第1話
同窓会のビールは、ぬるくなると記憶の味がした。
二十五歳になった俺たちは、大阪の梅田にある個室居酒屋で、十年ぶりの顔を突き合わせていた。壁には安っぽい木目のシートが貼られ、天井の換気口は油と煙草のにおいを吸い込みそこねたまま黒ずんでいる。掘りごたつの下には誰かが脱いだ靴下のにおいがこもり、テーブルの上には枝豆、唐揚げ、だし巻き、刺身五点盛りが、少しずつ食い散らかされていた。
俺、天王寺アスカは、女みたいな名前だと昔から言われてきた。だが二十五年間、そこそこ普通に男として生きてきたつもりだ。大学を出て、地元の商社に勤め、三年目でようやく仕事にも慣れた。胃薬の減りは早くなったが、人生とはそういうものだと思っていた。
そして隣には、婚約者の難波ミサキがいるはずだった。
正確に言えば、最初は隣にいた。
開始から三十分も経たないうちに、ミサキは俺の右隣から、斜め向かいの席へ移っていた。女子同士で話したいから、と笑っていたが、その席は今宮レオンの隣だった。
レオンは昔から、何かと中心にいる男だった。顔がいい。背が高い。スポーツもできる。テスト前だけ俺のノートを借りに来るくせに、なぜか教師には好かれる。そういう、人生の重力が少しだけ軽そうなやつだ。
名前もレオンだ。今宮レオン。小学生の頃は大げさな名前だといじられていたが、中学に上がる頃には誰も笑わなくなっていた。名前に本人が追いついたからだ。悔しいことに、そういう男は本当にいる。
「アスカ、飲んでるか?」
レオンがグラスを掲げた。琥珀色の液体の向こうで、白い歯が光る。
「飲んでるよ。明日仕事だから控えめだけど」
「相変わらず真面目だな。ミサキ、こいつ家でもこんな感じ?」
ミサキは少し困ったように笑った。
「うん。でも、そこがアスカくんのいいところだから」
いいところ。
その言い方に、俺は小さな骨を飲み込んだような違和感を覚えた。褒めているのに、距離がある。まるで家電量販店で型落ちの冷蔵庫を紹介している店員みたいだった。
ミサキの薬指には、今日、婚約指輪がなかった。仕事帰りで手がむくんでるから、と言われれば、それ以上は聞けなかった。俺は昔から、そういうところがある。嫌な予感の首根っこをつかむより、見なかったふりをして通り過ぎるほうを選ぶ。
乾杯が何度目かになり、誰かが高校時代の担任の物真似を始めた。似ているようでまったく似ていなかったが、皆が笑った。笑い声は居酒屋の壁に吸われ、代わりに妙な熱気だけが残る。
その熱気が、急に冷えた。
最初に気づいたのは、足元だった。
掘りごたつの床板の隙間から、白い光が漏れていた。誰かがスマホを落としたのかと思った。しかし光は細い線になり、曲線を描き、俺たちの足元をぐるりと囲んだ。幾何学模様。円。文字。見たことのない文字なのに、見ているだけで意味が頭の裏側を引っ掻いてくる。
「え、なにこれ」
「店の演出?」
「いやいや、そんなわけ」
レオンが立ち上がろうとした瞬間、光が爆ぜた。
耳の奥に、金属を噛み砕くような音が響いた。視界が白く塗り潰される。胃袋が上へ引っ張られ、心臓だけが元の場所に取り残された気がした。俺はミサキの名前を呼ぼうとしたが、声は喉から出る前にどこかへ吸い込まれた。
次に息を吸ったとき、空気は石の味がした。
俺たちは広間に倒れていた。
居酒屋ではない。明らかに違う。天井が高すぎる。床は磨かれた白い石で、冷たさが膝から骨へ染み込んでくる。壁には巨大な柱が並び、柱の間には青と金の布が垂れていた。正面には玉座があり、その周囲を鎧姿の兵士と、白い法衣の老人たちが取り囲んでいる。
映画か、テーマパークか、悪質なドッキリか。
そう考えようとして、やめた。
空気に含まれているものが違った。埃、香、獣脂、鉄、汗、そして血の古いにおい。現代日本の換気された建物には存在しない、生命が近くで腐ったことのあるにおいだった。
「成功です、陛下」
法衣の老人が震える声で言った。
玉座に座る髭の男が、ゆっくりと立ち上がる。頭には本物っぽい王冠。顔には、本物っぽい疲労。彼は俺たちを見渡し、演劇にしては重すぎる声で告げた。
「異界より招かれし勇者たちよ。どうか我が国を救ってほしい」
