまった。
もう忘れたと思っていたのに。
また口の中が苦くなる。今日の夢は、これの合図だったんだろうか。
……嫌になるな……。
「……なんで」
絞り出した声はひどくかすれていた。
「探したんだ」
「なんでそんなこと……」
「すまなかった。知らなかったでは済まされないのはわかっている。それでも、どうしても会いたかった」
彼は、苦しそうにくしゃりと顔をゆがめた。
この男はアーサー・バークレー。バークレー公爵の庶子である。貴族籍には入っているが、公爵家とはかかわっていないという話だった。
そんな彼は医師になった。貴族が市井で働くわけにもいかず、かといって王宮勤めもなにかと煩わしい。どこに行っても噂はついてまわる。遠巻きにされるのがおちだ。だったらいっそツッコんでくれた方がマシ。
公爵家からも「バークレーの名に恥じぬように」などと念押しされる。かかわるなと言っておきながら、口出しはしてくる。非常にめんどうだ。
医師ならば、公爵家の手の届かないところで開業すればいい。そんな思惑だった。さいわい、医師になるべく必要な頭脳も持ち合わせていた。
だが医師になったからと言って、いきなり民間で仕事ができるわけもなく、結局王宮の医局で働いていた。
医師になりたてのぺーぺーの信頼なんて、枯葉のごとく軽いものだ。数年は医局で働いて、しっかり地固めをしたまえ。「王都の医者」と箔が付けば、地方での開業もうまくいくだろう。医学大学の教授にそう言われたのだ。
それもそうだな。と彼は納得し、将来は王都を離れ地方で開業することを目標に、宮仕えをしていた。
一方のリリーは、ハワード男爵家の娘。貴族といっても下っ端貴族。父も兄も宮廷官吏。領地はなし。それほど財産があるわけでもなし。いちおう屋敷は貴族街にあるが、一番端っこだ。
王都の中心は王宮。王宮をとり囲むように上級大貴族の邸宅がならび、その外側に中階級、さらに下級と広がっていく。
貴族街の外側は、商人や金融業を営むお金持ちの屋敷。それから中流階級、労働者層の集合住宅と続いている。
リリーの家よりお金持ちの庶民の屋敷の方が大きくてりっぱだったりする。実際リリーの家には、使用人だって二人しかいない。母もリリーも家事をする。そんな家庭。
そんなだから、嫁入り先だって期待はできない。やっぱり下っ端貴族なんだろう。父や兄のような官吏かもしれない。金持ちなんて夢のまた夢。
だったら手に職をつけよう。そうだ、そうしよう。
嫁ぎ先でも稼ぎ手がいたら助かるはず。そうそう、それがいい。薬師なら食いっぱぐれがない。もし万が一、不測の事態で逃亡するようなことがあっても、薬師ならどこでも働ける。家族の考えが一致してリリーは薬学の学校に行かせてもらった。もちろん、それなりに学費はかかる。それも将来への出資だ。
そして薬師になったリリーは、王宮の医局に就職した。いいところに就職できた。よかった。家族みんなで手を取り合って喜んだ。
***
リリーが医局に入った時には、アーサーはすでに有名人だった。若くして優秀な医者。しかも庶子とはいえバークレー公爵家の息子。しかも容姿端麗、眉目秀麗。しかも高身長で細マッチョ(たぶん)。しかも金髪碧眼。彼と目が合っただけで病気が治る、とまで言われる。
いや逆に、心拍数や血圧や血糖値が上がったりしないだろうか。プラシーボ効果? ちょっと違うか。
要は数少ない看護婦、女性薬師はもちろん、患者にまで大モテなのだった。
医師と薬師の関係は密接だ。
患者に合わせて薬を調合することもあるから、自然と話す機会が多くなる。本人たちさえその気になれば、距離は必要以上に近くなれる。あくまで本人の意思だ。リリーだって、ふだんはちゃんと適切な距離を保っている。
距離を詰めてきたのはアーサーのほうだった。
「ハワードさん、この患者の痛み止めなんだけど」
話しかけてくる回数が増えた。立ち位置が近くなった。ハワードさん、と呼びながらじっと見つめてくる。
……えーと。近いな?
