第5章 崩壊③
音環は冷凍庫から、昨晩冷やしておいた冷却枕を取り出した。そして、新しいタオルを当てると、そっと門亜の頭を持ち上げて枕を交換した。
氷嚢の氷を交換すると、ペットボトルも冷えたものに交換した。
音環の出勤の時間が迫っていた。
掃き出し窓のカギを開けると、シャワーを慌てて浴びた。そして、昨晩炊いたご飯にふりかけをかけてラップの上から握ると、そのまま仕事に向かった。
――音環が銀行につく頃、往診に来ていた先生から電話があった。
「点滴を二つつないでおいたよ。栄養剤の輸液をつないだ。
終わったころ、看護師が点滴と輸液を交換するように手配しておくからね。明日も同じように往診してあげる。それ以上目を覚まさなかったら、入院だね」
慌ててこっちに来なくていいよ、と先生は言った。
夕方。音環は定刻のチャイムが鳴ると、上司に看病のために帰る、と言って退社した。
そして、門亜のいる和室に入ると、鴨居にぶら下げた点滴が目に入った。透明と黄色。じいさんの時と同じだ。
点滴がだいぶ終わりに近づいた。その時だった。布団がもぞもぞ、と動いた。
「トイレ……」
目をこすりながら、門亜が目を覚ました。
「門亜……」
よかったよ、と言おうとした時、門亜の目線がいつもと違うことに音環は気づいた。
のろのろ、と門亜が立ち上がろうとしたので、音環はあわてて鴨居にかかっている点滴を手に持った。そして、廊下に出た門亜が首を傾げたので、トイレはこっち、と指さすと門亜はぼてぼてと歩き出した。
記憶が……無くなっている?音環はドアの外で点滴を上にあげながら門亜が出てくるのを待った。
俺の家には何度も来ているはずだ。トイレの場所が分からないなんてありえない。
トイレの水が流れる音がすると、門亜が出てきた。そして、音環の顔を見るとにっこりと笑った。笑顔を向ける、それ以外の感情が何一つ入っていない、混じり気のない笑顔だった。
ぎこちなく笑顔を返す音環に門亜は寄りかかると、そのまま布団のある部屋に連れて行って欲しい、と言った。そして、布団にもぐりこむと眠りに落ちて行った。
少しして、看護師がやってきた。手際よく点滴を外すと、プラスチックの針が刺さっている部分を丁寧にガーゼで覆ってテープで止めた。
体温を測っている看護師に、音環は少し前に門亜が目を覚ましたことを伝えた。すると、看護師は先生に伝えますね、と言って帰って行った。
音環は門亜の保険証を持つと、先生のいる医院に歩いて行った。そして窓口で会計をしていると、奥から先生が出てきた。
「目を覚ましたんだってね。良かった。熱は下がっていないみたいだけどね」
ニコニコと柔和な顔をして言う先生に音環は
「なんか様子が変なんです。何と言うか……いつもの門亜じゃないというか……忘れたようににっこり笑う、とか、僕の家には何度も来ているのにトイレの場所すら分からないとかあって……」
と言った。すると、先生はうーん、と言うように手を顎にあてた。
「もしかしたら、子どもの時に戻っているのかもしれないね。よほどショックだったんだね。……音環くん、面倒みられる?」
分からない……音環は突然の言葉に、返事が返せなかった。
「急にどうにかなる、と言うものじゃないけど、門亜くんも仕事があるだろうからね。ご家族に連絡をした方がいい。とりあえず、明日も診察をして点滴を打つようにするから、食事がとれたか、とか明日教えてくれる?」
先生の言葉に、音環ははい、とうなずいた。
とぼとぼと、家に帰ると、和室に門亜がいなかった。
「門亜?」
音環は慌ててリビングを覗いた。そしてトイレに行った。どちらにも門亜はいなかった。もしかして2階?昔一緒にギターを弾いた防音室がある。
階段をかけ上がると、防音室のドアをノックした。そして、そっと覗いたが門亜はいなかった。
あの状態で出かけた?
音環は青くなった。子どもじゃないから、誘拐などとは考えていないけど……事故はありうる。
防音室を出ると慌てて駆け下りた。
その時、音環は自分の部屋の扉がほんの少し開いていることに気が付いた。
「門亜?」
ドアを開けると、ベッドの中で門亜が眠っていた。
驚いたな……もう。
そして、門亜の記憶が断片的に残っていることに気が付いた。俺の部屋とわかっているかどうかまでは分からないけど……安心できる場所、くらいには思っているんだろう。
素直に喜んでいいのかどうか……。
音環はそっと扉を閉めた。そして、リビングのソファーに身を沈めると、ふと、門亜の出勤日はいつだったっけ、と思い出そうとした。
確か、明後日か週明けか……どちらにしても、間に合いそうにない。
音環はノロノロとカバンからスマホを取り出すと、ラインを開いた。そして門亜の伯父のアイコンを探すと、画面を開いた。
門亜の体調がおかしい、と打ち込んだところでふと指が止まった。この状況、メッセージで伝えられるだろうか。見てもらうのが一番いいんだけど……。
きっと、連れていかれてしまうんだろうな。そうしたら、次に会えるのはいつになるだろう。でも、このまま俺の所にいてもよくなるとは思えない。
ごくり。音環はつばを飲み込んだ。何が門亜にとって一番いいんだろう?
とりあえず連絡をしておこう。欠勤で本人から連絡が取れない、と言うのが一番の愚策だ。
音環は一旦打ったメッセージを消すと、簡潔に、熱が出て門亜の体調が思わしくないので出勤できるかわからない状況です、とだけ打って送信ボタンを押した。
翌朝、音環は玄関のチャイムの音で目が覚めた。時計を見ると、まだ7時にもなっていなかった。
読んでくださりありがとうございます。
音環の中では、門亜にとって一番いい方法と門亜に会いたいがせめぎあっているなと……書きながら感じました。
もし相反する状態で2択を迫られたら、おそらく音環は門亜にとって一番いい方法を選ぶんだろうなと思った次第です。




