閑話1.楠見家
※楠見絵梨菜の母親視点です。
その日、私は早朝から町内会の清掃作業に参加していた。
出かける直前、絵梨菜が一緒に玄関まで来て。絵梨菜も参加してくれるのかと思ったのだけど、違ったらしい。まだ外出には早すぎる時間なのに、買い物に行ってくると言い残して、どこかへ出かけてしまった。絵梨菜も、小学生の頃は町内会のイベントにも喜んで参加していたのだけど。中学生になってからは一度も参加したことがなかったから、その時は特に何も思わなかった。
清掃作業が終わって、帰宅して。主人が何やら妙な顔をしていた。
事情を聞くと、絵梨菜の同級生の男子が訪ねて来たらしい。
絵梨菜も年頃だから、そういう事もあるだろうなと特に何とも思わなかったのだけど。主人は何か引っかかる物があるらしい。
詳しく聞くと。その男子は何やら焦っているというか、不安そうにしている様子で、絵梨菜の不在を伝えると、「探してきます」と言い残して慌ててどこかへ行ってしまったらしい。
その話を聞いて。
朝から絵梨菜の様子も少しおかしかった気がしてきて。
私は慌てて絵梨菜の部屋に駆け込んだ。
部屋の中は、普段どおりだったのだけど。机の上に、茶封筒が置かれているのを見つけた。
不安に思いつつも、中身を取り出して。私は絶句してしまった。
それは、『遺書』と表題が書かれた紙の束だった。
私は、震える手を押さえ込みながら、どうにか紙を捲って、中身を読んだ。
そこには、死を決意した理由が書かれていた。
先週、遅く帰宅して。転んでスカートが破れたと絵梨菜は言っていたけど。あの日、そんな目に遭っていたとは。
そして。途中からは、自分のことを心配してくれているクラスメイトのことが綴られていた。
「──どうしたんだ?」
普段、絵梨菜から部屋には絶対に入るなと言われていて気兼ねしていた主人が、私が部屋から出てこないことを気にして入って来た。
私は何も言えず、遺書を主人に差し出した。
主人はそれに目を通して。途中で遺書を投げ出して、慌てて家の電話機まで走って行った。
私は、散乱した遺書を拾い集めて。封筒に入れたところで泣きだしてしまった。
案の定、絵梨菜の携帯には繋がらなかった。おそらく電源も切っているのだろう。
警察に保護を求めて。
友人知人に片っ端から声を掛けて。
交代で付近を捜索して。
絵梨菜の遺書を見つけてから二時間ほど経って。
当ても無くなって、家に戻ったとき。警察から電話が掛かってきた。
娘が、遺体で発見された、と。
目の前が真っ暗になった。
私は倒れかけたみたいで、主人がそれを支えてくれた。
二人で、搬送先の病院まで行って。変わり果てた絵梨菜と再会した。
主人も私も、絵梨菜の亡骸の前で泣き崩れてしまった。
暫く何も出来ず、ただ泣いていて。少し落ち着いたところで、刑事らしい人が声を掛けてきた。
「絵梨菜さんが亡くなられた現場に、同級生だと名乗る男が居合わせたのですが……何かご存知ですか?」
そう言われて。主人と目を見合わせた。
「……今朝、絵梨菜が出かけた後……同級生の男子が家に訪ねて来ました」
主人が今日のことを答えて。
私は、それが遺書に書かれていた彼のことだと思い至った。
「ひょっとして……榊君、ですか?」
私が彼の名を呼んだことに、主人と刑事は片眉を上げた。主人は遺書を途中までしか読んでいないみたいで、榊君のことは念頭になかった様子。
「絵梨菜の残した遺書に……榊君がずっと自分のことを心配してくれていたって、書かれていたんです」
「……その遺書を見せて貰えますか?」
刑事に求められて。形見になってしまった遺書を差し出した。
刑事はそれに目を通して。やるせなさそうにため息を吐いた。
「今、彼には参考人として、署で事情聴取を受けて貰っています。──会われますか?」
絵梨菜のところに主人を残して。私は刑事に連れられて署まで来た。
そこには、絵梨菜の担任の先生と、もう一人、私と同年代と思しき女性が佇んでいた。彼女は、榊君のお母さんらしい。
先生は、悲痛な面持ちで私に深く頭を下げて。榊君のお母さんは、まだ事情を飲み込めていない様子で呆然としていた。
やがて。
事情聴取を終えたらしい榊君が出てきた。
「何があったの?」
榊君のお母さんが問う。けれど、榊君は何も言えずにいて。一緒に出てきた警察の人が事情を説明した。
「彼は、楠見絵梨菜さんが自殺しようとしているところに駆けつけて、彼女に思い留まるよう説得していたらしいのです。近隣のビルの防犯カメラに映っていた内容からも、そのことが確認されています」
やっぱり。
彼は、絵梨菜のことをどうにか助けようと駆けずり回っていて。そして、絵梨菜が死んでしまう前に、絵梨菜のところまで辿り着いたのだ。
私はまた涙が溢れてしまった。
何も言えずに俯いている榊君の手を取って。
「娘を……助けようとしてくれたんですね……ありがとうございました……」
思わず、そう言っていた。
彼は、私の言葉を聞いて。悔しそうに顔を歪ませて、涙をポロポロと零した。
「俺は……彼女を助けられなかった……彼女が何かに悩んでいることには気付いていたのに……でも……手遅れだった……俺は、何の役にも立てなかった……」
彼は、絵梨菜が遺書に書いている通りの人だった。
遺書には、こんな風に書かれていた。
