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追放された俺、銀髪魔法少女になる! その聖剣、わさび抜きじゃ使えませんよ?  作者: すーぱーりっかちゃん


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第2話

返事は、獣の牙よりも先に来た。


足元の土が、どくん、と脈を打った。比喩ではない。靴底を通して、地面の奥に巨大な心臓があるのを感じた。森全体が一瞬だけ息を止め、枝の先で震えていた葉までが固まる。


だが、獣は止まらなかった。


黒い影が俺に覆いかぶさる。牙が肩に食い込んだ。痛みは少し遅れてきた。最初に感じたのは、重さだった。成人男性の体が、紙袋みたいに地面へ叩きつけられる。背中を木の根に打ち、肺から空気が抜けた。


声が出ない。


獣の息が顔にかかる。腐った肉と血と、雨に濡れた獣毛のにおい。黄色い目が、俺の目のすぐ近くにあった。そこには怒りも憎しみもない。ただ食うという機能だけがある。生き物は、余計な理由を持たない時が一番怖い。


俺は握っていたわさびを、獣の鼻面に押しつけた。


「食えよ、薬味だぞ」


かすれた声が喉から漏れた。


わさびが潰れた。青い汁が獣の鼻と目に飛び散る。次の瞬間、獣が悲鳴を上げた。犬とも熊ともつかない声。巨体が跳ね、爪が俺の脇腹を裂いた。


熱い。


今度は痛みより先に、熱さが来た。内側にしまってあるはずのものが、外の冷たい空気に触れたような感覚。俺は反射的に腹を押さえた。手のひらがぬるりと滑った。


獣は後ずさりし、地面に顔をこすりつけている。目から涙のような液体を流し、鼻を鳴らし、狂ったように頭を振った。わさびは効いた。効いたが、それだけだった。


左の茂みから、二体目が出てきた。


右から三体目。


森は親切ではなかった。一匹を追い払ったからといって、生存を許してくれる場所ではない。


俺は短剣を握り直そうとした。指に力が入らない。腹を押さえた手を離すと、体の中身まで一緒にこぼれそうだった。呼吸が浅くなる。喉の奥で泡が鳴る。


レオンの顔が浮かんだ。


ミサキの顔も。


カーテンの隙間から見えた泣き顔。ごめんね、と動いた唇。あれを謝罪と呼んでいいのかどうか、死ぬ間際になってもまだ判断できなかった。


人間は、最後の瞬間に人生を走馬灯のように見るという。あれは半分だけ嘘だ。少なくとも俺の場合、流れたのは人生ではなかった。居酒屋のぬるいビール。水晶に映った緑の光。聖剣の白い輝き。床に落ちた髪飾り。潰れたパン。馬車の泥。


断片ばかりだ。


まとまりのない破片が、壊れたガラスみたいに頭の中を散らばっている。


二体目の獣が低く唸った。俺はもう逃げられない。わさびを召喚しようとしたが、魔力がうまく流れなかった。掌に緑の光が生まれかけ、すぐに消える。


死ぬ。


言葉にすると、ずいぶん短い。


俺は二十五歳で死ぬ。異世界に召喚され、婚約者を奪われ、勇者に捨てられ、魔物の森で死ぬ。役職はわさび召喚士。死亡原因は、たぶん出血と捕食。


なんだそれ。


ふざけるな。


怒りが最後に残った。愛情でも未練でもなく、怒りだった。人間の魂に芯があるとしたら、それは案外きれいなものではないのかもしれない。煮詰まった泥みたいな、熱くて黒いもの。それが俺の奥で小さく燃えた。


足元の鼓動が、もう一度鳴った。


どくん。


今度は地面だけではなく、俺の傷口まで震えた。血が土に染み込んでいく。潰れたわさびの汁も、一緒に土へ落ちていた。赤と緑が混ざり、暗い泥になって、木の根の間へ吸い込まれる。


その泥が光った。


獣たちが一斉に後ずさった。森の土が割れる。割れ目から、黒い根が伸びてきた。いや、根ではない。石のように硬い蔓。蔓には古い文字が刻まれており、文字の隙間から赤黒い光が漏れていた。