誰かが笑った。乾いた笑いだった。すぐに止まった。
その場で説明された内容は、驚くほど雑で、驚くほど聞き覚えがあった。
ここはアストレア王国。大陸の北に魔王軍が勢力を広げている。魔物が増え、瘴気が濃くなり、各地で村が焼かれている。古い神託に従い、異界より勇者を召喚した。俺たちは元の世界へ戻る術を探す代わりに、王国に協力することになった。
ナーロッパ。
誰かが小声でそう言った。たぶん俺たちの中に、同じような小説やゲームを知っているやつがいたのだろう。剣と魔法と王様と魔王。笑えるほどテンプレートで、笑えないほど逃げ道がない。
混乱している俺たちは、神官たちに促されて広間の奥へ移動した。兵士たちが左右を固めていた。廊下を歩くたび、鎧の擦れる音が後ろからついてくる。逃げ出すという選択肢は、その音によって丁寧に殺されていた。
案内されたのは、円形の小さな聖堂だった。中央に水晶の柱があり、その中に青白い火が閉じ込められている。神官長と呼ばれた老人が、俺たちに順番に手をかざすよう命じた。
「異界の皆様には、それぞれ神より授けられし職業がございます。職業は魂の形。戦う力、癒やす力、導く力。そのすべてをこの聖晶が映し出します」
最初に手を置いたのはレオンだった。
水晶の中の火が、黄金色に変わった。聖堂の空気が震え、壁にかかった燭台の火が一斉に膨らむ。神官たちが息を呑んだ。
「おお……」
神官長が膝をついた。
「聖剣勇者。間違いありません。神託に記されし、真なる勇者です」
その瞬間、広間にいた王国の人間たちがざわめいた。兵士の顔に安堵が広がる。法衣の老人たちは涙ぐみ、王女らしき少女は胸に手を当てた。
レオンは、最初こそ戸惑っていたが、すぐに笑った。
「勇者、ね。まあ、やるしかないならやるよ」
似合っていた。
それが腹立たしかった。
次々に元クラスメイトたちの職業が判明した。剣聖、賢者、弓聖、聖盾騎士、竜槍士、精霊術師。全員が全員というわけではないが、だいたい強そうだった。強そうな漢字が並んでいた。皆、最初は不安げだった顔を少しずつ明るくしていく。自分に価値があると保証されるのは、どんな世界でも麻薬みたいに効く。
ミサキの番になった。
彼女が水晶に触れると、柔らかな銀色の光が溢れた。神官長の眉が大きく跳ねる。
「祝福の巫女。勇者を支え、聖なる力を増幅する稀有なる職です」
「ミサキ、すごいじゃん」
レオンが笑った。
ミサキは頬を赤らめた。
「そんな、私なんて」
その言葉は俺に向けられたものではなかった。視線の先にはレオンがいた。
俺は自分の番が来るまで、その光景を見ていた。喉の奥が乾いているのに、唾液だけが妙に苦かった。
最後のほうで名前を呼ばれ、俺は水晶の前に立った。
手を置く。石は冷たかった。表面は滑らかなのに、皮膚の下に細かい針が入ってくるような感覚がある。水晶の火が揺れた。黄金でも銀でもない。青でも赤でもない。なんとも言えない緑色だった。新緑というより、湿った土の下で光る苔。冷蔵庫の奥で忘れられた野菜の断面。妙に鮮烈で、妙に嫌な色。
神官長が水晶を覗き込んだ。
目を細める。
眉間に皺が寄る。
口元が、困った形に歪む。
「天王寺アスカ殿の職業は……」
そこで老人は一度、喉を鳴らした。
「わさび召喚士、です」
聖堂が静まり返った。
誰もすぐには笑わなかった。それが逆にきつかった。言葉の意味を全員が理解するまでに、数秒の時差があったからだ。
「わさび?」
誰かが言った。
「寿司の?」
「刺身についてるやつ?」
「いや、召喚士ってついてるし、強いんじゃね?」
「でも、わさびだぞ」
笑いが起きた。
最初は小さく、やがて遠慮がなくなった。元クラスメイトたちだけではない。王国の兵士も、神官見習いも、口元を隠していた。レオンは笑わなかった。少なくとも表面上は。
彼は俺の肩を叩いた。
「大丈夫だって、アスカ。補助職も大事だろ」
その言葉は優しかった。優しい形をしていた。だが指先の力が強すぎた。笑いをこらえている人間は、力加減をよく間違える。
神官長が儀式として確認を求めたので、俺はその場で能力を使うことになった。使い方は、なぜか頭に浮かんでいた。呼吸の仕方を思い出すように、魔力の流れと唱えるべき言葉がわかる。