そりゃあ、リリーだってうれしい。庶子とはいえ公爵家の息子で、金髪碧眼で背が高くて細マッチョ(たぶん)のさわやか貴公子が言い寄って(?)きたら舞い上がる。
しかも彼は、ちゃんとした医師だった。患者のいうことには真摯に耳を傾け、治療のためには労をいとわず。看護婦やリリーたち薬師にも親切丁寧。横柄な医者も少なくない中、みんなからの信頼は厚かった。
「ハワードさん、ありがとう」
調合した薬を持っていくと、必ずそう言ってくれる。
「ハワードさんの薬は、患者によく合っているから回復が早いよ」
貴公子のほほえみ付き。
神か? 神だな? じゃなければ、こんな立派な人間がいるはずない。
「これからランチ?」
午前の業務が一段落して、遅めのランチをとろうと食堂に向かったところ、後ろから声を掛けられた。確かめるまでもなくアーサーである。
声までも美声。張りのある高めのバリトン、または低めのテノール。業務に追われ殺伐としがちな医局の空気までも、清浄化するような安寧の声。不安でいっぱいの患者も安心に導く神の声。
リリーはほうっとため息をついて振り返った。
「バークレー先生」
ぺこりとお辞儀をする。
「ご一緒してもいいかな?」
「は、はい! もちろん!」
断れるわけもなくそう返事をしたのだが、はてさてこの神のような御仁の前で、食事などできるかな? 口を開けて肉や魚を入れて、もぐもぐと咀嚼して、ごっくんと飲み込んで。
くちゃくちゃと音がしたらどうしよう。ナイフやフォークがお皿に当たって、かちゃかちゃと音がなったらどうしよう。
……震える。
本日のAランチはチキンのトマト煮込み。Bランチは白身魚のソテー。さて、どっちにしよう。チキンは骨付き。難しいな。いつもなら雑にわしゃわしゃと切り分けるのだが、今日はそうもいかない。つるんと滑って、骨が飛んだらヤバい。
じゃあ無難な白身魚にしよう。切るのも簡単だし。
アーサーも白身魚。気が合うな。二択でそんなこともないか。向かい合って座って、食べ始めた。
「○○さんの胃痛は、だいぶ落ち着いたよ」
「そうですか。よかったです」
「ハワードさんの調合がうまく合ったみたいだね」
「おかげさまで」
緊張のあまり、答えが頓珍漢だ。
白身魚は食べやすいように、丁寧に骨が取ってある。細かいのにご苦労様だ。が、たまに取り損ねた小骨が残っている。
なぜ、今日に限ってそれが起きる。
いつもなら、もごもごとしてペッと出すのだが、今日は無理だ。完全無欠の貴公子の前で、口から骨を出すなんてどんな試練だ。こんな試練を乗り越えられるなら、空も飛べるんじゃないだろうか。
わたしには無理。
リリーは笑顔で、口の中がチクチクするのを耐えて、なんとかかみ砕いて飲み込んだ。助かった。
ハラハラドキドキのランチを終えて薬局に戻ると、みんなからのニヨニヨとした生ぬるい目で迎えられた。
違うから。たまたまだから。なんて言う言い訳も、ぬるっと流された。
で、その後そういう「たまたま」が続き、三度目にデートに誘われた。そう、デート。
「オペラを見に行かない?」
オペラ。下っ端貴族のリリーでも知っている。行ってみたいと思っていた。が、お高いのだ。若手の薬師じゃ、給料の半分以上持っていかれる。なにせ王族や上級貴族やお金持ちの庶民が行くところだ。気おくれもする。
そんなわけで、自分には縁がないところだと思っていた。
「で、でもお高いんじゃ……」
「ああ、安心して。父の伝手があってね」
父とはバークレー公爵。……それも恐れ多い。
「えーと、わたしが行ってもよろしいので?」
「もちろん。きみと一緒に見たいと思ったんだよ」
ほえー。
オペラを見に行くためのドレスまでプレゼントしてもらい、馬車で迎えに来てくれて、エスコートをされて案内されたのは桟敷席だった。三階の一番前。さすが公爵家。「なんだ、おまえは」なんて咎められたらどうしよう。なんてちょっとびくびくしながらも、生まれて初めてのオペラを堪能した。
なんてステキ。隣にバークレー先生。夢の世界。
さらに、帰りの馬車の中では。
「わたしとお付き合いをしてもらえないだろうか」
耳まで赤くしたアーサーがそう言ったのだ。
「おおお、お付き合い……」
どこへ? なんて小ボケはしなかった。
「わわわ、わたしと……」
「うんそう。もちろん結婚を考えてだよ」
「けけけ、結婚」
リリーはもう、泡を吹いて倒れんばかりだ。
「何年か後、開業するつもりなんだ。そうしたら手伝ってほしい。一緒に働けたらとてもうれしいんだ。ずっと一緒にいられる」