俺の足首に絡みつく。


冷たい。


その冷たさに、痛みが一瞬だけ遠のいた。蔓は俺の体を抱え込むように巻きつき、土の中へ引きずり込もうとした。


「やめろ」


言ったつもりだったが、声にならなかった。


獣が吠える。三体目が飛びかかってきた。だが、蔓がそれを横から叩いた。獣の胴体が不自然な方向に曲がり、木にぶつかって落ちる。骨が折れる音がした。


地面の割れ目が大きく開く。


土の下には、空洞があった。


俺はそこへ落ちた。


落下しているはずなのに、風を感じなかった。体は蔓に包まれ、血の匂いも森の匂いも薄れていく。代わりに、古い石室の匂いがした。湿った岩、錆びた鉄、長い年月を閉じ込めた埃。


そして、声が聞こえた。


それは人間の声ではなかった。金属を薄く削って、何枚も重ねたような音。意味はなぜか理解できた。


適合因子を確認。


異界魂を確認。


神辛草の魔力反応を確認。


封印体、再起動条件を満たしました。


ふざけた単語が混ざっていた気がする。神辛草。たぶん、わさびのことだ。


俺は笑おうとした。喉から血がこぼれただけだった。


意識が沈んでいく。


落ちるというより、剥がされる感じだった。肉体から、俺という薄い膜だけが引き剥がされる。痛みはない。むしろ痛みが消えていくのが怖かった。痛みは生きている証拠だったのだと、なくなって初めてわかる。


最後に見えたのは、自分の手だった。


泥と血とわさびに汚れた、男の手。


それが遠ざかり、暗闇に沈んだ。


次に目を開けた時、最初に見えたのは天井だった。


いや、天井というより、棺の蓋の裏側だ。


黒い石でできた蓋に、細かい文字がびっしり刻まれている。文字は淡い赤色に光り、ゆっくりと消えたり灯ったりしていた。その模様を見ていると、胃の奥が冷える。読めないのに、意味だけが頭の中に染みてくる。


封印。


器。


邪神。


魔王の娘。


生き返ったのか。


そう思った直後、違う、と本能が告げた。


これは俺の体ではない。


まず、呼吸が軽すぎた。胸ではなく、もっと上のほうで空気が出入りしている気がする。腕を動かそうとすると、布が擦れた。肩が小さい。指が短い。筋肉の重さがない。寝返りを打つだけで体が浮くようだった。


俺は両手を目の前に持ってきた。


細い指。


白い肌。


爪は薄く、丸い。


自分の手だと認識するまで、少し時間がかかった。脳が拒否していた。俺の手はもっと大きかった。節が太く、爪の形も違う。仕事で段ボールを運んだ時についた小さな傷が右手の甲にあったはずだ。


ない。


何もない。


「なんだ、これ」


声が出た。


高かった。


子供の声だ。女の子の声。自分の喉から出たとは思えないほど澄んでいて、だからこそ気持ち悪かった。録音した自分の声を初めて聞いた時の違和感を、骨の中から何倍にも増幅したような感じだった。


俺は反射的に起き上がろうとした。


額を棺の蓋にぶつけた。


「いっ」


痛い。普通に痛い。死後の世界ではなさそうだった。


両手で蓋を押す。重い。だが、力を込めると石の蓋は拍子抜けするほど簡単にずれた。ごり、と低い音を立てて、蓋が横へ滑る。外の冷たい空気が流れ込んできた。


俺は棺の中から這い出した。


床に手をついた瞬間、体がふらつく。重心が違う。足の長さも違う。世界の高さが違う。床が近い。何もかもが少しずつ縮んでいて、そのくせ空間だけはやたら広く感じる。


そこは地下の聖堂だった。


壁も床も黒い石でできている。天井は高く、尖った鍾乳石のような装飾が無数に垂れていた。円形の広間の中央に俺の棺があり、その周囲を十二本の石柱が囲んでいる。石柱には鎖が巻きつき、鎖の先は棺につながっていた。いくつかの鎖は今、赤く焼けたように崩れ、床に落ちて煙を上げている。


