第1話:無名のソロプレイヤー、最速記録を刻む
迷宮都市アーク。
この広大な仮想世界の中心に位置する広場には、全プレイヤーの羨望と絶望を吸い込んでそびえ立つ、漆黒の巨大石碑――『深淵の石碑』が存在する。
それは単なる石柱ではない。世界中の企業スポンサーが数億の金を動かし、トッププレイヤーたちが血の滲むような修練を重ねて刻み込む「名誉」の集積体だ。
「……おい、嘘だろ」
誰かの震える声が、白昼の喧騒を鋭く切り裂いた。
石碑の周囲にいたプレイヤーたちが、次々と足を止め、吸い寄せられるようにその一点を仰ぎ見る。視線の先にあるのは、第一階層・守護者の記録欄だ。
そこには、一年前のサービス開始当初のトッププレイヤーたちが「これ以上の短縮は不可能」とまで言わしめ、今日まで一度も破られることのなかった不動の歴代最高記録が刻まれていた。
この一年、数多の後発プレイヤーが挑み、そして敗れてきたその絶対的な聖域。だが今、その頭上に、あまりに不条理で、かつ無機質な三行のデータが割り込んでいた。
【第一階層:守護者『大角の主』】
Time: 02:12
Party: 1
Player Name: SRE-SRE
広場が、一瞬の静寂ののち、爆発したような騒ぎに包まれた。
「盾職もいないソロでか!?」
「バカ言え、タイムを見ろよ! 二分十二秒だぞ! バフを盛りまくってゴリ押した最短記録を、ソロで一分以上も更新してる……!」
「SRE-SRE……? 誰だこれ、聞いたこともないぞ。バグだろ、絶対チートだ!」
騒然とする広場。重厚な鎧に身を包んだプレイヤーたちが、顔を青くしてログを解析し始める。SNSでは、この『記録の瞬間』を捉えた映像を求める声が荒れ狂っていた。
「誰かボス部屋の前で録画してた奴はいないのか!」
「公式アーカイブは非公開設定だ、チクショウ!」
――このゲーム、アビス・オンラインでは、ボス戦のエリアは結界によって遮断され、外部から戦闘の様子を覗き見ることはできない。公式の観戦機能も存在するが、それは本人が「公開」に設定していることが条件だ。
結果として、ネット上には「証拠」が一切存在しない、不気味な数字だけが残された。
だが、彼らはまだ知らない。この異常な記録が、管理AI『アビス』が公式に認めた「正真正銘の攻略結果」であることを。
――時計の針を、少しだけ巻き戻そう。
この「嵐」が巻き起こる、数日前の夏の日まで。
*
「よし、今日から夏休みだ!」
佐藤結弦は、大学の講義室を出ると、初夏の陽光に目を細めながら大きく伸びをした。
二十歳。どこにでもいる普通の大学生。友人たちと学食で「テストの結果がヤバい」と笑い合い、適当なサークルに顔を出し、適当なバイトで小銭を稼ぐ。そんな彼の日常に、特別な影など微塵もなかった。
彼は、ゲームが好きだった。それも、ただ遊ぶのが好きなのではない。画面の中のキャラクターを、自分の神経の延長として、一ミリの誤差もなく操ることに喜びを感じるタイプだったのだ。
「結弦、お前も始めるんだろ? 『アビス・オンライン』」
並んで歩く友人の一人がスマホの攻略サイトを見せながら言った。画面には、巨大なドラゴンと対峙する数十人のプレイヤーたちの勇壮な写真が躍っている。
「世界中で社会現象になってるからな。レア武器一つで家が建つとか……夢があるよなあ」
「あはは、そうだね。でも家が建つくらいの武器って、それだけドロップ率もエグいんでしょ?」
「そりゃあな。死ぬ気で周回して、何百人も死人が出てようやく一本だ。ソロでやるなんて趣味か暇人くらいだぜ」
友人の言葉に愛想笑いを返しながら、結弦は心の内で別のことを考えていた。
帰宅した結弦は、狭いワンルームのアパートで、デスクの上に置かれた一台の装置を手にした。それは、一世代前の主流だったヘルメット型フルダイブ機だ。
最新のポッド型は脳との同期率が極めて高く、動きにわずかなアシスト機能も付いている。一方で、この旧型機は最新型に比べれば同期精度で一歩劣る。脳の信号をアバターに伝える際、わずかな「抵抗」のような感覚があるのだ。
「でもやっぱり、最新型はちょっと動きを補正されすぎなんだよね」
最新鋭のアシスト付きポッドも試したことがあったが、結弦にとっては「自分の意志ではない余計な力」が働いているように感じて、どうしても馴染めなかった。同期率が少し劣り、不器用なほどに自分の信号をそのまま流す旧型の方が、自分の反射神経を限界まで研ぎ澄ますことができる。
結弦はベッドに横たわり、手慣れた動作でバイザーを下ろした。思考がシステムと繋がった瞬間、視界は電子の火花に包まれ、肉体の重力から解放される。
数秒後。
結弦が目を開けたのは、石畳が美しい『迷宮都市アーク』の巨大な噴水前だった。周囲には、世界中から集まった何千、何万というプレイヤーたちの熱気が渦巻いている。
