第3話:ガラクタの性能
目の前の泥濘が爆ぜ、巨木が飴細工のようにへし折れる。
霧の向こうから姿を現したのは、第二階層の秩序を司る精鋭モンスター『毒澱の支配者』だ。
体長五メートルを超える巨躯は、腐敗した泥と動物の骨が複雑に絡み合って形成されている。その隙間からは、触れるもの全てを腐らせる濃緑色の毒霧が、絶え間なく溢れ出していた。
「……ちょうどいい。試し切りには、これくらいデカい方がいいからな」
SRE-SREは、不揃いな二本の武器――新調したばかりの『銀の細剣』と、先ほど拾った『錆びた鉄屑』をゆっくりと引き抜いた。
本来、この『マッド・ルーラー』に挑むには、複数の役割を揃えたパーティーを組むのが常識だ。なぜなら、この階層の装備で固めたとしても、その巨体から放たれる一撃をまともに受ければ、防御力の低い布服のプレイヤーなら一撃でポリゴン片へと変わる。
「グルアァァァッ!」
マッド・ルーラーが、丸太のような太い腕を振り下ろす。
衝撃で周囲の泥が津波のように押し寄せ、逃げ場を奪う。だが、SRE-SREはその予備動作を肉眼で見切り、泥の波が押し寄せる直前に、あえて敵の懐へと滑り込んだ。
爆風のような風圧が髪を揺らすが、彼は瞬き一つしない。
空中で体を捻り、銀の細剣で鋭い突きを三連打。
キン、キン、と虚しい金属音が響く。ダメージ表示は微々たるもの。やはり、この階層の主相手に初期状態の攻撃力では、装甲を抜くことすらままならない。
「やっぱり硬いな。なら――」
着地と同時に、マッド・ルーラーの追撃が迫る。
広範囲を薙ぎ払う尻尾の打撃。回避の隙を潰すような完璧なタイミング。さらに追い打ちをかけるように、マッド・ルーラーの背中の隆起から、追尾性能を持つ『毒の粘泥』が複数射出された。
物理打撃と遠距離の毒。普通のプレイヤーなら絶望する場面。
「『空蝉』」
SRE-SREが呟いた瞬間、彼の輪郭が陽炎のようにブレた。
直撃したはずの打撃と毒弾は、その場に残った「残像」を虚しく粉砕する。本尊であるSRE-SREは、すでに敵の真横、完全に知覚の外側へと移動していた。
(……クールタイムがあるのか。ここからが本番だな)
視界の隅で、スキルのアイコンがグレーアウトし、非情な秒数がカウントダウンされる。
この間、彼を守るスキルは存在しない。
マッド・ルーラーは、標的を見失った怒りに任せ、周囲を無差別に踏み荒らす。巨大な足が地面を叩くたび、足元の泥が弾弾のように飛来し、視界を遮る。
SRE-SREは、泥が顔を掠めるのを厭わず、一歩、また一歩と間合いを詰めた。
スキルに頼らない回避は、コンマ数秒の判断ミスが死に直結する。
巨大な腕が横薙ぎに襲いかかる。彼はそれを「跳んで」避けるのではなく、あえて重心を落とし、スライディングの要領で「潜り抜ける」ことを選んだ。
「――っぶね!」
頭上を通り抜ける巨大な質量。その風圧だけでスタミナゲージが微かに削れる。
だが、潜り抜けた先には、マッド・ルーラーの剥き出しの関節部があった。
「ここだ!」
銀の細剣がしなり、正確に関節の隙間を抉る。
初めてマッド・ルーラーの巨体が僅かにぐらついた。しかし、その程度の負傷は、泥を吸収して再生する主にとって致命傷には程遠い。
マッド・ルーラーが激昂し、口を大きく裂いた。
このモンスター最大の初見殺し――全方位を埋め尽くす「濃縮毒霧」の放射。
霧は物理的な重圧を伴い、壁のように迫る。もはやステップやジャンプで避けられる範囲ではない。
SRE-SREはここで、左手に握った『錆びた鉄屑』を正面に突き出した。
「頼むよ、ガラクタ君。君の力を見せてくれ」
ボロボロの刃が、迫りくる毒霧の「圧力」の芯に接触する。
本来、煙状の攻撃を剣で防ぐことなど不可能。しかし、この錆びた剣が霧に触れた瞬間――刀身に刻まれた歪な溝が、血管のように赤黒く脈動した。
――ジ、という鼓動。
SRE-SREの視界から色が抜け、あらゆる音が極端に低く、長く引き伸ばされる。
「……あは、これ凄いな」
世界が止まったかのように見えた。
爆散した泥の破片は空中で静止し、猛毒の霧は粘り気のあるゲル状の物質のようにゆっくりと流れている。
この『錆びた鉄屑』には、攻撃を「受け流した」際、その衝撃を神経系のブーストに変換し、装備者の知覚速度を一時的に極限まで跳ね上げるという特性があったのだ。
加速した世界の中で、SRE-SREはと走り出す。
猛毒の霧が渦巻く中、わずかに密度が薄い「道」を縫うように進み、マッド・ルーラーの喉元へ。
加速が解ける直前、彼はさらに踏み込みを強める。
加速が解けた瞬間。
マッド・ルーラーからすれば、目の前で毒霧に呑まれたはずの人間が、一瞬で死角に消え、次の瞬間には眼前に現れたように見えたはずだ。
「攻撃力はゼロでも、隙を作る性能なら最強じゃん、これ!」
驚愕に動きを止めたマッド・ルーラー。
SRE-SREは『空蝉』のクールタイムが終わるのと同時に、再び残像を残して跳躍。
空中で『銀の細剣』を逆手に持ち替え、全体重を乗せて核へと突き立てる。
一点突破の衝撃が、巨大な獣の全身を震わせ、その巨体が内側から崩壊を始めた。
*
その光景を、沼地の高台から観測している影があった。
最新鋭の望遠魔法を付与したスコープを覗き込み、斥候の青年は震える手で通信機を起動した。
「……こちら、カイト。信じられないものを見ています」
『どうした? 例のチーター候補は見つかったか』
「いえ……チーターじゃありません。おそらく、本物の『怪物』です」
『何だと?』
「布服一枚の男が、ソロで『マッド・ルーラー』を完封しています。ただ倒しているんじゃない。見たこともないスキルと、誰も使っていないゴミ武器を使って……まるでモンスターそのものを弄んでいるみたいだ」
スコープの向こうでは、SRE-SREが楽しげに笑いながら、二振りの武器を納刀していた。
崩れ落ちる巨獣を背に、彼は泥を払うような軽い動作を見せる。
その姿に、斥候のカイトは、言葉にできない畏怖を覚えていた。
男は、自分だけの戦いをその場で作り上げている。
「副団長に伝えてください。……とんでもないプレイヤーが現れた、と」
沼地に、マッド・ルーラーの断末魔が響き渡った。