壁際には古い人骨があった。


祈るように膝をついたまま白骨化している。神官のような服を着ていたらしいが、布はほとんど腐っていた。何十年どころではない。何百年も前から、ここは閉じられていたのだろう。


俺は息を呑んだ。


小さな息だった。


自分の体の小ささを、いちいち思い知らされる。


棺の横に、黒い鏡が立っていた。最初はただの磨かれた石板に見えたが、近づくと表面にぼんやりと像が映った。


そこにいたのは、少女だった。


中学生くらいだろうか。小柄で、病的なほど白い肌。腰まで届く銀色の髪。瞳は鮮やかな赤。顔立ちは人形めいて整っているが、その目だけが妙に生々しい。俺の目だった。絶望と混乱と怒りを混ぜた、死に損ないの目。


服は古びた黒いワンピースのようなものだった。礼服にも喪服にも見える。胸元には赤い宝石があり、そこから細い鎖が首輪のように伸びている。装飾は上品だが、どう見ても現代日本の服ではない。魔王の娘と言われたら、まあ納得してしまう格好だった。


「女じゃねえか」


声に出して、改めて心が沈んだ。


男から女になった。しかも、どう見ても年齢まで下がっている。意味がわからない。異世界召喚までは、まだテンプレートだと笑えた。追放も、最悪の展開として理解はできる。だが、死んで魔王の娘の体に入るのは、さすがに説明を要求したい。


鏡の中の少女が、俺と同じ顔で口を引きつらせる。


「俺は天王寺アスカだ」


声は可憐だった。


説得力が最悪だった。


その時、頭の奥で何かが開いた。


記憶ではない。記録に近い。誰かの人生が流れ込んできたのではなく、壊れた図書館の目録だけを無理やり読まされているような感覚だった。


この体の名は、ルミナリア。


魔王の娘。


だが、魔王軍が語る邪悪な姫ではない。邪神を宿す器として生まれたため、幼い頃に封印された空の肉体。魂はすでに抜かれていた。いや、最初から魂と呼べるほどのものは宿っていなかったのかもしれない。魔王は娘を殺せず、王国も器を破壊できず、妥協として森の地下に封じた。


封印は長い年月で弱っていた。


そこへ、異界から来た魂と、神辛草の魔力が流れ込んだ。


結果、再起動。


便利な言い方をするな。


俺は棺に手をつき、吐き気をこらえた。胃の中には何もないのに、喉が苦い。自分が死んだことよりも、自分が空っぽの器に入れられたことのほうが気持ち悪かった。これは転生なのか、寄生なのか、再利用なのか。呼び名ひとつで感触が変わるほど、生易しい話ではない。


床に赤い光が走った。


俺の足元を中心に、円形の魔法陣が浮かび上がる。水晶で職業判定をされた時と似ていたが、こちらのほうがずっと古く、ずっと悪趣味だった。文字が空中に立ち上がり、俺の目の前に並ぶ。


名前、天王寺アスカ。


肉体名、ルミナリア。


種族、古代魔王種。


旧職業、わさび召喚士。


新職業、古代最強職、魔法少女。


俺はしばらく文字を見つめた。


何かの間違いであってほしかった。


「魔法少女?」


地下聖堂に、俺の高い声が響いた。


返事はなかった。


文字は容赦なく続く。


固有能力、神辛草召喚。


固有能力、辛味支配。


固有能力、魔装変身。


固有能力、辛味付与による魂核破壊。


最後の単語で、背筋が冷えた。


魂核破壊。


字面が軽くない。わさび、魔法少女、辛味と来て、急に殺意が本気になる。ラノベのスキル欄に紛れ込んだ医療事故の報告書みたいだった。


床が揺れた。


遠くで石が崩れる音がした。封印が解けたせいで、この地下施設全体が不安定になっているのだろう。天井から砂が落ち、白骨の頭蓋がころりと倒れた。


俺は棺から離れ、出口を探した。


広間の奥に、階段があった。黒い石でできた狭い階段だ。壁には赤い結晶が埋め込まれ、ぼんやりと灯りを放っている。俺はそこへ向かって歩き出した。


歩きにくい。


足が短い。歩幅が違う。重心が軽い。腕を振る感覚も違う。今まで普通にできていたことが、全部微妙にずれている。二十五年間使ってきた体の取扱説明書が、いきなり別機種に差し替わった感じだった。