初期装備の、今にも破れそうな布服。腰に下げた、バターナイフのような安物の短剣。
「うわあ……。解像度が高いなあ」
結弦は、その場でお調子者らしくピョンピョンと跳ねてみた。
彼はそのまま、初心者向けの「第一階層」へと向かった。
広大な草原が広がるそのエリアには、チュートリアル用のモンスターである「ホーン・ラビット」が跳ね回っている。
「よし。まずは、この世界の距離感を掴まないと」
だが、現実は甘くなかった。
意気揚々と一歩踏み出した瞬間、前方から突進してきた一匹のウサギ。結弦はそれを余裕で避けようと体を捻ったが――、
「――あだっ!?」
角が脇腹を掠めた。
旧型機の同期精度の粗さか、あるいはのただ反射神経の遅さか。
HPバーが数ミリ削られる。
「あはは……痛いなあ。やっぱり厳しいね」
結弦は苦笑いしながら、それから数時間を「練習」に費やした。
一撃を避ける。反撃する。また避ける。
普通なら、武器を買い、攻撃力を上げて防御力を高め、力押しで進むのが「効率的」な攻略だ。
だが、結弦は違った。一回でも掠れば、彼はわざわざ拠点に戻り、HPを全快させてから「やり直し」を始めた。
「避けられるはずなんだよ。今のは少し反応が遅れたかな」
友人たちが聞けば「ゲームで何マジになってるの?」と呆れるようなことを、彼は心底楽しそうに繰り返す。
1日目。彼は結局、最初のエリアすら突破できなかった。
何度も何度もモンスターにぶつかり、街へ戻った。最新装備で着飾ったプレイヤーたちが彼の横を通り抜け、「あんな雑魚に手こずってる奴がいる」と笑い飛ばしていく。
しかし、結弦の心は折れるどころか、かつてないほど高揚していた。寝る前、彼は暗い天井を見つめながら、今日戦ったモンスターの予備動作、筋肉の収縮、攻撃の軌道を脳内で何度も再生する。
――明日は、もっと「スレスレ」でいける。
2日目。
結弦の動きから「無駄」が消え始めた。
昨日まで自分を苦しめていたウサギの突進が、今ではまるで止まっているかのように見える。
彼はもはや、短剣を振るうことすら最小限にした。ただ、敵の攻撃を紙一重でかわし、その勢いを利用して急所に刃を置く。
彼はついに、第一階層の最奥にある巨大な鉄の扉の前に立っていた。
第一階層守護者『大角の主』。
身長三メートルを超える、牛頭の人型怪物。
「よし、挨拶してこようかな」
結弦は軽い足取りで、ボスエリアへと足を踏み入れた。
地響きと共に現れるタウロス。圧倒的な質量と威圧感。
1度目の挑戦。結弦は、死ぬ物狂いで戦った。
ボスの攻撃はあまりに速く、重い。回避したはずの衝撃波で体力が削られ、武器の耐久値もボロボロ。
三十分以上の泥仕合の末、彼はなんとかボスを倒した。
眼前に浮き上がったリザルト画面には、自分の醜態とも言える数字が並んでいた。
Time: 34:12
Party: 1
「……うーん。ダサいなあ」
結弦は、自分の震える手を見て、満足げな笑みを浮かべた。
体はボロボロで、報酬も安い素材ばかり。だが、彼の脳は完全にボスの動きを「記録」していた。どのタイミングで息を吸うのか。どの角度で棍棒を振り下ろすのか。あの衝撃波を無効化できる「安全地帯」はどこか。
彼は街へ戻ると、手に入れた僅かな報酬で、街の武器屋でも売れ残っているような「極端に刀身が細く、壊れやすいが、振りの速さだけは一流」という一癖ある短剣を買い付け、メンテナンスを開始する。
「あはは、これならもっと綺麗に戦えるかも」
3日目。
結弦は再び、ボスの扉を開けた。
昨日とは違う、澄み切った表情。
戦いが始まった。
タウロスが咆哮し、巨大な棍棒を振り下ろす。大地が爆ぜ、周囲のプレイヤーが「巻き込まれれば大ダメージ」と恐れる広域攻撃。
だが、結弦は走らなかった。ただ、半歩だけ横にずれる。
鼻先を一ミリ掠めるような距離で、棍棒の風圧を肌に感じながら、彼は踊るように短剣を突き出した。
「おっと。次は、左からの薙ぎ払いかな?」
言葉通り。巨獣が繰り出す破壊の嵐を、彼は紙一重で受け流していく。
一度も、立ち止まらない。一度も、余計な動きをしない。
最短の軌道で、敵の急所だけに銀の閃光を刻み続ける。
二分十二秒後。
絶叫と共に、巨大な牛頭の怪物が光の粒子となって霧散した。結弦の前に浮かび上がったリザルト画面。
そこには――、
Time: 02:12
Party: 1(SRE-SRE)
その数字が、誇らしげに輝いていた。
「うん、満足! さて、お腹空いたし帰ってコーラ飲もうかな」
彼が軽い足取りでログアウトした直後。
迷宮都市アークの中央広場にある石碑が、かつてない眩い光を放ち、その異常な数値と『SRE-SRE』と言う名前を知らしめたのである。