俺は右手を開いた。
「召喚」
緑色の光が、掌の上で小さく渦を巻いた。鼻の奥に、つんとした香りが走る。次の瞬間、ぽとりと何かが落ちた。
握りこぶしほどの、瑞々しいわさびだった。
表面はごつごつしていて、切り口もないのに青い香りが立ち上っている。スーパーのチューブではない。本物の根茎。きれいすぎるほどきれいなわさび。
聖堂の空気が死んだ。
誰かが耐えきれず吹き出した。
そこから先は、もう止まらなかった。
「薬味じゃん」
「魔王に刺身でも食わせるのかよ」
「勇者パーティーの寿司担当」
「異世界まで来てそれは逆に才能だろ」
笑い声が頭の上から降ってきた。俺はわさびを握ったまま立っていた。掌の皮膚がじんじんする。辛みが染みているのか、魔力が残っているのか、わからなかった。
ミサキだけは笑っていなかった。
そう思いたかった。
彼女は困った顔で俺を見ていた。可哀想なものを見る顔だった。笑われるより、その顔のほうが痛かった。
それから俺たちは王城の客室棟へ移された。聖堂を出て、石造りの廊下を進み、中庭を横切り、衛兵の詰め所の前を通る。王都の空はやけに広かった。電線もビルもない。雲は日本で見るより低く、白い腹をこちらに見せていた。
部屋は一人ずつ与えられた。寝台も机もある。窓からは城下町が見えた。赤い屋根が密集し、その向こうに灰色の城壁が走っている。さらに遠く、森と山があった。あの向こうに魔物がいるのだと兵士が言った。
召喚から数日は、説明と訓練で過ぎた。
王国は俺たちに甘かった。少なくとも最初は。衣服、食事、寝床、言語の翻訳、基礎知識。元の世界へ戻る方法についても、研究を進めると約束した。もちろん、その約束がどれだけ本気かはわからない。人間は必要な相手には誠実そうな顔をする。必要でなくなれば、顔の筋肉の使い方を変えるだけだ。
訓練場は王城の東側にあった。客室棟から階段を下り、武器庫の横を抜け、騎士たちが整列する広場を通っていく。砂地の広場で、木剣や模擬杖を持たされた元クラスメイトたちは、次々に才能を見せた。
剣聖になった男は、昨日まで営業職だったくせに、騎士団の若手を三人まとめて倒した。賢者になった女は、古語で書かれた魔導書を初見で読み、火球を浮かべた。弓聖は百メートル先の的の中心を射抜いた。
レオンは別格だった。
王国の宝物庫から運ばれてきた聖剣は、長い間誰にも抜けなかったらしい。白い鞘に収まったまま、祭壇の上で眠っていたそれを、レオンは片手で持ち上げた。最初は刃が抜けなかったが、神官長は感動して震えていた。
「間違いない。聖剣が反応しております」
「抜けてないけどな」
俺が小声で言うと、隣にいたクラスメイトが肘でつついた。
「空気読めよ、わさび」
わさび。
名前の代わりに、それが使われるようになるまで時間はかからなかった。
俺の訓練は、ほぼ見世物だった。召喚できるのはわさびだけ。量はそれなりに出せる。一日に百本近く出しても、少し疲れる程度だ。鮮度は抜群。味も香りも強烈。だが、剣にもならなければ盾にもならない。投げても痛いだけ。すりおろせば鼻にくる。それだけ。
厨房の料理人たちは喜んだ。王国には香辛料が高価で、俺のわさびは珍味として扱われた。最初に刺身がないと意味ないだろと思ったが、肉にも魚にもパンにも、王国人はわさびを塗った。涙目になりながらうまいうまいと食う。異世界人の味覚は案外たくましい。
訓練七日目、奇妙なことが起きた。
レオンはその日も聖剣を抜く訓練をしていた。祭壇ではなく訓練場の中央。周囲には神官、騎士、俺たちクラスメイト。ミサキは祝福の巫女として、レオンのそばに立っていた。
「勇者様、心を静めてください。聖剣は魂に応えます」
神官長が言う。
レオンは真剣な顔で柄を握った。額に汗がにじむ。鞘と鍔の間に、白い光が少しだけ漏れた。しかしそれ以上は動かない。筋肉が盛り上がり、歯が食いしばられる。聖剣は沈黙したままだった。
空気が重くなった。
勇者なのに聖剣が抜けない。誰も口にはしないが、その事実は広場にいる全員の喉元に突きつけられていた。
俺は端のほうで、昼食用に呼び出したわさびを籠に詰めていた。料理長から頼まれていたのだ。ついでに一本、冗談半分でレオンへ放った。