階段の前で、俺は一度立ち止まった。


背後の棺を見る。


あそこに俺は入っていた。いや、俺ではなく、この体が入っていた。では、俺の元の体はどこにあるのか。


考えたくなかった。


考えたくないことほど、頭に張りつく。


俺は階段を上がった。小さな靴が石を叩く音が、かつん、かつんと続く。途中で何度も足を滑らせた。壁に手をつくたび、指先に冷たい苔の感触があった。階段は思ったより長い。地下深くに封印されていたらしい。


半分ほど上がったところで、背後から音がした。


ずるり。


何か柔らかいものを引きずる音。


俺は振り返った。


階段の下の暗がりから、細長い腕が伸びていた。人間の腕ではない。節が多すぎる。皮膚が灰色で、関節が逆に曲がっている。続いて顔が現れた。猿に似ているが、口が耳まで裂け、歯が針のように並んでいた。


魔物。


封印施設に入り込んだのか、元から巣食っていたのかはわからない。どちらでも同じだ。こちらを餌として認識していることだけは、疑いようがなかった。


俺は後ずさった。


足が階段を踏み外しそうになる。


「来るな」


魔物が笑ったように口を開いた。唾液が糸を引き、石段に落ちる。じゅ、と音がして煙が上がった。酸かもしれない。


俺は右手を突き出した。


わさび召喚は、まだ使えるはずだ。さっきの表示にもあった。魔力の流れを探る。体は違うのに、その感覚だけは同じだった。掌の奥に、緑色の火種がある。


「召喚」


光が生まれた。


以前よりも濃い。鮮やかな緑色が、暗い階段を照らす。掌に落ちてきたのは、俺の手より大きなわさびだった。小さな少女の手では抱えきれないほど立派で、瑞々しく、表面から青い霧のようなものが立ち上っている。


魔物が動きを止めた。


鼻をひくつかせる。


警戒している。わさびを怖がっているのか。


俺は一瞬、希望を持った。


その直後、魔物が階段を蹴った。四本足で這うように、ものすごい速さで駆け上がってくる。


わさびを投げた。


見事に外れた。


「くそっ」


体が軽いせいで、投げる感覚まで違う。わさびは階段の壁にぶつかり、潰れて青い汁を散らした。香りが広がる。俺の鼻にも来た。涙が出るほど強烈だった。


魔物は一瞬だけ顔をしかめたが、止まらない。


頭の中に、冷たい文字が浮かんだ。


魔装変身を推奨。


「しない」


俺は即答した。


魔法少女に変身。冷静に考えなくても嫌だ。魔王の娘の体になっただけでも十分だろう。これ以上、変な属性を盛るな。俺の人生はラーメンの全部乗せではない。


魔物が迫る。


酸の唾液が頬をかすめ、石壁を溶かした。熱い雫が肌に触れる。痛い。現実だ。


魔装変身を強く推奨。


「だから、嫌だって」


魔物の腕が伸びた。


爪が喉元を狙ってくる。


俺は死にたくなかった。


二回目だ。まだ数分しか経っていないのに、また死にかけている。死ぬのは一度で十分だ。二度目となると、さすがに段取りが悪すぎる。


「わかったよ!」


叫んだ瞬間、胸元の赤い宝石が光った。


足元に魔法陣が開く。緑と赤と黒の光が絡み合い、俺の体を包んだ。古い黒衣がほどけ、光の糸になって編み直されていく。布が増えた。明らかに増えた。袖にフリル。裾にフリル。腰に大きなリボン。手袋にもフリル。靴にも小さなリボン。


