31.自白剤
それから、千佳は毎日見舞いに来てくれた。もう学校を休んで来ることは無かったが、学校が終わると直ぐに駆けつけて来てくれていた。
やがて、退院の日取りも決まって。
千佳が「お祝いしなきゃね」と喜んで帰っていったその日の夜。
消灯時間をしばらく過ぎた後。何時ごろかは俺には判らなかったのだが、病室に、看護師では無い人影が入ってくるのに気付いた。
病院の外からの明かりだけだったが、音も無く俺に近付くその人物は久瀬さんだと判った。
彼女は俺の傍まで来て、動きを止めた。俺の目が開いていることに驚いたのだろう。
彼女の手には、注射器らしき物が握られていて。それで、状況は判った。
久瀬さんはリアリストだから、俺が情報を知っている理由を、敵と繋がっているからだとしか思えなかったのだろう。
そして、俺を始末しに来たのだ。
俺は、自分のことは最早どうでもよかったのだが、玲奈と絵梨菜のことが心配だった。
音葉の件で、彼女らも少しは危機感を持ってくれただろうか。俺の言葉を信じられなくても、そういう可能性に留意してくれさえすれば、逃れられるだろう。
なんて。
楽観的な言葉で自分を言いくるめようとしても。俺は自分の目でそれを確認出来ないことが不安でたまらなかった。
そして、千佳と音葉のことも心配だった。俺がここで死んでしまったら、千佳は音葉のことを赦さないかもしれない。そして音葉も、俺のことを気に病んでしまうだろう。
それでも。
生きてさえ、居てくれたら。
もう、俺にはそれだけでよかった。
千佳も、まだ俺とは付き合って間も無いし、目の前で死ぬわけでは無いから、時間のループは始まらないと思う。
後は、時間が解決してくれるだろう。
「久瀬さん」
俺が彼女の名前を呼んで見せたことで、彼女は勘違いしている事柄に確信を深めた様子で俺を睨んだ。
だけど、俺が動かないことを不審に思ったらしい。
「抵抗、しないのだな。そろそろ退院出来る程度には回復しているのだろう?」
「仮に、この怪我が無かったとしても。俺が久瀬さんに抗えるとは思っていませんから」
彼女にとって、俺は見ず知らずの人間。そんな俺に、自分のことを知った風に語られて、不愉快そうに顔を歪めた。
そして、俺の腕を掴んで。手馴れた様子で注射を打たれた。
「……お願いです……土原さんを救ってください」
そう言うのが精一杯だった。
もう俺がそれを目にすることは無い。
それでも、好きだった人たちのことが気がかりで。涙が溢れて、止まらなかった。
「──何をしているの!?」
唐突に、病室の明かりが点けられた。
「お、お嬢様!?」
入って来たのは玲奈だった。
久瀬さんは狼狽して、俺から手を離した。だけど、既に注射器の中は空だった。
玲奈は久瀬さんの手にある物を見て。般若の様な顔で久瀬さんを睨んだ。
「──口封じのつもり!?」
「誤解です! まだ、殺すつもりなんてありませんから!」
そうなのか。だけど、まだ、なんだな。
「これは、ただの自白剤です。強力な物ではありますが、命を奪うような代物ではありません」
「そう……。だけど、あなたは私から言われたことを身をもって体験したのでしょう? なら、彼の言う事は──」
「いいえ、そんなことはありえませんから。この少年は、私たちの知らないところで連中と繋がっている筈です。だから、それを今から証言させるのです」
それから暫くして。俺の意識は朦朧としていた。薬が効いてきたらしい。
酩酊感の中、俺は色んなことを聞かれた気がする。
そして、都度それに何かを答えていた。
だけど、その内容を俺は何も覚えていなかった。
次に意識がはっきりしたのは、翌朝のことだった。どうやら俺は、尋問の後眠ってしまったらしい。
目を開けると、傍にはまだ玲奈が居た。
「おはよう」
玲奈が泣きそうな顔になっていたから、俺は玲奈の頬に手を伸ばして、なんでもない風に挨拶してみたのだが。
玲奈は俺の手を握って、俯いてしまった。
昨夜、俺は何を喋ってしまったのだろうか。
「土原さんは、昨夜は何しに来たんだ? 夜這いか?」
深刻な雰囲気になるのを嫌って、そんな冗談を口にした。俺のことで、変に負い目を感じて欲しくは無かった。
「……それであなたが赦してくれるのなら、今からしても構わないのだけど。その体じゃそれもまだ無理でしょ」
軽口に、軽口で応じてくれた。
「赦すも何も。ただ、俺の言葉を信じて貰えなかっただけのことだろう?」
「私が信じなかっただけなら、まだそう言えるかも知れない。だけど、私は……あなたの思いを踏みにじった」
玲奈は静かに涙を零した。
「あなたはただ、私たちの身を案じてくれていただけなのに。私はそのことを信じなかったばかりか、他の人にまで言いふらしてしまった。そして、そのせいで、あなたの思いを台無しにしてしまうところだった。私がそんなことをしなければ、三城谷さんのことだって、あなたはもっと安全に助けることが出来た筈だった」
玲奈は自分を責めているらしい。
「……そう上手く行ったかどうか、怪しいけどな。三城谷は前からあんな調子だったし、俺の言う事なんてろくに聞きやしねぇから──」
「それでも。あなたは、三城谷さんや楠見さんに、そのことを知られたくなかったのでしょう?」
