第2話:概念定着(イデア・レコード)
現実世界のボロアパート。狭い室内には、安物のPCが放つ排熱と、飲みかけのコーラの甘い香りが漂っていた。
結弦はバイザーを跳ね上げると、凝り固まった首を左右に鳴らす。網膜にはまだ、第一階層の守護者が光の粒子となって霧散する光景が焼き付いていた。
「……ふぅ。やっぱり、あのギリギリの感覚が一番だな」
彼は満足げに独り言を漏らすと、そのままベッドに倒れ込んだ。
まさか自分が刻んだ記録が、今この瞬間、迷宮都市アークの掲示板を「チート疑惑」と「正体探し」の炎で焼き尽くしているなどとは露知らず。彼は心地よい疲労感に身を任せ、夏休みの静かな眠りについた。
翌朝。
窓から差し込む強烈な陽光で目を覚ました結弦は、朝食もそこそこに、再び『アビス・オンライン』へのダイブを開始した。
視界が真っ白な閃光に包まれ、次の瞬間、意識は第一階層の最奥――守護者の間へと降り立つ。
昨夜ログアウトした場所に、SRE-SREの姿が現れる。
主を失った広大な円形の広間は、静まり返っている。正面には次の階層へと誘う巨大な光の渦が脈動し、傍らには拠点へと戻る帰還の陣が淡い輝きを放っていた。
「とりあえず、一回戻るか。流石に今の武器じゃ心許ないし」
SRE-SREは帰還の陣へと足を踏み入れる。視界が白濁し、重力感が一瞬消失する。
再び感覚が戻った場所は、活気に満ちた『迷宮都市アーク』の中央広場だった。
「――おい! 運営から回答はあったのか!?」
「まだだ! ログ解析に時間がかかってるらしい。あんな数字、人間に出せるわけがないんだ!」
石碑の周辺は、昨夜以上の熱気に包まれていた。重厚な鎧に身を包んだトッププレイヤーたちが、顔を真っ赤にしてログを確認し、野次馬たちがそれを取り囲んでいる。
だが、その騒乱の張本人であるSRE-SREは、何事もなく歩き進む。
彼は特徴的な赤い髪を少し手で乱し、少し姿を隠すように路地裏へと滑り込んだ。
向かったのは、高級な装備を扱う大通りではなく、型落ちの品が並ぶ場末の露店だ。ボス戦でボロボロになり、もはや鉄屑同然となった短剣を数コインで売り払うと、彼は隅の方に雑多に置かれていた細身の剣に目を留めた。
「『使い古された銀の細剣』か。手入れもされてないけど、重心は悪くないな」
補給を済ませた彼は、誰に呼び止められることもなく、中央の転送ゲートから第二階層へとワープした。
たどり着いた第二階層『毒澱の沼地』。
一歩踏み出した瞬間、じっとりとした湿気が全身にまとわりついた。
視界の先には、どこまでも続く紫色の霧。足元は一歩ごとにドロリと沈み込み、腐った水が跳ねる不快な音が響く。
この階層が「初心者の壁」と呼ばれる理由は、環境そのものにある。ここには『毒胞子』を放つ植物や、掠るだけで猛毒を付与してくる個体が潜んでいる。一度でも状態異常にかかれば、HPは秒単位で削られ、何より視界と機動力が大幅に奪われる。
普通のプレイヤーなら、ここで「防御力を上げる」か「解毒剤を大量に積む」という選択をする。
だが、SRE-SREは霧の向こうを見据え、腰の細剣の柄にそっと手を添えた。
「……来るな」
泥の中から、ボコボコと不気味な泡が弾け、巨大な『泥スライム』たちが這い出してきた。
一匹、二匹――瞬く間に十数匹の群れが彼を取り囲む。
先陣を切った一匹が、その巨体を大きく膨らませた。
次の瞬間、全方位に向けて強酸性の毒液が散弾のように放たれる。
SRE-SREは、慌てて距離を取るような無駄な動きはしなかった。
飛来する毒液の弾道、その一粒一粒が描く放物線を、彼は冷静に見極める。
「……左」