やめろ。


俺の意志は、衣装デザインに一切反映されなかった。


髪がふわりと持ち上がり、銀色の光を帯びる。手の中に杖が現れた。先端に赤い宝石、その周囲に緑色の葉の意匠。そして、なぜか小さなおろし金のような金属板がついていた。


終わった。


何かが人として終わった。


だが、体は羽のように軽くなっていた。視界が広がる。魔物の動きが遅く見える。階段の湿気、石の割れ目、魔物の筋肉の収縮、酸の唾液が落ちる軌道までわかる。


魔物の爪が迫る。


俺は杖を振った。


振り方は知らない。だが体が知っていた。いや、この職業が勝手に動かしたのかもしれない。先端の宝石が緑に輝き、潰れたわさびから立ち上っていた青い霧が、矢のように収束した。


辛味付与。


その言葉が頭に浮かぶ。


次の瞬間、魔物の全身が硬直した。


何も燃えていない。刃も刺さっていない。だが魔物は口を大きく開け、声にならない悲鳴を上げた。目から涙が溢れ、鼻から煙のような息が漏れる。皮膚の下を緑色の光が走り、血管の形に広がっていく。


辛み。


それは味ではない。


痛みに近い。刺激。拒絶反応。体が、これは危険だと叫ぶ信号。


俺の魔法は、その信号を魔物の魂に直接叩き込んでいた。


魔物の目が裏返った。体が階段の上で痙攣し、灰色の皮膚に亀裂が入る。内側から緑の光が漏れ、最後には音もなく崩れた。灰になったのではない。存在を保つ力だけを抜き取られたように、薄い砂になって石段へ広がった。


俺は杖を握ったまま固まった。


勝った。


勝ってしまった。


あれだけ怖かった魔物が、一撃で消えた。聖剣の光でも、大魔法の炎でもない。わさび由来の辛みで、魂ごと壊れた。


「何これ」


声が震えた。


強い。強すぎる。


だが、爽快感はなかった。俺の手の中には、敵を一撃で殺す力がある。笑えるほど馬鹿馬鹿しい名前と、目を疑うほど可愛い衣装に包まれているくせに、中身は即死魔法だ。砂糖菓子の箱に毒蛇が入っているようなものだった。


天井がまた揺れた。


考えている暇はない。


俺は階段を駆け上がった。今度は速かった。足が小さいのに、石段を蹴る力が異常だ。二段、三段飛ばしで上がれる。息も切れない。変身の効果なのか、魔王の娘の体が元から頑丈なのかはわからない。


階段を上がりきると、狭い回廊に出た。


壁には古い壁画があった。黒い王冠をかぶった男が、銀髪の幼い娘を抱いている。その背後に、巨大な影が描かれていた。目のない神。無数の腕。口だけが笑っている。邪神だろう。壁画の王は娘を守るように見えるが、その顔はほとんど削られていた。


誰かが憎んで削ったのか。


誰かが忘れるために削ったのか。


回廊を進むと、鉄の扉があった。錆びているが分厚い。押しても動かない。扉の中央に、枯れた蔦の紋章が刻まれている。直感で、これは封印の外扉だとわかった。


俺は杖を見た。


先端のおろし金部分が、妙に自己主張している。


「まさか」


胸騒ぎがした。


俺はわさびを召喚し、そのおろし金で少し削った。青い香りが立つ。削られたわさびを扉の紋章へ塗ると、文字が緑色に光った。


鍵、承認。


扉が開いた。


神辛草、万能すぎる。


俺はため息をつきたいのに、鼻に抜ける香りのせいで涙目になった。聖剣どころか封印扉までわさびで開くのか。この世界の古代文明は、薬味に依存しすぎではないか。


扉の向こうは、根の絡まる洞窟だった。


黒い石造りの施設から、自然の岩肌へ変わっている。天井から木の根が垂れ、ところどころから地上の光が細く差し込んでいた。俺は洞窟を進んだ。足元には獣の骨や、割れた鎧の破片が落ちている。森の魔物が時々入り込んでいたのだろう。


