第5章 崩壊②
この時間じゃ、往診の先生来てくれないな……。
絞った濡れタオルを額に当てながら、音環は思った。
その時、ピピピと体温計が計測を終える音がした。抜き出して見ると、ギリギリ40℃を下回っていた。もう少し、様子を見るか。
明日……朝一番で電話をして……。もし、都合が合わなければじいさんの時と同じように庭から入ってもらうか……。昼なら抜け出して行くようだ。
まだ、往診の先生が現役でよかったよ……。
「門亜」
音環は声をかけた。普通なら、何かの反応があるはずなのに、門亜からは何もなかった。
まるで、頑丈な扉で閉じられた建物の中に、こもったまま出てこないように音環には思えた。
はぁ。音環は軽く息を吐き出すと、車のカギを握り締めた。
今のうちに、スポーツ飲料とか、買ってこよう。今夜は……門亜のそばにいるようだな。
そっと和室を出ると、音環はカバンを持った。そして、駐車したばかりの車をガレージから出すと、静かにドラッグストアへと走り出した。
――大きな袋を抱えて、音環が戻ってきても門亜は静かに眠ったままだった。
普通、こんなに熱があればうなされるんじゃないか?音環は、出かける時と変わらない布団の様子に、心の中が黒いもので覆われた。
額に手をあてたが、濡れタオルが当たっていた部分だけが少し冷えていた。
音環は小さな氷嚢に氷を詰めると、門亜の首筋に当てた。そして、額にも氷嚢を載せた。
ふいに、炊飯器から電子音が聞こえた。
まだ……そんなに時間は経っていなかったのか。音環は時計を見た。門亜の声を聴いたのはずいぶんと前に感じていた。
冷蔵庫に、買ってきた飲み物を入れた。そして1本だけコップと一緒にお盆に乗せると、門亜の枕元に置いておいた。
音環は炊飯器のふたを開けた。そして、おもむろに茶碗にご飯をよそるとふりかけをかけて黙々と口に運んだ。
大変な時ほど食っておけ。じいさんの声が聞こえたような気がした。
茶碗を流しにおくと、音環は再び門亜のそばに戻ってきた。
門亜は、相変わらず身じろぎをしないまま眠っていた。時折、音環は顔に浮かぶ汗をぬぐった。そして、氷がとけた氷嚢の中身を交換しては門亜の熱が下がるのを待った。
常夜灯のオレンジの光が音環と門亜を照らしていた。
うつら……と音環は眠りに落ちたが、小一時間もすると目を覚ました。
あまりにも静かに眠る門亜に、音環は恐る恐る耳を門亜の口元に持って行った。
規則正しく聞こえる呼吸の音に、音環はほっと胸をなでおろした。
時計の針はまだ2時を少しだけ回ったところを指していた。
朝が……遠い。音環は喉の奥がジン、とした。せめて、何かの反応があれば対処が出来るのに。冷やすのがいいのかすら……分からないほどに、静かに眠っている。このまま起きなかったら……音環は慌てて頭を振った。
オレンジ色の柔らかい光に、何度も音環は眠りに落ちた。そして、少しして目を覚ましては門亜の氷嚢の氷を入れ替えた。そうして繰り返すうち、カーテンの隙間から青白い光が差し込んできた。
……朝だ。音環は体温計を門亜の額に当てた。
新しい電子体温計はすぐに表示を出した。昨晩とあまり変わらない数字に、音環はがっくりとした。
7時になるのを待って、音環はかかりつけの医者の電話番号にかけた。
「おや、音環くん。どうしたんだい?」
電話の向こうで、穏やかな声が聞こえた。
「僕の家に、同級生の門亜が来ているんですけど、熱がすごいんです。目も覚まさないし……」
往診に来てくれませんか?と音環が言うと先生は
「おや、門亜くんかい。熱を出して目も覚まさないなんて、小学校ぶりだね。音環くんは仕事かな?」
先生は門亜も知っているのか。音環は心強く感じた。
「これから出なくちゃいけなくて……もし、来ていただけるならじいさんの時と同じように和室の掃き出し窓のカギを開けておくので、お願いできますか。保険証と診察料は夕方持っていくので……」
そう言う音環に、医者は
「分かった。早めに行くようにするよ。今は若い人たちは設備のいい医院に行っちゃったから、午前中は往診に充てているんだよ」
と音環を落ち着かせるように言った。そして、そう言えば、と言うと続けた。
「門亜くんが熱を出す前に、何かショックなこととかなかったかな?小学生の時に目を覚まさなかったときはそうだったんだよ」
先生の言葉に、音環はどう答えたものか、と考えた。それと同時に、6年生の夏休みの終わりに、門亜が熱を出したことを思い出した。
幼馴染が亡くなった、と言っていたな……。門亜が後で教えてくれた話を思い出した。
「友人が、いなくなったんです。多分それで……」
音環がポツリ、と言うと先生はああ……、と言った。
「もしかしたら、しばらく目を覚まさないかもしれないね。あまり眠っているようだったら、入院が必要になるかもしれないよ。とりあえず、すぐに行こう。結果は……音環くんの今出ている番号にかければいいのかな?」
音環は目頭が熱くなった。そして、簡単に面倒を見る、と言ったことを後悔した。あまりにも無責任だった、と思った。
「もし出られなかったら、すぐ折り返し電話します」
どうぞよろしくお願いします、と言って音環は電話を切った。
第5章②です。
往診、今はどうなのでしょうか。
冬に熱を出した時、来ていただけるとありがたいですよね。
小さいお子さんやお年寄り、外に出るだけで悪くなるんじゃないか、とひやひやします。
読んでくださりありがとうございます。




