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第9話:チュートリアルの終わり

 イベント開催、前日。


 第5階層――その最深部に位置する『断絶の祭壇』。


 SRE-SREは、極限の集中力の中にいた。一週間という過酷なタイムリミットを目前に、彼は文字通り不眠不休に近いペースでここまで駆け上がってきた。


 目の前で滞空しているのは、第5層の守護者――『飛龍ワイバーン』。


 巨体ではない。しかし、その分、旋回速度と突進の威力はこれまでのボスの比ではなかった。


「……あいつ、止まる気がないな」


 ワイバーンが空気を切り裂き、弾丸のような速度で肉薄する。

 頭上から降り注ぐのは、鼓膜を圧するほどの風切り音。

 ワイバーンがその双翼をナイフのように垂直に固定し、重力加速度を乗せた超高速の急降下突き――『空裂ダイブ』を繰り出してきた。


「ッ……!」


 SRE-SREは反射的に『空蝉』を発動。コンマ数秒、自身のいた空間に希薄な残像を残し、文字通り紙一重でその爪をやり過ごす。直後、SRE-SREがいた石畳が爆ぜ、砕けた岩片が礫となって飛来し、頬を浅く切り裂いた。ワイバーンは着地すら行わず、そのまま垂直に急上昇。獲物の反撃が届かない「絶対圏」へと一瞬で逃れる。


(速すぎる。鎌のリーチじゃ、旋回の一瞬を掠めるのが精一杯だ……。なら、こっちから引きずり下ろす!)



 SRE-SREは右手の『灰白の蝕鎌』を持ち替え、腰のポーチから『風呼びの扇子』を抜き放った。

 上空、ワイバーンが再び翼を畳む。狙いはSRE-SREの首一点。旋回軌道を描きながら、獲物を逃さない確実な殺意を持って再加速する。


「いい加減、その高い椅子から降りてもらおうか」


 激突の直前、SRE-SREは逃げずに一歩踏み込んだ。

 ワイバーンの巨大な顎が目前に迫り、その熱気さえ感じる距離。SRE-SREは扇子を真上に向けて力強く仰いだ。


 ――ゴォォォォッ!


 扇から放たれた局所的な暴風が、急降下中のワイバーンの「右翼」を正面から叩いた。

 完璧な流体力学で空を支配していた飛龍にとって、その微かな乱気流は致命的な計算違いを生む。右翼だけが強烈な浮力を受け、機体が急激に傾行した。錐揉み回転を起こし、空中で無様にバランスを崩すワイバーン。


「今だ……!」


 SRE-SREは間髪入れず、左手に携えた『錆びた鉄屑』を、墜落せんとするワイバーンの旋回軌道へ置き去るように差し出した。


 ガリッ、と硬い鱗が鉄の塊を叩く。その刹那、システムが「ジャストパリィ」を検知。


【特殊効果:『刹那の残滓』発動】

 視界から色が消え、世界が静止する。


 SRE-SREの意識だけが強制的に加速し、空中で無防備に腹を晒したワイバーンの姿を、数秒間の「静止画」として捉えた。


 加速した思考の中で、SRE-SREは『鉄屑』を納め、再び順手で『灰白の蝕鎌』を握り直す。

 一歩、二歩。静止した世界の中で最適な踏み込みの位置を定め、鎌の刃を振りかぶる。

 思考の加速を解いた瞬間、世界に色が戻り、爆発的な衝撃が遅れてやってくる。


 SRE-SREは『跳躍』による踏み込みを合わせ、墜落しかけたワイバーンの翼の付け根――強靭な鱗が重なり合う関節の隙間に、鎌の鋭い先端を深々と突き立てた。


 ギィィィッ……!


