海の侘しさ
――暁を見たのはいつぶりであっただろうか。
自由の根源、ただ在るという事を謳歌し、空いた腹が鳴るのを時に我慢し、そして時に海を呑む。
口を開ける前、海を割って顔を出した後、空に色が在ると知ったのはいつの事だったか。
明るいか、暗いか、灰色の瞳に写る景色はそのどちらかであり、咀嚼する頃には既に忘れているものでもあったが。
だがあれは……そう、時さえ定義されていない頃のこと。
真紅――、極彩色から赤だけが飛び抜けて輝く様。
海面へと上がった灰色の瞳を塗り替えるが如き鮮烈さは、
朝が夕に落ちる様な、夜が黄昏に開けていく様な、
明暗のみであった認識に新たな色を与えてくれた様な。
慣れ親しんだ海底の冷たさに、侘しさを抱くほどに……。
さして与えられた役割も無く、世界と自由の根源に座しながら、それでも望んだ。
もう一度、あの暁を見てみたいのだと。
「――――」
頭上を飛ぶ気配に、周期さえ乱して顔を上げてみれば――。
「…………」
そこに在ったのは小さき炎、しかして色は紛うこと無き真紅の暁。
並ぶ山岳の如き歯、胃の空間へと送る為にだけある舌、
だらしなく開いていると自覚させられて口を閉じ、
灰色の、水の溜まった瞳を向けてその色を視る。
――海流掌握。
旗艦を前にして音も無く止まった巨躯に、オルネアは剣を向けるでも無く、ただ額に剣を構え炎を迸らせる。
かつて、前戦都市ダンビートで経験した、白金の魔獣王エルドアレーヴェとの種を超えた会話。
交わる真意の邂逅、その再演であった。
「――――」
瞼も無く、視線を探ることも出来ない瞳であったが、
オルネアはその視線を直に受けていると自覚していた。
無意識に放たれる威圧感に鎧が鳴り、全身が総毛立ち、骨が軋み始める。
それはドラゴンにも引けを取らない圧倒的存在強度の成せる業。
――それを、真正面から受け止める。
心臓で熾した炎が両腕に流れ、
柄から剣に雪崩れ込み、
刀身から溢れ、
限界など知らぬ火力が夜を何処までも黄昏に染めていく。
故に――。
リヴァイアサンは食事の摂理を捻じ曲げてでも撤退することを選び取った。
理の十三階層【存在】に因って海に棲むと定められた以上、
伸ばして掴み、開けて呑み込んだとしても……。
街ひとつある鱗であろうと、その層を百ほど重ねたとしても……。
あの暁の前には、――意味も無し。
それがいつぶりであろうと、海流掌握は淀みなく機能した。
ただ真っ直ぐ進む為の魔力の流れを、
身体を回転させる様に捻じ曲げ、
海底深くへと、侘しさ抱えて沈んでいく。
――暫くすれば、空が染まる。
――落ちれば呑めるか、落ちても呑めずか。
――三度の機会も在れば、態々叩き落とすまでもない。
真意の独り言。それは距離が空いて繋がりの切れたオルネアには届かず。
波のひとつも立たせない巨躯の潜行に皆が胸を撫で下ろしている事も相まって、
浮かび上がることも無いままに海底へと沈んでいった。
操舵室からヨロヨロと足の覚束ない様子で現れたイズナリは、安堵と焦燥、
または混乱からか、口に付ける筈の酒瓶を頭の上で逆さにして浴び始める。
「は、はは……。
ドラゴンとやらに挑む前に……し、死ぬとこだったなぁおい……」
その背にしがみ付くアルアも半ば放心しており、酒まみれになったイズナリの頭を
まるで洗髪するかのように指を絡め忙しなく動かしている。
「えへ、えへっへ、私は信じてましたから、えへぇ、
きっとオルネアさんがどうにかしてくれるってえへぇっ。