「景気づけに食うか?」
レオンは振り向き、反射的にそれを受け取った。周囲が笑う。レオンも苦笑した。
「聖剣にわさびって、どんな組み合わせだよ」
「鼻にくれば目が覚めるだろ」
レオンは場を和ませるつもりだったのか、わさびを少し削って口に入れた。すぐに顔をしかめる。
「っ、きっつ」
その瞬間だった。
聖剣が鳴った。
音というより、光が鼓膜に触れた感覚だった。白い鞘に刻まれた文様が、根元から先端へ走るように輝く。レオンの手元で、刃が一寸ほど抜けた。
神官長が叫んだ。
「おお、聖剣が目覚めた!」
歓声が爆発した。
レオンは驚きながらも、もう一度力を込めた。今度はさらに刃が抜ける。純白の光が広場を満たし、騎士たちが膝をついた。ミサキが涙ぐみ、両手を組む。
「レオン、すごい……」
誰も、わさびのことなど見ていなかった。
俺だけが、自分の掌を見ていた。召喚した直後のじんじんする感覚が、まだ残っている。聖剣の光と、その感覚が、妙に似ていた。鼻の奥を刺す辛みと、魂を焼くような聖なる光。並べて考えるには馬鹿馬鹿しい。けれど、馬鹿馬鹿しいものほど、真実の顔に似ていることがある。
俺は神官長に言った。
「今の、わさびが関係してませんか」
老人は俺を見た。ほんの一瞬だけ、目に苛立ちが走った。
「勇者様の魂が聖剣と深く結びついたのです」
「でも、食べた直後に」
「天王寺殿。貴殿の召喚物が食欲を刺激し、勇者様の気合いを高めた可能性はあります。しかし聖剣は神具。薬味で動くものではありません」
周囲が笑った。
薬味で動く聖剣。
その言葉はその日のうちに広まった。俺はまた笑われた。笑いながら、皆はレオンを讃えた。勇者様がついに聖剣を抜いた。希望が見えた。王国は救われる。
そういう物語に、俺のわさびは邪魔だった。
似たようなことは、その後も起きた。
賢者職のクラスメイト、京都カリンが大魔法の制御に失敗しそうになった時、俺が昼食に出したわさび入りのスープを飲んだ直後、暴れていた炎が美しい輪になって収束した。
聖盾騎士の盾にヒビが入った時、俺のわさびを混ぜた軟膏を塗ったら、翌朝には新品のように戻っていた。
ミサキの祝福魔法もそうだった。彼女が祈る前、俺がすりおろしたわさびを水に溶かし、場を清めるように撒くと、光は倍以上に強くなった。神官たちはそれを、異界の清めの儀式だと解釈した。誰もわさびそのものを調べようとはしなかった。
俺は何度か説明しようとした。
「俺の召喚したわさび、魔力に反応してる気がする」
「はいはい、わさびすごいね」
「じゃあ魔王にわさび食わせたら勝ちじゃん」
「勇者様の引き立て役としては優秀かもな」
言葉は笑いに包まれると、形を失う。相手に届く前に、柔らかく腐る。俺は次第に黙るようになった。黙ってわさびを出し、削り、すり、配った。補助職として、そういう役目を与えられた。
召喚からひと月ほど経つと、俺たちは王都の外へ出ることになった。
訓練場から兵舎へ移り、そこで革鎧と外套を受け取る。俺にも短剣が支給された。刃は鈍く、柄は手に合わなかった。騎士は言った。
「自衛用だ。前に出るな」
わかっている。
城門を出た瞬間、王都のにおいが変わった。石畳の街路を抜け、市場を通り、城壁の門をくぐる。外には草原が広がっていた。風が強い。遠くに農村があり、さらにその先に黒い森が見えた。森の上には鳥が飛んでいない。そういう些細な不自然さが、かえって現実味を帯びていた。
最初の討伐対象は、灰狼と呼ばれる魔物だった。
大型犬より二回り大きく、目が黄色い。群れで行動し、家畜と子供を襲う。俺たちは騎士団と一緒に森の浅い場所へ入った。落ち葉を踏む音が妙に大きい。湿った土のにおい。木々の間から、獣の息遣いが聞こえる気がした。
戦闘は突然始まった。
茂みから灰色の影が飛び出す。速い。俺の目では追いきれない。レオンが前に出た。聖剣は抜けていたが、光は弱い。灰狼の爪が彼の腕をかすめ、血が飛ぶ。
「レオン!」
ミサキが叫ぶ。
俺は反射的にわさびを召喚した。なぜそうしたのか自分でもわからない。短剣よりはマシだと思ったのかもしれない。掌に生まれたわさびを握り潰すように魔力を込めると、青い香りが爆発した。
鼻に抜けるどころではなかった。