『私が死んでしまったら。榊君には、音葉を死なせてしまったときみたいに、辛い思いをさせてしまうのかな。自分の責任じゃないのに、自分の責任であるかの様に、私のことを助けられなかったと自分を責めてしまうのかな。もしそうだったら、彼には申し訳無く思う。そして、私のことで気に病まないで欲しい』
なんて。絵梨菜の想像通り、彼は自分には何ら責任も無いのに、絵梨菜を救えなかった自分を責めて、涙を流してくれているのだ。
「理由は……遺書を残してあったから、知っています。あなたが気付いたときには手遅れだったことも。それでも、娘のことを気に掛けてくれたあなたには、感謝しています……」
娘が望んだように、彼に泣き止んで欲しくて、もう気に病むのをやめて欲しくて。そう、言ったのだけど。
彼は私の言葉に号泣してしまった。
彼のそんな姿を見ているのは心苦しかったけれど。それでも、娘のためにそんな風になってしまっている彼から目が離せなかった。
やがて。彼は搾り出す様に、言葉を吐き出した。
「俺は……絵梨菜さんに救って貰ったんです。音葉を目の前で死なせてしまった俺は……ずっと、落ち込んでいて。何も出来ずにいた俺のことを絵梨菜さんは……慰めて……励ましてくれて。なのに俺は……彼女を救うことが出来なかった──」
「いいえ」
私は、彼の言葉を遮った。
「絵梨菜は……あなたに救われていたと思います」
彼は信じられないという風に、私を見つめた。
でも。私は、既に救われているのだと思った。
「絵梨菜は……死んでしまうことを選んではしまいましたが……それでも、あなたのおかげで……心穏やかに死ぬことが出来たんだと思います。絵梨菜の遺書の……半分以上はあなたへの感謝と謝罪の言葉が綴られていたんです。自ら死ぬことを選んだ娘が……死に追い込んだ犯人たちへの恨み言よりも、あなたへの言葉を多く残したんですよ。あの子がそんな風に思えるくらいには……あなたに救われていたんだと思います」
こんなことを聞かされても、彼の心が救われるとは思わなかったけれど。それでも、絵梨菜がどう思っていたか、彼には知って欲しかった。
彼は、がっくりと膝を付いて。
「そんな……うぅ……うわああああああああああああああああぁ……」
また、号泣してしまった。
ひょっとしたら。彼が絵梨菜と最後に会ったとき、絵梨菜に何か言われたのだろうか。
死の間際のこと、恨み言の一つでも残してしまったのかもしれない。
「……絵梨菜に、何か言われたんですか?」
彼にそれを問うてみたけれど。彼は、何も言わなかった。否定しないところを見ると、やはり何かあったのだろう。だけど彼は、それを口にする気は無いらしい。
それでも私は、娘の最後の言葉を知りたかった。
「お願いです、教えて下さい。娘が最後に何て言って死んだのか。恨み言だったのかもしれないけれど、それでも私はそれを知りたいんです」
彼は私を見つめて。黙って頷いた。
他の人には聞かせたくなかったのだろう、彼は嗚咽を堪えながら私の耳元に顔を寄せて、絵梨菜の最後の言葉を口にした。
私はそれを聞いて。その言葉の意味を理解して。思わず彼を抱きしめてしまった。
絵梨菜は、最後にそんなことを言ってしまったのか。それは、ただの恨み言ではなかった筈なのに。彼には誤解させてしまったことだろう。
「絵梨菜は最後に……あなたに、甘えてしまったんだと思います。あの子は甘え下手だったから……あなたに何も告げずに死ぬことを選んでしまったけれど……それでも自分のために……自分を救おうと駆けつけてきてくれたあなたには、最後の最後で甘えたくなってしまったのでしょう。だから、あなたがそのことを気に病む必要はないの……」
彼は絵梨菜の言葉に、自分を赦せなくなってしまっているみたいだった。
彼には全く責任は無いのに。
絵梨菜に彼を責めるような気持ちがなかったことは、遺書を読んだ私には明らかだったのに。
そのことを彼に判って欲しかったのに。私の言葉では、彼の心には届きそうになかった。
私はそれが、二人に申し訳なくて。
彼を抱きしめたまま号泣してしまった。
遺書を預けるための書類を書き終えて、主人と絵梨菜の元に戻ろうと警察署から外に出たとき。まだ榊君たちがそこにいた。
榊君は、お母さんと先生の声がまるで耳に届いていない様子で、呆然と立ち尽くしていた。
私はその彼の様子を見て、不安になって。もう一度、声を掛けた。
「榊君」
振り向いた彼の顔は。呆然としていながらも、何か覚悟を決めた様な感じに見えて。彼のその表情に、また涙が溢れてしまった。
「もう、娘のことで……気に病まないで。そして……娘の分まで生きてください……」
思わず、そんなことを口走った。
私の言葉を聞いた彼の顔に浮かんだのは──絶望だった。彼は、何かに絶望した様な顔で私を見て、涙を零した。
やはり彼は、思いつめるあまり『そんなこと』まで考えていたのか。
彼に『そんなこと』をさせてしまっては、娘に顔向けが出来ないから。私は彼の返事を待った。
彼は私に何か言い返そうとして。だけど、上手く言葉にできなかったらしく、悔しそうに「はい」と返事をして、俯いてしまった。
榊君のお母さんは、彼の心情を察した様子で彼を抱きしめて。私に深く頭を下げて、呼びつけたタクシーに彼を押し込んで帰って行った。
どうしてこんなことになってしまったのか。
二人はまだ付き合ってはいなかったみたいだけど。あれだけお互いのことを想い合っていた二人なら、きっと幸せな未来を掴み取れたに違いない。なのに、どうして──。
ちょっと長くなりました……