しばらく歩くと、斜面に出た。


外の光が見えた。


俺は洞窟の出口へ向かった。変身したまま岩場を登り、最後の根を手で払う。冷たい空気が顔に触れた。土の匂い。葉の匂い。遠くで鳥が鳴いている。


森だった。


だが、さっき捨てられた場所とは少し違う。大きな樹の根元に開いた穴から出たらしい。空は薄く明るい。夜が明けたばかりなのか、それとも一日以上経ったのか。時間の感覚は壊れていた。


俺は変身を解いた。


解除、と念じると、光がほどけ、フリルまみれの魔装が古い黒衣へ戻った。杖も消える。体が少し重くなったが、それでも以前の男の体よりは軽い。小さな手が袖から出ているのを見て、また現実を思い出した。


生きている。


女の子の体で。


魔王の娘として。


魔法少女として。


情報量が多すぎて、胃もたれする。


俺は森の中を歩いた。洞窟の出口から斜面を下り、木々の間を抜ける。足元の落ち葉が湿っている。枝が頬に当たるたび、肌がひやりとした。小さな体だと、草の高さまで違って見える。昨日まで腰くらいだった茂みが、今は胸元近くまである。世界が少しだけ俺を見下ろしている。


やがて、見覚えのある場所に出た。


林道の終点。


馬車が去った場所。


そして、俺が死んだ場所。


地面には黒ずんだ血が残っていた。獣の足跡がいくつもある。潰れたパンの欠片。泥にまみれた鞄。折れた短剣。少し離れた木の根元に、王国から支給された外套の布切れが引っかかっている。


俺の体は、なかった。


食われたのか、引きずられたのか、地下の蔓に持っていかれたのかはわからない。ただ、血の量だけが、俺が確かに死んだことを証明していた。


その場に立っていると、膝から力が抜けた。


俺はしゃがみ込んだ。


小さな手で、泥に触れる。乾きかけた血が指についた。自分の血だ。昨日まで俺の中を流れていたもの。それが今は、他人の皮膚に付着した汚れみたいに見える。


吐き気がした。


だが、何も出ない。


「俺、死んだんだな」


声に出すと、ようやく実感が遅れて来た。


涙は出なかった。


不思議と、悲しみも薄かった。自分の死体を見たわけではないせいかもしれない。あるいは、人間の心は自分の死に対して案外鈍いのかもしれない。悲しいというより、納得できない。提出した覚えのない退職届が勝手に受理されていたような気分だった。


俺は鞄を拾った。


中身は荒らされていたが、水筒は残っていた。干し肉も少し。パンは食えたものではない。短剣は折れていたが、柄の部分だけなら持てる。男だった俺の遺品を、女の子になった俺が回収している。状況を俯瞰すると、気が狂いそうだった。


土に穴を掘る道具はない。


せめて血の跡だけでも隠そうと、落ち葉を集めてかぶせた。意味はない。獣には匂いでわかるだろうし、誰かが見ても何が起きたか察するだろう。それでも、何かしないと立ち去れなかった。


作業を終えると、俺は立ち上がった。


王都へ戻るという選択肢は、ほとんどなかった。


この姿で戻って、誰が俺だと信じる。仮に信じたとして、魔王の娘の体だ。王国に捕まれば、聖女や神官に囲まれて解剖まがいの検査をされる可能性が高い。レオンに会えばどうなる。あいつは俺を見て何と言うだろう。


戻ってきたのか、アスカ。


俺のために、またわさびを出せ。


想像しただけで、胃の奥に冷たいものが溜まった。


復讐。


その言葉も浮かんだ。


だが、今すぐ王都へ殴り込むほど、俺は単純ではなかった。いや、単純になりたかった。怒りに任せて突っ走れば、気持ちは楽かもしれない。しかし、俺はまだこの体のことを何も知らない。魔法少女の力も、魔王の娘という立場も、世界の仕組みも、あまりに不明瞭だ。