空気そのものが辛くなった。灰狼たちが一斉に身をすくませる。黄色い目から涙のような液体が滲んだ。その一瞬、レオンの聖剣が眩しく輝いた。
「うおおおお!」
レオンが斬った。
灰狼の群れは、光の刃に飲み込まれた。三体、四体、五体。騎士たちが驚愕の声を上げる。レオンは返り血を浴びながら立っていた。絵になった。残酷なほど、絵になった。
「勇者様!」
「勇者様が魔物を討ち取ったぞ!」
歓声。
俺は木の根に座り込んでいた。握り潰したわさびの汁が手首まで垂れている。皮膚が赤くなり、ひりひりした。目から涙が出ていた。辛みのせいか、恐怖のせいか、わからなかった。
レオンがこちらを見た。
一瞬だけ、彼の目が細くなった。俺の手元を見る。わさびを見る。次に彼は笑って、皆のほうへ向き直った。
「みんな、大丈夫か!」
勇者の声だった。
俺はその時、初めて理解した。
功績というものは、強い光に集まる虫のようなものだ。光っている場所へ勝手に寄っていく。地面に落ちている緑色の根には、誰も気づかない。
それから遠征が増えた。
王都から馬車で半日ほどの村へ行き、魔物を狩る。砦へ向かい、瘴気の沼を浄化する。廃坑に巣食った蜘蛛型の魔物を焼き払う。俺はいつも後方にいた。荷物を運び、食事を手伝い、わさびを出す。
レオンはどんどん勇者らしくなった。聖剣の扱いが上達し、騎士たちから尊敬され、王国の民に名前を呼ばれるようになった。ミサキは祝福の巫女として、彼のそばに立つ時間が増えた。
最初は仕方ないと思っていた。
職業の相性がある。戦場で生き残るためだ。俺は自分にそう言い聞かせた。
だが、人の距離は、言い訳よりも正直だ。
食事の席で、ミサキは俺の隣に座らなくなった。作戦会議で、彼女はレオンの背後に控えるようになった。馬車では酔いやすいから前に座ると言い、その前席にはいつもレオンがいた。
ある夜、遠征先の砦で、俺は水を汲みに行った帰りに廊下を歩いていた。石壁に松明の火が揺れ、影が人の形を何倍にも膨らませている。兵士たちの寝息、馬のいななき、外から聞こえる虫の声。俺は木桶を抱えたまま、角を曲がった。
レオンの部屋の扉が、少しだけ開いていた。
中からミサキの声がした。
「だめだよ、誰か来たら」
「大丈夫だって。みんな寝てる」
レオンの声。
俺は足を止めた。
水桶の中で水面が揺れる。揺れは俺の手から伝わったものだった。扉の隙間から漏れる灯りは細く、床に刃物みたいな線を作っていた。そこに、ミサキの髪飾りが落ちていた。俺が去年の誕生日に贈ったものだ。
声を出せばよかった。
扉を開ければよかった。
それができないから、俺は俺だった。
俺は足音を殺して引き返した。水桶を抱えたまま、自分の部屋まで戻った。扉を閉め、桶を床に置くと、水面に自分の顔が映った。知らない男の顔だった。怒っているようにも、泣いているようにも見えない。ただ、何かを失う瞬間だけを見逃した間抜けの顔だった。
翌朝、ミサキは普通だった。
「アスカくん、おはよう」
普通に笑った。
髪飾りはつけていなかった。
俺は言った。
「昨日、レオンの部屋にいた?」
ミサキの表情が止まった。ほんのわずか、瞬きが遅れた。
「相談してただけだよ」
「夜中に?」
「レオン、勇者としていろいろ抱えてるから。私、祝福の巫女だし、支えてあげないと」
「俺は?」
声が掠れた。
ミサキは困った顔をした。あの、わさび召喚士と判定された時と同じ顔だった。
「アスカくんは、強いから」
強い。
笑いそうになった。俺はこの世界で一番弱い。短剣もまともに振れない。魔物が出れば後ろに隠れる。できることはわさびを出すだけだ。
「俺たち、婚約してるよな」
「うん」
「じゃあ、ああいうのはやめてくれ」
「だから、相談だって言ってるでしょ」
ミサキの声に、初めて苛立ちが混ざった。
「アスカくん、最近ちょっと変だよ。みんな大変なのに、自分だけ被害者みたいな顔してる」
俺は何も言えなかった。
被害者みたいな顔。
実際に被害者かどうかは関係ない。そう見えることが罪になる場面はある。特に、周囲が美しい物語に酔っている時は。
レオンにも話した。
王都へ戻る馬車の休憩中だった。街道脇の草地で、騎士たちが馬に水を飲ませている。俺はレオンを呼び止めた。
