第3章 痕跡③
「奥の……母屋にも行ってみたけど……。ほとんど崩れて元の形、わからなかったよ……」
音環はひざを抱えた。そして、その肩は震えていた。
「すべっタロー……」
音環は絞り出すような声でつぶやいた。そして、閉じた口からは声にならない嗚咽が漏れた。
門亜はふいに足元が軽くなったような気がした。そして、息苦しさから解放される瞬間、体が地面に当たる衝撃を感じていた。
遠くなる意識の中で、音環が自分の名前を呼ぶ声が聞こえるような気がした。
門亜は目が覚めると、聞きなれた音楽が流れていることに気が付いた。
これは……逢瀬だ。でも、おかしい。カズヤが歌っている。
カズヤはこの歌だけは歌えないのに……。
門亜はゆっくりと体を起こすと周りを見た。机の脇に大きな本棚。分厚い、金融関係の本がぎっしり収まっている。
そして、物置を思わせる小さな窓。……音環の部屋だ。
そうか……ボク、息苦しくなって倒れちゃったんだ。音環、ボクを運んでくれたんだよね。重たかったよね。
音環はベッドに寄りかかりながら、ノートパソコンの画面を見ていた。
音楽はパソコンのYouTubeから流れていた。
ギシ……とベッドのきしむ音がすると、音環は、門亜の方を向かず、画面に話しかけるようにつぶやいた。
「聞こえるか……逢瀬。これも、カズヤの声になっている……」
音環は疲れたような声を出した。
門亜はベッドを降りると、音環の横に座ってパソコンの画面を見た。
YouTubeでは見慣れたMVが流れていた。中央の、すべっタローがいたあたりでは、歌っている姿がなくなっていた。代わりに人のような輪郭をした“光”が揺れていた。
「アニメ風のはすべっタローのいたあたりに大きなリボンが置いてあったよ。カズヤに聞いたら……映像も知らないうちに、色々変わりだしていると言ってた……」
門亜の両目から涙がこぼれおちた。音環はラインの画面をそっと門亜に見せた。
「すべっタローがやっていた門亜のおじさんとのやり取りも……。俺がやっていることになっている……。メッセージが増えていて……気が付いた」
門亜はメッセージを眺めた。そこには、潜入捜査の時に着る服を買ってきてくれるよう依頼する伯父のメッセージがあった。そして、かわいいものか美しくないと着ないと思いますよ、と音環の言葉で返事をするメッセージもあった。
あの時、みんなの前で綺麗なドレスを着たときに、すべっタローが言った言葉だ。
門亜の目の前の黒いベールがさらに覆いかぶさったような気がした。
「ボク……6年生の時に、すべっタローと3人でラッシュガード着たの、覚えてるよ。すべっタローだけ黒だったよね。すべっタローの家でカレーも食べたよね……。
ねえ、楽しい時間を過ごすと、なんで誰かが消えていくの……カイ兄ちゃんもすべっタローも……」
息苦しい、と言う門亜に音環はもう少し休んでいくよう言った。
門亜がベッドに戻って布団をかぶると、音環は思い出したように部屋の隅にあったギターを持ち出した。
そして、ポロン……と軽く弾いて音がずれていないことを確認すると、静かに、ゆっくりと音を奏で出した。
温かみのある音は、夜の空気と共鳴してまるでろうそくの炎のように心を照らした。
夜の闇に溶けだしていくような音に、門亜はすっと眠りに引き込まれていった。
……オレンジ色の光が揺れているような気がした。揺れる光に門亜が再び目を覚ますと、音環の後ろ姿がシルエットのようになっていた。
「ごめん……しっかり寝ちゃった」
門亜は体を起こした。
音環は、いや……と言いながら、ギターを弾く手を止めなかった。
今何時、と聞くと、時間は日付を超えようとしていた。
「ありがとう。明日仕事だから帰るね」
そう言うと、門亜は音環のベッドから降りた。
ああ、と音環は感情のない声で返事をすると、ギターを置いて一緒に玄関まで来た。
何か言いたそうだったが、なんて声をかければいいのか門亜にはわからなかった。
じゃ、また、と言って音環の家を出た。
――週が明けると、音環はラストスパートのような、忙しい時間に押された。
あと、数日で勤めている銀行の名前が消える。5月の初めの日が赤のマジックで丸くくくられていた。
大分先だと思っていたが、もう、ここまで来てしまった。
新しい名前になることよりも、名前が消えてしまうことに音環は引っかかった。そして、そのことに思いをはせるたび、口の中が乾いた。
消えたものは、帰ってこない。もし再び同じ名前になっても、その時は別物だ。
どこかで聞いた言葉だ……ふと、音環は思った。
そして、再び思いを馳せた。
今いる上司も同僚も、別々の店舗に移る。もし一緒になることがあっても、新しい社風に染まって、何となく家庭の状況を把握する、なんてこともなくなるんだろうな。
うっとおしかったけど……さりげなく融通が利いて、良かった。
そんなことを考えていると、目の前に書類がどさ、と置かれた。
「余計な感傷に浸っていると、新しい仕事になじめなくなるぞ。時代だ時代。一緒の時間が過ごせたことに感謝だな」
そう言って、上司は音環の席を離れた。
――あっという間にゴールデンウィークが明けた。
音環の勤める銀行が新しい名前に変わった。無事に機械トラブルもなく動き出し、新しい銀行に引き継いだ客先も落ち着きを見せだしたころ、音環のスマホに知らない電話番号からかかってきた。
普段なら、知らない番号はスルーするのに、その日だけは何故だか胸騒ぎがした。サーチをしても怪しい番号ではなさそうだったので、怪訝な顔をしながら音環は折り返し電話をした。すると、出たのは門亜の母親だった。
門亜が白バイに乗務中に事故にあった。けがは大したことなかったが、天井を見つめたまま動かない、とのことだった。
第3章③です。
音環の勤める銀行が合併しました。
忙しい反面、ここでもまた消失を経験することになります。
記憶にあるものを残しておくこと。とても大事なことなんだと思いました。




