第1話 読みにくいのに神作
まる助です。三作目です。
本作は女性主人公の一人称で進む師弟もののコメディです。
完結済みのため、初日は3話まで投稿し、その後は毎日19:40に更新します。
小説を読むのは、私にとって呼吸に近い。
食事中も、移動中も、授業の隙間にも、気づけばスマホを開いて投稿サイトを見ている。意識してそうしているわけじゃない。三年も続けていると、もう手が勝手にそこへ向かう。
今日も学食のテーブルに座って、私はランキングを斜めに流していた。周囲ではサークルの話やバイトの愚痴が飛び交っている。私だけがスマホを覗き込んで、小声で何かを呟いている。
「このヒロイン、ここでまだ自覚しないの……たぶん遅らせ方が意図的なんだよね。告白のあとに沈黙が三行あるのに心情説明がゼロ。これ、次の章で回収するつもりでしょ」
向かいで唐揚げ定食を食べていた常盤あかりが、箸を止めずに言った。
「また読んでる」
「またじゃない。常時」
「怖っ」
「読むのは呼吸だから」
「人は呼吸で乙女ゲーム転生を読まない」
正論だ。でも別に反論するつもりもなかった。
画面上で指を滑らせながら、私は新着のサムネイルを流す。タイトル、あらすじ、文字数。三秒あれば大体わかる。これは入口が広い、これは情報量が多すぎる、これは好きなやつの空気だ。
そうやって百本に一本くらい、手が止まる作品がある。
今日は止まらなかった。
あかりが席を立ち、私もなんとなく立ち上がり、学食を出て、キャンパスの端にあるベンチに移動して、それでも私の手はまだ動いていた。
帰り道の電車の中で、一つの作品を見つけた。
厳密に言えば「見つけた」というより、タグ検索を何度か繰り返すうちに、ランキング外の作品がふと引っかかった。
タイトルに惹かれたわけでもなく、あらすじが上手かったわけでもない。なのに目が止まった。
理由はあらすじの最後の一文だった。
この世界の文明が、外から来た者の手によって加速するとき、何が失われるかを誰も問わなかった。
説明ではない。問いかけでもない。ただ、事実として書いてある。なのに、妙に残った。
「……開いてみるか」
独り言だった。電車の中で一人で呟いて、タップした。
最初の二段落で、「え、導入、重くない?」と思った。
主人公の名前が出てこない。世界の説明が少ない。行動の理由より状況の描写が先に来る。
異世界転移した経緯は、「そういうことになった」とだけ書いてあった。見落としたかと思ってページを戻したが、本当にそれだけだった。
(まだ恋愛始まらないの?)
始まらない。
(これ、読者に優しくないやつでは?)
優しくない。明らかに優しくない。
一回閉じた。
三十秒後に開いた。
「……でも、この一文ちょっと変だな」
主人公が初めて口を開く場面だった。
短い台詞。感情の説明はない。なのに、何かが引っかかる。読者に都合のいい台詞ではなく、この人物がこの場で言いそうなことだけが書いてある。
ツッコミのつもりだったのが、いつの間にか目が観察に切り替わっていた。この書き手、説明を省いているというより、何を省くかを選んでいる。
電車のドアが開いて閉まって、また開いて、気づいたら乗り過ごしていた。次の駅で降りて、一駅分歩きながら、私はまだ画面を見ていた。
引きずられていた。
読みやすくはない。展開は遅い。恋愛要素は今のところほぼない。それでも読み続けている自分がいる。
「これ、たぶん後で効く一文だ」
また口から出た。主人公がほとんど感情なく話した台詞が、伏線だと直感した。確信ではない。でも、この書き手がそれを無駄には置かない気がした。
自室に帰り着いたのは七時だった。
鍵を開けながらスマホを持っていたので、靴を脱ぐのに三回失敗した。
机の前に座ったはずなのに、気づいたらベッドの上で体勢を変えながら読んでいた。うつ伏せから仰向けになり、仰向けから横向きになり、腕が疲れて枕に立てかけた。
水を取りに立ったはずなのに、冷蔵庫の前で立ったまま続きを読んでいた。
読み終えたとき、時計は深夜二時を回っていた。
七時間。
読み終えて、しばらく動けなかった。そういう読後がある。面白かった、では済まない読後。感情ではなく、何かもっと底の方が揺れた感覚。
こういうふうに人の言葉が自分の中に入ってくることが、あるのだと思った。現実では、そんな経験はほとんどない。少し驚いていた。
誰かに薦めたいとは思わなかった。正確には、雑に薦めたくなかった。「面白いよ、読んでみて」で渡せるものじゃない。
あかりに勧めたとして、あかりが「よく分からなかった」と言ったとして、そのとき私は怒るかもしれない。それが嫌だった。
代わりに、作者ページを開いた。
名前は「まる助」。
プロフィール欄には、短い挨拶と、作品一覧が並んでいた。
まる助です。
市場に合わせる努力をしています。
気になるものからどうぞ。
そのあとに、連載中の作品、完結済みの作品、開始予定の作品が、淡々と列挙されていた。
市場に合わせる努力をしています。
その一文を、私は二回読んだ。
媚びる、とは少し違う。
読まれることを無視しているわけでもない。
でも、全部をそこに合わせるつもりでもなさそうだった。
作品一覧を見た。ジャンルはあまり揃っていない。入口の広そうなものもあれば、明らかに狭そうなものもある。
感想欄に飛んだ。数は少ない。でも、ついている感想はどれも短くない。雑に褒めている人がいない。この作品にちゃんと引っかかった人だけが書いている感じがした。
活動報告まで遡った。書き方の考察や、分析らしき文章が並んでいた。理屈っぽい。でもなぜか少し、ほっとした。
完全にハマったオタクの動きだった。
作品を読んで、作者を調べて、過去作を開いて、感想欄を見て、活動報告を掘って。ここまできたら、もう普通の読者ではない。
どうしてほっとしたのかは分からない。ただ、自分の感情の動きを観察しながら、私は気づいていた。
もうこの人を、普通の書き手として見ていない。
ただ面白い、では済まない神作品に出会ってしまった。