「ミサキと距離を置いてくれ」
レオンは少し驚いた顔をして、それから苦笑した。
「何言ってんだよ」
「わかってるだろ」
「わからないな。俺たちは仲間だ。勇者と祝福の巫女として一緒にいる時間が多いのは当然だろ」
「夜に部屋へ入れるのも当然か」
レオンの表情から笑みが消えた。
周囲に人はいなかった。だが遠くには騎士がいる。馬が鼻を鳴らす音がした。
「アスカ」
レオンの声は低かった。
「お前、今の自分の立場わかってるか」
「立場?」
「勇者パーティーに置いてもらってるんだぞ」
胸の奥で何かが冷えた。
「置いてもらってる?」
「悪い意味じゃない。お前にはお前の役目がある。わさびを出す。それでいいじゃないか。俺たちは前で命張ってる。ミサキもな。支える相手が誰かくらい、理解してくれ」
「婚約者を支える相手って言ってるのか」
「そういう狭い話じゃないんだよ」
レオンはため息をついた。面倒な部下を諭す上司みたいだった。
「世界がかかってる。俺たちは選ばれた。お前も、まあ、何かの役には立ってる。だったら足を引っ張るな」
拳を握った。
殴りかかればよかったのかもしれない。だがレオンは聖剣勇者で、俺はわさび召喚士だ。殴った瞬間、俺だけが悪者になる。暴力は強い者に都合よくできている。弱い者が使えば、ただの罪になる。
俺は何もせず、その場を離れた。
歩きながら、掌の中にわさびを召喚した。緑の根茎が現れる。青い香りが立つ。握り潰したくなったが、やめた。そんなことをしても、痛いのは俺の手だけだ。
召喚から八十日ほどが過ぎた頃、俺たちは王都へ凱旋した。
魔王軍の前哨部隊を退けたのだ。実際には、勝利はぎりぎりだった。賢者の大魔法は途中で崩れかけ、聖盾騎士は意識を失い、レオンも魔族の将に押されていた。俺は後方で必死にわさびを召喚し、すりおろし、水に溶かし、祈祷具や武器や傷口に塗った。何がどう効いているのかはわからない。ただ、わさびの香りが濃くなるほど、皆の力は安定した。
最後にレオンが聖剣を振るい、魔族の将を倒した。
勝利の歓声が上がった。
俺は膝をついて吐いた。魔力切れだった。喉の奥が焼け、視界に黒い粒が浮いた。誰も気づかなかった。気づいたとしても、勇者の勝利の背景に倒れているわさび係など、絵として邪魔だったのだろう。
王都では祝宴が開かれた。
城門から王城までの大通りを、俺たちは馬車で進んだ。民衆が花を投げる。子供たちが勇者様と叫ぶ。レオンは立ち上がって手を振った。隣にはミサキがいた。二人は並んでいるだけで、完成された絵画みたいだった。
俺は同じ馬車の端に座っていた。足元には、厨房へ納める予定のわさび入り木箱が置かれている。民衆の中に、俺へ手を振る者はいない。いや、一人だけいた。屋台の肉焼き職人だ。たぶん新しい薬味を待っているだけだ。
祝宴の途中、俺は王城の白い診療室へ呼ばれた。
大広間から出て、銀の燭台が並ぶ廊下を進む。案内の女官は無言だった。階段を上がり、薬草のにおいが強くなる区画へ入る。扉の前には王国騎士が二人立っていた。
中にいたのは、レオン、ミサキ、王国の医師、神官長、それから宰相だった。
空気が変だった。
ミサキは椅子に座り、膝の上で両手を重ねている。顔色は悪い。レオンは彼女のそばに立っていた。近すぎる距離だった。俺が入っても、離れなかった。
「アスカくん」
ミサキが俺を見た。
その声で、だいたいわかった。
人間の脳は残酷だ。聞きたくない結論ほど、素早く組み立てる。
医師が咳払いをした。
「難波ミサキ様は、ご懐妊されています」
部屋の壁が遠くなった。
言葉の意味はわかる。妊娠。子供。腹の中に命がある。祝福されるべきこと。普通なら。
俺はミサキを見た。
「俺の子じゃないよな」
言ってから、自分の声が驚くほど平坦なことに気づいた。
俺とミサキは、結婚式まではそういう関係を急がないと約束していた。古臭いと言われればそうかもしれない。だが、それは二人で決めた約束だった。この世界に来てからも、俺は彼女に触れていない。触れられる状況でもなかった。毎日、生きるだけで精一杯だった。
だから、計算は簡単だった。
簡単すぎて、吐き気がした。
ミサキは泣きそうな顔で俯いた。