 嫌な摩擦音と共に、刃から溢れた『腐食』が傷口から内部へと浸食を開始した。

 瞬時にワイバーンの右翼が黒ずみ、羽ばたくたびにボロボロと肉が崩れていく。

 激昂したワイバーンが、長い首を鞭のようにしならせ、結弦の胴を噛み砕こうと牙を剥く。


 SRE-SREは一歩も引かない。むしろ前へ踏み込み、零距離で再び扇子を一閃。

 至近距離での爆風がワイバーンの顔面を直撃し、その噛みつきの軌道を数センチだけ逸らした。

 空いた横腹に、逆手の『蝕鎌』を叩き込み、鱗の隙間をなぞるように引き裂く。


 さらにワイバーンが巨躯を震わせて放った尾のなぎ払いを、再び『鉄屑』で受け流す。

 ――またしても、世界が止まる。


 スタミナと集中力が低下するのを感じ、こめかみに刺すような痛みが走る。だがSRE-SREはその痛みを無視し、静止した時間の中で、無防備な飛龍の喉元へ刃を添えた。


 加速と減速。

 静と動。


 鉄屑で「時間を盗み」、扇子で機動を殺し、蝕鎌で生命力を削り取る。

 一分、二分……。


 かつて天空の覇者だった怪物は、今や翼を腐らせ、地べたを這いずる無様なトカゲへと成り下がっていた。


 最後の一撃。

 SRE-SREは『跳躍』でワイバーンの背後に回り込み、鎌の刃をその喉元に回した。

 全身のバネを使い、渾身の力で、引き絞る。


 絶叫と共に、巨大な翼の怪物が光の粒子となって霧散した。

 結弦の前に浮かび上がったリザルト画面。

 そこには――、


 Time: 05:42

 Party: 1

 石碑に刻まれるタイムではなかったが、単独で撃破することができた。


「……ふぅ。間に合ったな」


 SRE-SREはリザルトを閉じ、荒い息を吐きながら魔法陣を起動した。


 SRE-SREは現れた転移魔法陣を起動し、一度第5層の拠点キャンプへと戻った。

 焚き火の傍らで装備を解き、泥のような疲労感の中でログアウトを選択する。


 *


 現実世界の自室。

 結弦はヘッドセットを外し、天井を見上げた。

 一週間という短期間で第5層を突破した。それは単にイベントの参加資格を得たという以上の、大きな意味を持っていた。


 アビス・オンラインにおいて、第5層までは『チュートリアル』に過ぎないと言われている。

 その最大の理由は、5層ごとにモンスターの強さが「非連続的」に変貌する点にある。6層以降の敵は、これまでのモンスターとは一線を画す狡猾さと、数発でプレイヤーを葬り去る理不尽な火力を備え始める。


 さらに、フィールドの広さも異常だ。

 6層以降は階層にもよるが、基本的にエリアの面積がこれまでの倍以上に拡大する。拠点キャンプからボスエリアへ辿り着くまでに、ゲーム内時間で丸一日以上を要する階層も珍しくない。1日ではボスにまみえることすら叶わないのだ。


 そして、最も過酷なルールがもう一つ。

 第6層以降の守護者ボスに敗北した場合、そのプレイヤーは最低一週間、その階層のボスへの再挑戦が不可能になる。


 攻略の最前線を走る者たちにとって、一週間の足止めは致命的な遅れを意味する。第5層までは何度倒れても即座にリトライが許されていたが、次からは一撃のミスが攻略そのものを凍結させる重圧へと変わるのだ。


 結弦はスマホを開き、イベント『バトル・ステージ』の特設ページを確認した。

 アビス・オンラインのサービス開始から時間は経っており、第6層以降に進出しているプレイヤーは決して少なくない。むしろ、そこからがこのゲームの「本番」であり、多くの攻略組がひしめき合っているボリュームゾーンだ。


 後発組である結弦が、一週間という無茶なスケジュールでその「本番」の入り口に滑り込んだこと自体が、本来は有り得ないペースなのだ。


 特設ページには、第30層を拠点にする【炎姫】のような怪物ギルドの名前も散見される。彼らにとって、このイベントは新米からベテランまでが同じ土俵に上がる、格好の「力試し」の場となるだろう。


「チュートリアルは終わり、か」


 結弦は小さく呟くと、自分を奮い立たせるように目を閉じた。

 一週間の無理が祟り、意識はすぐに深い眠りへと落ちていった。

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