思考と同時に、体が動く。
彼の挙動はただ最小限の傾きだけで、飛沫をやり過ごす。
服の表面を毒液の熱が掠めていく。
一ミリ。いや、それ以下の極限の回避。
スライムたちは次々と毒液を射出し、沼地は紫色の死の結界と化していく。
だが、SRE-SREの集中力は極限まで高まっていた。
一秒が永遠のように引き伸ばされた感覚の中で、無数に飛来する毒液の隙間を「穴」として捉え、針の穴を通すような精密さで滑り抜けていく。
その時だった。
視界の端に、システムのアナウンスが流れる。
【――特殊動作の一定精度を検知】
【管理AI『アビス』が、当該動作をスキルとして認定します】
SRE-SREが動きを止めた瞬間、彼の足元から眩い光の粒子が立ち昇った。
【概念定着を開始……】
【定着完了。アクティブスキル:『空蝉』を取得しました】
「あ、これが噂の『概念定着』か。なるほど、面白いな」
SRE-SREは、表示されたスキル欄を眺めて小さく頷いた。
このゲーム『アビス・オンライン』には、固定されたスキルツリーは存在しない。プレイヤーが特定の動きを高い精度で成功させ続けると、管理AIがそれを独自のスキルとして登録してくれる。これが「概念定着」だ。
盾で攻撃を完璧に受け流し続ければ防御スキルが生まれ、独自の剣筋で切り結べば剣技スキルが生まれる。他のプレイヤーたちも、自分たちのプレイスタイルに合わせて様々なスキルをこの方法で手に入れてきた。
「これなら、もっと遊びの幅が広がるな」
SRE-SREは早速、取得したばかりの『空蝉』を発動させた。
スライムの突進に合わせ、わずかに身を翻す。その瞬間、彼の姿が陽炎のようにブレ、コンマ数秒後には敵の真後ろに無傷で立っていた。
「……ふーん。こんな感じか、悪くない」
彼は自分の新しい力を試し、感触を確かめながら、さらに沼地の深部へと進んでいく。
霧がより濃くなり、周囲の木々が腐敗した形へと変わっていく中、彼は朽ち果てた巨大な大樹の根元に、泥にまみれて半分埋まっている「奇妙なもの」を見つけた。
「……なんだこれ? 武器か?」
泥を払い、引き抜いてみる。
それは、ひどく錆びついた、歪な形の長剣だった。
表示されるのは『錆びた鉄屑』という説明のみ。
だが、その剣を手にした瞬間、SRE-SREの指先に異様な感触が伝わった。
軽い。
重さがほとんど感じられないほどに軽く、それでいて、柄を通じてドクン、ドクンと心臓の鼓動に似た微かな脈動が伝わってくる。
「攻撃力はほぼゼロ。……でも、この軽さは異常だぞ」
普通のプレイヤーなら「ハズレのゴミ」として捨てるであろうその鉄屑を、SRE-SREは面白そうに眺めた。
今の彼が手に入れた『空蝉』の圧倒的なスピード。それに、この「存在感のない軽さ」が合わされば、一体どんな動きができるのか。
「試してみる価値はありそうだ。性能なんて、二の次だしな」
彼は、銀の細剣を背負い直し、その「ガラクタ」を予備のホルダーに差し込んだ。
その直後。
沼地の奥底から、大地を根こそぎ震わせるような重低音の唸り声が響いた。
泥が爆ぜ、巨木がなぎ倒される。
霧の向こうから姿を現したのは、第二階層の精鋭モンスター『毒澱の支配者』だった。
体長3メートルを超える、泥と骨で形成された巨大な獣
。
その口からは、触れるもの全てを腐らせる濃緑色の毒霧が、絶え間なく溢れ出している。
「……ちょうどいい。試し切りには、これくらいデカい方がいいからな」
SRE-SREは、不揃いな二本の武器をゆっくりと引き抜いた。
その瞳には、恐怖も迷いもない。
子供のような、純粋で鋭利な輝きだけが宿っていた。