まず生きる。


そのあとで考える。


そう決めた瞬間、腹が鳴った。


軽くて可愛い音だった。


「そこまで変わらなくていいだろ」


俺は自分の腹に文句を言った。


干し肉をかじる。硬い。小さな顎では噛み切りにくい。水で流し込みながら、俺は周囲の気配を探った。森は危険だ。だが、変身すればかなり戦える。問題は、あの格好でうろつく精神的ダメージと、力の加減がわからないことだった。


少し離れたところに小川の音が聞こえた。


俺は音のする方へ歩いた。木々の間を抜け、斜面を下り、苔むした岩を越える。途中で何度か魔物の気配を感じたが、こちらを見ると逃げていった。魔王の娘の気配を恐れているのか、さっき地下で魔物を殺した辛みの残り香があるのか。


小川に着くと、俺は膝をついた。


水面に顔が映る。


銀髪赤眼の少女。


見慣れない。だが、地下の鏡で見た時よりも、少しだけ生々しかった。髪に葉が絡まり、頬に土がつき、目の下に疲れがある。人形ではない。生きている顔だ。俺の顔になりつつあるのが、嫌だった。


水で顔を洗う。


冷たさに肩が震えた。手で髪をすくと、銀色の束がさらりと落ちる。軽いのに長い。扱い方がわからない。邪魔だ。だが切る道具もない。折れた短剣では危ない。


「天王寺アスカ」


水面の少女に向かって言う。


「俺は天王寺アスカだ」


少女も同じ口の動きをした。


声は高い。


だが、言葉は俺のものだった。


それで今は十分にするしかない。


小川沿いに進めば、人里へ出る可能性がある。日本のキャンプ知識レベルの判断だが、他に頼れるものはない。俺は水筒を満たし、下流へ向かって歩き出した。歩くたびに黒衣の裾が草に引っかかる。森の中でドレスは実用性が死んでいる。魔王の娘を封印した連中は、脱出後の機動性まで考えて服を選べ。


しばらく進むと、また魔物に遭遇した。


今度は巨大な蜘蛛だった。胴体が犬ほどあり、脚は八本どころか十二本くらいある。木の間に張られた糸が、朝露で銀色に光っていた。その真ん中に、鹿らしき動物が包まれている。


蜘蛛は俺を見ると、体を低くした。


逃げない。


捕食対象と判断されたらしい。


俺はため息をついた。


「変身」


今度は少しだけ慣れた。


光が体を包み、黒衣がフリルまみれの魔装へ変わる。慣れたくはなかった。だが命には代えられない。杖が手に現れる。おろし金つき。見れば見るほど腹が立つ。


蜘蛛が糸を吐いた。


俺は横へ跳んだ。体が軽い。小川の上を飛び越え、対岸の岩に着地する。糸は元いた場所の草を絡め取り、締め上げた。あれに捕まれば面倒だ。


俺はわさびを召喚した。


魔装状態だと、召喚したわさびは宙に浮いた。数本の神辛草が俺の周囲に現れ、刃物のように尖る。香りが風に乗る。蜘蛛が脚を震わせた。


辛味付与。


今度は意識して力を絞った。


殺したくない、などと綺麗事を言うつもりはない。相手は魔物だ。襲ってきている。だが、一撃で魂を壊す感覚は、できれば慣れたくなかった。だから俺は、辛みを蜘蛛の目と口器に集中させた。


緑色の霧が蜘蛛の顔面へ届く。


蜘蛛は奇妙な音を立てて跳ねた。脚をばたつかせ、糸を吐き散らし、木にぶつかる。明らかに苦しんでいる。だが、崩壊はしない。辛みの強さを調整できるらしい。


蜘蛛は数秒暴れたあと、森の奥へ逃げていった。


俺はほっと息を吐いた。


できる。


殺す以外の使い方もある。


それがわかっただけで、少し救われた気がした。力は怖い。だが、使い方を選べるなら、まだ俺のものだと言える。


変身を解き、小川沿いに戻る。


森は少しずつ明るくなってきた。木々の間から陽光が差し、葉の上の水滴が光っている。異世界の森は怖いが、美しくもあった。美しいから安全だとは限らない。むしろ、美しいものほど平気で人を殺す。毒キノコも、雪山も、人の笑顔もそうだ。


