第44話:無明の境界
「ガハッ……!」
肺から無理やり空気を搾り出され、SRE-SREは冷たい泥水の中に転がった。
視界の端で、HPバーが削れるのが見える。受け身を取る暇すらなかった。
(なんだ、今の速度は……!)
泥水に沈みかけた身体を強引に起こし、『蝕鎌』と『鉄屑』を構え直す。
だが、黒に塗り潰された視界には何も映らない。敵の姿はおろか、自身の武器の輪郭すら曖昧だ。
再び、右斜め前の空気が微かに揺れた。
(そこかッ!)
SRE-SREは暗闇の中で必死に目を凝らす。視界の端で、黒いモヤのようなものが動いた気がした。
普段なら、そこで敵の動きを見て、完璧なタイミングでパリィを合わせる。
しかし――。
「……ッ!?」
盾として『鉄屑』を差し出した方向とは【真逆】――左の死角から、鋭利な刃物のような爪がSRE-SREの太ももを深く抉った。
「ぐ、あぁッ!」
姿勢が崩れる。そこに容赦のない追撃が叩き込まれた。
前、後ろ、右。姿のない獣が、まるで見えない壁を蹴って反射しているかのように、四方八方から高速の斬撃を浴びせてくる。
「くそっ……!」
SRE-SREは闇雲に『蝕鎌』を振り回すが、刃は虚しく空を切るばかりだ。
『鉄屑』の特殊効果である刹那の残滓は、「敵の攻撃を完璧に受け流すこと」が発動条件になっている。軌道が見えない今の彼には、その条件すらみたすことができない。
(目が見えないなら、音だ……!)
立ち上がりざまに耳を澄ませるが、洞窟特有の環境がそれに牙を剥く。
ポチャン、ピチャリ。水滴の音や自身の水しぶきの音が石壁に乱反射し、全方位から聞こえてくる。敵の微かな風切り音は、その不規則な反響音の中に完全に紛れ込んでしまっていた。
「なら……『空蝉』ッ!」
正面から強烈な殺気が迫る。SRE-SREは勘頼みでスキルを発動し、その場に希薄な残像を置き去りにして左へとスライドした。
これまで戦ってきたモンスターなら、必ずこの「視覚的な残像」に釣られて攻撃を空振りする。
しかし、暗闇の暗殺者は残像など見向きもしなかった。
――ガキンッ!!
「……ッ、なんで、実体の位置が……!」
完全に死角へ逃れたはずのSRE-SREの横腹に、重い一撃が叩き込まれる。寸前で『鉄屑』の腹を当てて致命傷は避けたものの、防ぎきれなかった衝撃が肋骨を軋ませた。
(こいつ……目が見えてないのか!)
SRE-SREは戦慄した。
ランタンの光に反応しなかったこと、そして残像が全く通用しないこと。このモンスターは、そもそも視覚という概念を持たず、空気の揺れや音、あるいは獲物の呼吸だけで正確に狩るのだ。
地上にいては、一方的に削り殺される。
SRE-SREは『跳躍』を起動し、大きく上空へと逃れた。
空中にいれば、足音は消える。水音も立たない。
数秒の滞空時間。ようやく訪れた静寂の中で、SRE-SREは荒い息を整え、眼下の暗闇に鎌を構えた。
(どこだ。どこから来る……)
だが、永遠には飛んでいられない。重力に従い、身体が落下し始める。
SRE-SREは着地の音を極限まで殺そうと、膝のバネを柔らかくして石畳に足をつけた。
――ピチャ。
ほんのわずかな、靴底が濡れた石畳を叩く音。
その「音」を、盲目の獣が見逃すはずがなかった。
「しまっ――」
着地の硬直を狙いすましたかのように、真下の死角から巨大な質量が跳ね上がった。
――ドゴォォォォンッ!!
「かはっ……、ぁ……」
獣の頭突き、あるいは体当たりを顎の下からまともに喰らい、SRE-SREの身体は鞠のように弾き飛ばされた。背中が壁に激突し、その場に無残に崩れ落ちる。
視界の端ではHPバーが半分ほどになっている。
ポーションを取り出す隙すらない。SRE-SREは荒い息を吐きながら、暗闇の中で必死に見開いている自分の両目に気づいた。
(……ダメだ。光を消しても、俺の脳がまだ、見えないものを無理やり『見よう』としてる)
今までで染み付いてきた目で見て避けるというプレイスタイル。
それが今、彼自身の枷となり、反応速度を殺す致命的な弱点になっていた。
SRE-SREは壁に背を預けたまま、ゆっくりと深く息を吐き出した。
「人間の脳ってのは、不便にできてるな」
光が無くとも、目が開いている限り、脳は必死に視覚情報を拾おうと処理を続けてしまう。それが暗闇の中では致命的なノイズとなり、反射速度に数秒の遅延を生み出していた。
SRE-SREは、――両目を固く閉じた。
視覚が完全に遮断される。
すると、どうだ。
視覚という最大のノイズが消え去ったことで、脳の処理リソースが強制的に聴覚と皮膚感覚へと全振りされた。
自分の荒い呼吸。遠くで落ちる水滴の音。
そして――十メートルほど先の暗がりで、何かが石畳を踏みしめ、空気が圧縮される微かな気配。
(……来るッ)
音がしたわけではない。ただ、肌を撫でる地下の冷気に、明確な殺意の圧力が混ざったのだ。
直後、空気を切り裂いて盲獣が突進を仕掛けてきた。
SRE-SREは目を開けない。
迫り来る風切り音と、自分の皮膚に叩きつけられる空気の波。その「圧」を感じ取った瞬間、左手の『鉄屑』を虚空へ差し出した。
――ガギィン!