リヴァイアサンによる摂食行動は生態系の循環も調整する物でして、だから傷つけないようになんてお願いしそうになりましたけどあの大きさの前にはむしろもうそんなこと云ってられないぐらいになってしまって今にして思えば私だけ転移で逃げられたんですけどイズナリさんが私の耳を思いっきり掴んで泣き叫んでいたのでそれも無理で――」
「お前ぇッ!! やっぱ逃げようとしてたのか! そんで泣き叫んではいねえよ!!」
「泣くのは生存本能っ! 私が逃げようとしたのも生物に当然備わってる生存本能ですから仕方無いっ!!」
甲板で始まるイズ・アル劇場。
力の抜けた船団員たちの顔に笑みが戻り始める。
それは当然だった――。
それは笑みの戻った甲板上のことでは無く。
それはいつもの調子を取り戻したイズナリやアルア、船団員の事でも無く。
それは、去ったはずの脅威に、未だ炎を燃え盛らせるオルネアに起因していた。
肌に落ちる水滴、俄雨。
月光と炎に照らされて現れる、都市国家級の……。
――尾鰭。
潜行する身体の余波で振り上がった尾鰭が、天空を掻き乱すほど持ち上がっていた。
偽りも誇張もなく、正しくその大きさは都市国家級。
叩き落とされて巻き起こるであろう大津波は、想像すら忌避される規模であると容易に理解させられる。
不意の回転こそ無く、食事という摂理を通常通り終えていれば本来はなかったであろう結末。
神話を動かすとき、そこには結果という代償が付き纏う。
だが――。
ここに来てまだ。
その意思を衰えさせず。
滾り、迸り、燃え盛る炎を煌々と掲げる剣士は。
天が落ち――。
海が空き――。
逆さになった天地――。
故に降る海そのものを……。
「――ォオオオオオッ!!!!」
纏い、
籠め、
放つ剣閃に乗せた炎の全てで以て、
――降る海を消し去る。
紅蓮の軌跡に水が平伏し、切り裂かれた津波が端から一気に蒸発。
夜の海原を切り裂き、降る海を雨へと変換せしめる暁の一閃。
肌に落ちるは既に水滴では無く、柔い塩の雪のみ。
残心――、散っていく海を見上げるオルネア。
月光が色移りした雪が、鎧に、剣に降り積もる。
炎の大部分を消費した実感を持ちながら、炎に因る背の翼も未だ健在。
背に収める前、力を込めて剣の柄を握り込み、二人の力を併せたその実感を確かなものとする。
塩の雪が降る異常気象と化した海を背に船首へと舞い戻ると、
呆然と立ち尽くす船団員とイズナリ、その間から覗くアルアも流石に目を丸くしていた。
それは尊敬から来るもので間違いなかったが、所謂、逸脱者を見る目でもあった。
強きこと――。久しくその疎外感を味わっていなかったオルネアは居心地の悪さに詫びるように、
尾鰭の一撃で舞い上がっていた空から降ってくる大魚を両手で受け止め……。
「……これって、食えるか……?」
圧倒的強者の見せる、はにかんだ薄ら赤い顔。
ハッと一笑に付したイズナリが酒盛りの準備をし始め、雰囲気が解けていく。
危機的緊張感の糸が切れたのか、はたまた食欲を刺激されたのか、アルアも駆けより大魚の蘊蓄が始まった。
「この魚はビシメグカといいまして、三層の脂が程よく赤身に溶け込んだ高級魚です!
ただ鱗が堅く並の包丁では捌けませんっ……なのでぇ~?」
アルアのニヤけ面がオルネアの背に収まる剣に向いたので、そっぽを向くオルネア。
――問題無く切れるが?、と鳴りそうになる剣を必死に抑えて水平線を見やると、
明けかけの空の下やっと本物の島が見え始めていた。
「おおっ、さっそく見えてきましたね~。 あれが港町ベイです。
漁業盛んな町で船の修繕は勿論ですけどあそこの教会には……あっ! いいこと思いつきました!」
パンッと手を合わせて涎を垂らす腹ペコエルフは、聞き慣れない店を叫んだ。
「このビシメグカ、寿司屋に持って行きましょう!!」