昼頃、俺は人の声を聞いた。


最初は風かと思った。だが、耳を澄ますと違う。金属がぶつかる音。短い叫び。獣の唸り。戦闘だ。


俺は身を低くし、音のする方へ向かった。


小川から離れ、斜面を登る。岩の間を抜け、倒木を越える。体が小さいせいで、隠れるのは得意だった。茂みに身を潜めると、少し開けた場所が見えた。


そこに、女騎士がいた。


銀色の鎧は傷だらけで、片膝をついている。金色の髪が汗と血で頬に張りつき、肩で息をしていた。年齢は二十代前半くらいだろう。剣を杖代わりにして、なんとか立っている。周囲には壊れた盾や折れた槍、倒れた兵士たちが散らばっていた。


彼女の前に、魔物の群れがいた。


狼型が六体。さっき俺を殺した獣よりは小さいが、どれも馬鹿でかい。さらに奥に、黒い角を持つ熊のような魔物がいる。群れの主だろう。背中に赤黒い瘴気が揺れている。


女騎士は一歩も引いていなかった。


逃げれば助かる可能性があるのかもしれない。だが、彼女の後ろには倒れた若い兵士が一人いた。まだ生きている。腹を押さえ、苦しそうに息をしていた。女騎士はその兵士を守っているのだ。


狼が跳んだ。


女騎士は剣を振るった。鋭い。弱っているのに、剣筋はまっすぐだった。狼の前脚が飛び、魔物が悲鳴を上げて転がる。だが、別の狼が横から噛みついた。鎧の肩に牙が食い込み、彼女の体が揺れる。


「くっ」


女騎士は肘で狼を殴り、無理やり引き剥がした。


強い。


でも、もう限界だ。


俺は茂みの中で息を殺した。


助けるべきか。


相手は王国の騎士かもしれない。俺を召喚し、利用し、追放した王国側の人間だ。しかも今の俺は魔王の娘の体をしている。助けに入ったところで、剣を向けられる可能性は十分にある。


見捨てればいい。


そうすれば安全だ。


少なくとも、俺には彼女を助ける義務はない。勇者パーティーを支える義務も、王国を救う義務も、もうない。あいつらが俺をそう扱った。俺は捨てられた。だから、俺も捨てていい。


そう考えた。


考えたのに、足は動かなかった。


女騎士が剣を構え直す。唇が切れて血が流れている。目は死んでいない。後ろの兵士をちらりと見て、それから魔物たちへ向き直る。


その顔を見た時、嫌なことに気づいた。


彼女は、誰かに捨てられた側ではない。


捨てられても、それでも誰かを守る側に立っている。


俺がここで背を向けたら、たぶん一生忘れない。レオンと同じことをしたと、自分で自分に言い続けることになる。俺はあいつを憎んでいる。だからこそ、あいつと同じ形にはなりたくなかった。


黒角の熊が咆哮した。


狼たちが一斉に身を沈める。次で終わる。女騎士もそれを悟ったのだろう。剣を両手で握り、静かに息を吸った。


俺は茂みの中で立ち上がった。


胸元の宝石に手を当てる。


「変身」


緑と赤と黒の光が、森の影を押し広げた。


フリルが現れる。リボンが揺れる。杖がおろし金つきで手に収まる。何度見ても納得できない格好だ。魔王の娘なのか魔法少女なのか、わさび業者なのか、方向性が渋滞している。


だが、力は本物だった。


俺は茂みから一歩踏み出した。


魔物たちがこちらを向く。女騎士も目を見開いた。銀髪赤眼の小柄な少女が、フリルまみれの衣装で、森の中から杖を持って現れたのだ。正気を疑う光景だろう。俺だって疑っている。


それでも、口は勝手に動いた。


「助けるしかないよな。この格好で」

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