レオンが一歩前に出た。
「俺の子だ」
部屋のどこかで、薬瓶が小さく鳴った。窓から入る風で棚が揺れたのだろう。そんな些細な音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「いつからだ」
俺は言った。
レオンは目を逸らさなかった。
「こっちに来てすぐだ」
「すぐ?」
「不安だったんだ。俺も、ミサキも。元の世界に戻れるかもわからない。魔物と戦わなきゃいけない。そういう中で、支え合った」
支え合った。
便利な言葉だ。服を脱がせる時にも、裏切りを包む時にも使える。
「俺に黙って?」
「言えなかった」
ミサキが小さく言った。
「言えるわけないよ。アスカくん、きっと傷つくから」
あまりに馬鹿馬鹿しくて、笑いがこみ上げた。傷つくから黙っていた。刺したら痛がるから、背中から刺した。そう言われているのと同じだった。
「俺たち、婚約してただろ」
「ごめん」
「ごめんで済むのか」
「でも、私……レオンのこと、好きになっちゃったの」
ミサキは泣いた。
泣きたいのはこっちだと思った。だが泣いた者が弱者になる。泣かない者は責める側になる。部屋の空気はもう、俺を加害者として形作り始めていた。
宰相が口を開いた。
「天王寺殿。事情は痛ましい。しかし、勇者様と祝福の巫女様の間に宿った御子は、王国にとっても大きな希望です」
「俺には関係ない」
「感情は理解します。ですが、今は国家の危機。個人の婚約より優先すべきものがある」
個人の婚約。
ずいぶん軽い言い方だった。紙切れ一枚より薄く、食べ終わった皿の上のソースより軽い。
レオンが言った。
「俺はミサキと子供を守る。責任は取る」
「責任?」
「ミサキを妻にする」
視界が赤くなった気がした。
「それは俺の婚約者だ」
「元、だろ」
レオンの声は静かだった。
「もう無理だろ、アスカ。お前だってわかってるはずだ。ミサキは俺を選んだ。子供もいる。お前がここで騒いでも、誰も幸せにならない」
「お前が言うなよ」
「現実を見ろ」
現実。
目の前にあった。聖剣勇者。祝福の巫女。王国の希望。腹の中の子供。国家の事情。世界の危機。全部が立派な言葉で飾られていた。
その真ん中で、俺だけがみすぼらしかった。
わさび召喚士。
薬味係。
婚約者を取られた男。
俺はミサキに言った。
「本当に、それでいいのか」
ミサキは泣きながら頷いた。
「ごめんね、アスカくん」
俺の中で、何かが静かに切れた。
大きな音はしなかった。怒鳴る気力も消えた。人間、本当に大事なものを失う時は、案外静かだ。血管の一本一本から体温が抜けていくように、世界が冷たくなっていく。
その日の夜、俺は勇者パーティーから外されることを告げられた。
診療室を出たあと、俺は王城の会議室へ連れていかれた。廊下を進み、階段を下り、城の北側にある重い扉の部屋へ入る。そこにはレオン、宰相、神官長、騎士団長、そして数人のクラスメイトがいた。ミサキはいなかった。
テーブルの上には地図が広げられていた。魔物の森、国境砦、補給路。そういう単語が並んでいる。
宰相が形式的な声で言った。
「天王寺アスカ殿。貴殿には明朝より、勇者パーティーを離れ、後方支援任務に就いていただく」
「追放ってことか」
「言葉を選んでいただきたい。適材適所です」
騎士団長は腕を組んだまま俺を見なかった。神官長は祈るように目を伏せている。クラスメイトたちは気まずそうにしていたが、誰も口を挟まなかった。気まずさは、優しさではない。責任を取りたくない時に出る湿気みたいなものだ。
レオンが言った。
「アスカ、お前もつらいだろ。このまま一緒にいるのは、お互いのためにならない」
「お互い?」
「パーティーの空気が悪くなる。ミサキにも負担だ。子供にもよくない」
「俺のせいか」
「そうは言ってない」
「言ってるだろ」
レオンは眉をひそめた。
「冷静になれよ。お前は戦えない。これから魔王軍との戦いはもっと厳しくなる。正直、前線にわさび召喚士を置いておく余裕はないんだ」
その言葉で、部屋の空気が少し楽になったのがわかった。
皆が待っていた理由だった。
婚約者を奪われた男を追い出すのではなく、戦力にならない者を配置転換する。そう言えば、誰も罪悪感を持たずに済む。