昨夜俺がそれを喋ってしまったのか、玲奈が想像してそれに思い至ったのか。
「まぁ、ね。俺が助けたことで、負い目を感じて欲しくは無かったんだ。そしてそれは、土原さんに対しても、なんだけどな」
努めて、優しくそう言ったつもりだったのだが。
玲奈は、俺の言葉に両手で顔を覆って、俯いてしまった。
「無理よ! 負い目どころの話じゃ無いわよ……昨夜、あなたは久瀬に殺されると思っていたのに……抵抗するでもなく、自分のことはお構いなしに……ただ私のことを救ってくれと、泣きながら懇願してくれていたでしょう……? それなのに……私は……私たちは、無辜なあなたにあんな酷い仕打ちをしてしまった。私、久瀬にもあなたに言われたことを話してしまっていたの。久瀬とは長い付き合いだったから……彼女が嘘を吐いても見破る自身があったのよ。そして、久瀬はもう何年もお爺様からは連絡すら受けていないって言ったの。だから、私はあなたのことを嘘つきだと……私を陥れようとしているんだと決め付けてしまった。あなたが家の内情を知っていたという事実は否定出来なかったのにね」
彼女は顔を上げて。涙を流しながら俺を見つめた。
「昨日……久瀬の様子がおかしかったから……後をつけたのよ。そうしたら、この病院に辿り着いた。久瀬には、あなたを殺すつもりがなかったから良かったのだけど。もしその気があったなら……私はあなたを死なせるところだった」
「久瀬さんが何時頃それを命じられたのか知らなかったから。そのことも告げるべきだったんだな」
「ううん。あなたが未来のことを話していると察した時点で、私はそのことも考慮すべきだったのよ。だけど、それ自体が信じられなかったから……勝手にその考えを除外してしまった」
玲奈は力なく項垂れた。
「俺は昨夜……どこまで話したんだ?」
「……私に関わることは全て……そして、あなたが体験してきたことも大凡聞かせて貰ったわ。あなたの心情までは、全て聞き出せたとも思ってはいないけれど。あなたが覚えている限りのことを……そして、あなたが──私を選んではくれなかったことも」
やはり。そこまで聞き出されてしまっていたのか。
「すまない。俺は不器用で……気が多い男だからさ。玲奈のことも、本気で好きになっていたし、今でも好きなんだと思う。だけど、皆に好意を向けられたら……俺は誰も選べなかったんだよ。そのせいで、皆を不幸にしてしまった」
玲奈は目を閉じて、深くため息を吐いて。
「あなたの気持ちをもっと教えて欲しい」
玲奈は俺に顔を寄せた。
「どうして、神林さんだったの?」
それは嫉妬とかではなく。純粋に、興味を持ったみたいだった。
その質問が出てくるという事は。実際に俺が体験した事柄以外は聞かせていないのだな。
「それが、一番自然な形だからさ。そもそも、このループの発端が……俺と千佳が付き合っていたことに起因するんだよ」
「……えっ?」
「俺と千佳が付き合って。クリスマスイブにデートの待ち合わせをしていて。その時、俺は千佳を庇って、交通事故で死んでしまったらしいんだ。そして、千佳はその事実を拒否しようとして、それが引き金になって、時間移動が始まったらしいんだよ」
玲奈は目を瞬いた。
「あなたはそのことを……覚えていないの?」
「ああ。俺はそこで死んでしまったし、時間移動したのは千佳一人だけみたいだ。そしてその後、千佳が三回ループする間のことも、俺は記憶していない。俺の記憶は、千佳の五回目の三年生からなんだよ」
「そう……なんだ。──でも、神林さんは?」
「ああ。この時間軸の千佳は……何も覚えていない。俺には、状況が何も判らないんだよ」
今まで考えないようにしていたことに思い至って。涙が溢れてしまった。
「俺が戻る前の時間軸がどうなったのか……まだその時間軸は存在していて、そこでは皆が苦悩しているんじゃないかとか……俺だけ時間が巻き戻ったんじゃなくて、千佳は俺と逸れて別の時間軸で、また一人ぼっちで苦しんでいるんじゃないかとか……そう考えたら、この身が引き裂かれる思いだよ。だけど俺には、他の時間軸のことは認識出来ないから……せめてこの時間軸の皆のことを、大切にしようと思ったんだ……」
「そして、そんなあなたの思いを、私は……。でも、後のことは任せて。私は絶対に死なないし、あなたに言われたお願い事も、昨夜手配させたわ。だから──」
唐突に、唇を奪われた。
前回の玲奈は、そんな積極的な行動に出ることは無かったから、完全に油断していた。いや、油断してなかったとしても、俺にそれが拒絶出来たとも思えないが。
「これくらいの役得は……赦して貰えるわよね?」
玲奈は髪をかき上げながら、不敵に笑った。
俺は、混乱してしまった。
俺の心情については、彼女に聞かせてしまったけれど。彼女の感情までそれに左右されるとは思わなかったのだ。
「……どうして? この時間軸の君には……俺のことはつい先日まで、侮蔑の対象でしかなかったのだろう?」
「それ自体、私の勘違いでしかなかったのだし。そして、私は想像力が豊かだと自負しているの。あなたからの話を私なりに考えて。……今の私もそうであることが自然に思えたのよ」