火花が散り、甲高い金属音が反響する。
まぐれではない。視覚を捨てたことで、ギリギリでパリィが間に合ったのだ。
「グルァァッ!」
獲物が反応したことに苛立ったのか、盲獣が壁や天井を蹴り飛びながら、四方八方から高速の連続攻撃を仕掛けてくる。
右、左、上。
SRE-SREは目を閉じたまま、肌を刺す殺気と空気の揺れだけに全神経を集中させた。
――ガキンッ!
――ヒュンッ、ギィン!
一撃、二撃、三撃。
見えない爪を『鉄屑』で弾き、すれすれのステップで牙を躱す。視覚に頼っていた時よりも、遥かに速く、正確な反応速度。連続する死の猛攻を、SRE-SREは完全な盲目状態のまま捌き切り――そして、システムはその動きを、確かに検知した。
【――特殊動作の一定精度を検知】
【概念定着を開始……】
【定着完了。アクティブスキル:『無明の境界』を取得しました】
足元から立ち昇る光の粒子を感じ取りながら、SRE-SREは獰猛な笑みを浮かべた。
「———『無明の境界』ッ!」
直後、SRE-SREの視界に、不思議な感覚が広がった。
音の反響、空気の流れ、殺気の圧。それらが脳内で直接、不可視の「射線」や「波紋」としてハッキリと結像し始めたのだ。
スキル効果時間はごく僅か。スタミナも削られていく。だが、今のSRE-SREにとって、敵の軌道が「見える」数秒間があれば十分だった。
(……見切ったぞ)
盲獣がトドメを刺そうと、これまでで最大の跳躍から急降下攻撃を仕掛けてくる。
SRE-SREの脳内に、その完璧な「落下予測線」が描かれた。
彼は静かに息を吸い、その予測線のど真ん中へ、完璧な角度で『鉄屑』の面を合わせた。
――ガギィィィィィン!!
目隠し状態での、完全なるジャストパリィ。
その瞬間、お馴染みの特殊効果が、世界から音と色を奪い去った。
【特殊効果:『刹那の残滓』発動】
超スローモーションの静寂の中。
SRE-SREは静止した世界の中で滑るように一歩を踏み込み、空中で体勢を崩している盲獣の無防備な首元へと右手の『蝕鎌』を差し入れる。
「見えなくても、やれるもんだな」
残されたスタミナのすべてを使って、その重い刃を躊躇いなく振り抜いた。
――ズガァァァンッ!!
時間を盗まれた盲獣は、何が起きたか理解する間もなく、首を刈り取られて壁へと激突した。
断末魔すら上げられず、その巨躯が光の粒子となって爆散していく。
システムから戦闘終了の通知と、アイテムドロップのログが届き、SRE-SREはゆっくりと目を開けた。
彼はその場に仰向けに倒れ込みながら、泥水の中でたまらず声を上げて笑っていた。
「……ははっ、……あー、最高だ。これだから辞められない」
身のプレイスキルの限界をまた一つ超えた確かな手応えが、ボロボロの身体を熱く満たしていた。
泥水の中で大の字になっていたSRE-SREは、息を整えるとゆっくりと身を起こした。
盲獣が爆散した光の粒子の中から、通常のドロップ素材に混じって、一つだけ異彩を放つアイテムが石畳に転がり落ちる。
【ドロップ品:『無明獣の反響核』】
拾い上げると、それは光を吸い込むような黒い多面体だった。触れると指先から冷気と、空気を震わせる音の振動が直接伝わってくる。
タップして開いた詳細ウィンドウには、【極めて高い伝導性と、周囲のエネルギーを感知する性質を持つ特異な生体器官】とだけ記されている。
SRE-SREはインベントリに仕舞い込むと、泥だらけの防具を軽く払った。
SRE-SREは残っていたポーションで最低限のHPだけを回復させると、自らの足で来た道を引き返した。
光の届かない地下水脈を抜け、ようやく第十一層の拠点都市『群青の遺都』の柔らかな明かりが見えた頃には、彼の顔には確かな充実感が満ちていた




