第二章:女王様の不器用な看病
その異変は、唐突に訪れた。
「……っ、寒……」
ある朝、全身を鈍器で殴られたような関節痛と、異様な悪寒で目が覚めた。
重い瞼をなんとか開けると、視界がぐわんぐわんと揺れている。どうやら、季節の変わり目の寒暖差に見事にやられてしまったらしい。額に手を当てなくても分かる。これは間違いなく高熱だ。
普段なら、俺がモソモソと布団で動いた瞬間に飛んでくるはずの影がない。
しかし、時計の針がいつもの「朝食の時間」を回った途端、ベッドの足元から容赦のないモーニングコールが響き渡った。
「にゃんっ!!(朝ご飯!)」
「ご、ごめん……たまこさん……今日、ちょっと……」
声を出そうとしたが、掠れた喉からはひゅーひゅーという情けない空気の漏れる音しか出なかった。
起き上がろうと力を込めるものの、鉛のように重い体はベッドに縫い付けられたように動かない。そのまま、俺は力尽きて再び枕に頭を沈めた。
「にゃん?(……おい、どうした?)」
いつもなら、俺が起きるまで顔を前足でベシベシ叩いてくるか、耳元で重低音の唸り声を上げるはずのたまこさんが、ピタリと動きを止めた。
俺が本当に起き上がれない、ただごとではない状態だと察したのだろう。
ドタドタという足音が一瞬聞こえた後、部屋には奇妙なほどの静寂が訪れた。朦朧とする意識の中で、俺は「たまこさんのご飯、どうしよう……」という下僕としての責任感に苛まれながら、再び深い眠りへと落ちていった。
* * *
次に意識が少しだけ浮上したのは、夜の静寂の中だった。
熱はまだ下がっておらず、息をするだけで喉が焼けつくように痛い。全身が熱く、汗でパジャマが肌に張り付いて不快だった。
(……水、飲みたい……でも動けない……)
暗闇の中で一人苦しんでいると、耳元で『ポスッ』という小さな音がした。
薄く目を開けると、俺の枕元に何かが置かれている。それは、ボロボロになったピンク色の豚のぬいぐるみ。たまこさんが子犬の頃から愛用している「絶対に他人には触らせないお気に入りのおもちゃ」だった。以前、俺が掃除のついでに触ろうとしただけで、本気の犬歯を剥き出しにして怒られたあの伝説の豚である。
(たまこさん……?)
驚く暇もなく、今度は熱を持った俺の頬に、ひんやりと冷たくて湿ったものが触れた。
たまこさんの鼻先だ。彼女は俺の顔をジッと覗き込むようにした後、ため息を一つ吐いた。
そして、普段は絶対に俺の狭い万年床などには近づかない(「私の高級ベッドより質が悪い」という理由で)たまこさんが、ごそごそと布団の隙間から潜り込んできたのだ。
彼女は俺の首元にピタリと身を寄せると、そのふわふわで温かい体を丸くして、そっと目を閉じた。
「……ありがとな」
掠れた声でそう呟くと、たまこさんの尻尾が布団の中でパタ、と一度だけ小さく動いた。
その優しくて温かい体温に包まれながら、俺の意識は今度こそ、穏やかな眠りへと溶けていった。
* * *
翌朝。
窓から差し込む眩しい朝日で目を覚ますと、昨日の地獄のような苦しみが嘘のように体が軽かった。どうやら、熱は完全に下がったらしい。
「ふぁ〜……よく寝た……」
体を起こそうとして、ハッとした。
枕元には、昨日確かに置かれていた豚のぬいぐるみ。そして首元には、まだスースーと規則正しい寝息を立てているたまこさんが丸まっていた。
(あの女王様が、俺の看病をしてくれたのか……)
胸の奥がじんわりと温かくなる。普段は横暴でワガママで計算高い彼女だが、本当は俺のことを大切に思ってくれているのだ。
俺は感動で少しだけ潤んだ目で、愛しい同居人の頭をそっと撫でようと手を伸ばした。
その瞬間。
バシィィィィンッ!!!!
「痛ぁっ!?」
目にも留まらぬ速さで繰り出された、たまこさんの強烈な右ストレート(犬パンチ)が俺の鼻面を完璧に捉えた。
たまこさんはガバッと起き上がると、いつものようにふんぞり返り、見下ろすように俺を一瞥した。
「にゃん!!!(さっさとご飯!!!)」
そこに昨晩の慈愛に満ちたナイチンゲールの面影はない。あるのは「熱が下がったなら、下僕としての業務をさっさと再開しろ」という絶対君主の冷徹な眼差しのみ。
「いっっっつ! 鼻もげたかと思った……」
涙目で鼻を押さえながら、俺は思わず吹き出してしまった。
まったく、このツンデレ暴君には敵わない。
「はいはい、たまこさん。ただいま、極上の朝ごはんをご用意いたしますよ」
俺は嬉しそうに立ち上がると、昨日開けられなかった高級缶詰の元へと、軽くなった足取りで向かうのだった。