アーサーはそう言って、リリーの手をきゅっと握った。
「ででで、でも、公爵家と男爵家じゃあ……」
「きみも知っている通り、公爵家とは言ってもわたしは庶子だ。名ばかりなんだよ。実際関わることもないしね。父に会ったことも数えるほどだ。犯罪でも犯さない限り放置だよ。心配はいらない」
アーサーはきっぱりと言ってくれた。そうではあるが。
「どうしてわたし?」
「きみはわたしにとって、一服の清涼剤なんだよ。
「せ、せいりょうざい……」
「そう。立場上面倒なことが多くてね。バークレー公爵の身内だってことでしがらみも多いし、それに上辺だけ見てちやほやされても正直疲れる。そんなとき、きみを見ていると癒されるんだ。青筋立ててがんばっているアピールもないくせに、仕事はきっちりできている。患者一人一人のことをしっかり考えて調合してあるから評判もいい。ああ、きみは見えないところで頑張っているんだな、そう思うとわたしもしっかりしようって思うんだよ。きみの笑顔がなによりのエネルギーだ」
……ほめすぎじゃないですかね。
「医局にきみがいてくれてよかった。きみがいなかったら、わたしはとっくに潰れていたよ」
「おおお、大げさでは」
「大げさじゃあないよ。心の底からそう思っている。信じてくれるかい?」
透明なブルーの瞳がじっとのぞき込んでいる。
「は、はひぃ」
そこから先は記憶があいまいだ。
家まで送ってくれて、両親にもあいさつをしてくれて。
正式にお付き合いが始まることになって。
医局でもすれ違いざまに小さく手を振ったりして。にこっとほほえんだり。なるべく時間を合わせて一緒にランチをしたり。
休みの日には公園に散歩に行ったり、美術館に行ったり、晩餐に呼んだり呼ばれたり。
リリー。
アーサー。
そんなふうに呼び合うようになって。別れ際には、ちゅっと軽く触れるだけのキスを。
看護婦たちからは睨まれたが、医局の同僚たちは、ニヨニヨしながら生ぬるく見守ってくれた。
後から思えば、この時期が幸せのピークだったと思う。
そんなある日のこと、めずらしくアーサーの眉間にシワが寄っていた。リリーと会ったというのに、眉間のシワが取れない。
「……なにかありましたか?」
アーサーはしばらくリリーの顔を見つめて、なにか言いかけた。言おうか言うまいか。迷った挙句にかぶりを振った。
「なんでもないよ。きみが心配することはなにもないからね」
そう言って笑いかけてくれたけれど、いやいや、その言い方は余計に気になりますが。アーサーはその件に関しては、それきり何も言わなかった。
やはり公爵家からなにか話があったのじゃないだろうか。男爵家ではダメだとか。アーサーは一緒に仕事をしようと言ったけれど、仕事をする女なんかダメだとか。
一般的に貴族女性は結婚したら家庭に入り、家のことを切り盛りするものだ。家計や使用人のこと、親族のお付き合いを含め社交のことなど。職業婦人が出てきたのも最近のこと。ましてや上級貴族ならばもっての外。
アーサーは今は宿舎住まいなのだが、結婚にあたって家を探している
「小さくてもいいから家族が楽しく暮らせる家がいいな。おれは父と暮らしたことがないからね。そういうの憧れていたんだ」
アーサーが「おれ」って言う。仕事では「わたし」。プライベートでは「おれ」。てへ。
「そして開業先を見つけよう。もしかしたら地方になるかもしれないけれど、いっしょに来てくれるかな? 医者がいなくて困っている人たちを助けたいんだ」
答えはもちろんイエスだ。男爵家のことは兄に任せればいい。さいしょからそのつもりだった。
リリーは家事もできるから、使用人だって最低限でいい。
少々の不安はあるものの、未来は開けていた。
そのはずだった。
国境付近で紛争が起きた。
元々折り合いの悪かった隣国との国境線をめぐる争いである。今回は規模が大きく、辺境伯軍だけでは足らず王都から王国軍が援軍に向かうことになった。
もちろん医療班も同行する。アーサーも行くことになった。戦地である。万が一ということもありえるのだ。好き好んで行く者はいない。家族がいたらなおさらだ。だから若手で独身のアーサーが手を挙げた。
期間は一か月。
「必ず帰ってくるよ。前線に立つわけじゃないんだ。医療班は司令本部にあって、安全なところにあるんだよ。じゃないと安心して治療ができないだろう? だからだいじょうぶ。絶対に無事に帰ってくるから、待っていて」
アーサーはそう言って出発していった。