「俺のわさびが皆の力を支えてるかもしれないって話は」
言いかけた瞬間、クラスメイトの一人が吹き出した。
「まだ言ってんのかよ」
別の誰かが笑う。
「聖剣も魔法もわさびのおかげって?」
「さすがに痛いぞ、アスカ」
レオンは笑わなかった。
だがその無表情のほうが、笑いより嫌だった。彼は俺の言葉を否定しているのではない。聞く価値がないものとして処理していた。
神官長が穏やかに言った。
「天王寺殿。貴殿の召喚物が食料や薬味として有用であることは認めております。ですが、勇者様の聖剣、大魔法、巫女様の祝福は、神々より授かりし奇跡です。あまり不敬なことを口にされませぬよう」
不敬。
俺は笑った。
笑い声は自分でも聞いたことがないくらい乾いていた。
「わかった。好きにしろ」
「理解してくれて助かる」
レオンが言った。
俺は彼を見た。
「ミサキは」
「休ませてる」
「最後に話を」
「必要ないだろ」
即答だった。
「今のミサキに負担をかけるな」
負担。
俺はいつの間にか、婚約者ではなく負担になっていた。人間の肩書きは、剥がれる時には音がしない。ただ周囲の目線が変わる。昨日までそこにあったはずの椅子が、気づけば片付けられている。
翌朝、俺は馬車に乗せられた。
客室棟から出る時、荷物は小さな鞄一つだった。日本から持ってきたスマホはとっくに電池が切れている。財布も鍵も、異世界では意味がない。王国から支給された外套、水筒、干し肉、硬いパン、短剣。それだけ。
城門へ向かう途中、俺は何度も振り返った。ミサキが来るかもしれないと思っていた。謝ってほしいわけではない。いや、謝ってほしかったのかもしれない。自分でもわからなかった。ただ、最後に顔くらい見せると思っていた。
彼女は来なかった。
馬車には俺の他に、レオンと騎士二人が乗った。レオンが来たことに少し驚いた。見送りか、監視か。たぶん両方だ。
馬車は王城を出て、石畳の大通りを進んだ。朝の市場ではパンの焼けるにおいがした。果物を並べる女、荷車を押す男、勇者様と囁く子供たち。俺の姿を見る者はいない。レオンは窓の外へ軽く手を振った。民衆が歓声を上げる。
城壁の門を抜けると、道は土になった。車輪が跳ねるたび、腰に鈍い痛みが走る。王都が遠ざかっていく。赤い屋根が小さくなり、城の尖塔だけがしばらく見えていたが、それもやがて丘の向こうへ消えた。
「どこへ行くんだ」
俺は聞いた。
「北西の補給拠点だ」
レオンが答えた。
「そこなら、お前の能力も役立つ。料理とか、保存食とか」
「魔物の森の近くだろ」
「安全は確保されてる」
嘘だと思った。
レオンの声は、嘘をつく時ほど自然だった。昔からそうだ。テスト勉強してないと言いながら高得点を取る。彼女いないと言いながら告白される。大事なことほど軽く言う。
昼過ぎ、馬車は街道から外れた。
草地を進み、細い林道へ入る。木々の密度が増し、空が狭くなる。鳥の声が消えた。馬が嫌がるように首を振り、騎士が手綱を強く引く。車輪が木の根に乗り上げ、大きく傾いた。
「補給拠点って、こんな奥なのか」
レオンは答えなかった。
さらに進むと、道が途切れた。
そこは森の入口だった。いや、入口というより、口だった。黒い木々が密集し、枝が絡まり、昼間なのに奥は暗い。湿った風がこちらへ流れてくる。腐葉土と獣のにおい。何かが死に、何かがそれを食い、また何かが生まれる場所のにおいだった。
馬車が止まった。
騎士が扉を開けた。
「降りろ」
俺はレオンを見た。
「どういうことだ」
レオンは馬車から降り、外套の襟を整えた。聖剣は腰にある。白い鞘が木漏れ日の中でぼんやり光っていた。
「この森を抜ければ、小さな街道に出る。そこから南へ行けば村がある」
「補給拠点は」
「予定が変わった」
騎士の一人が俺の鞄を地面へ投げた。乾いた音がする。パンが袋の中で潰れた。
「おい」
俺が詰め寄ろうとすると、もう一人の騎士が槍の石突きで俺の胸を押した。軽く押しただけだろう。だが俺は後ろによろめき、尻餅をついた。湿った土が手につく。
レオンが見下ろしていた。
その顔には、怒りも悲しみもなかった。面倒な手続きを終わらせる者の顔だった。
「悪いけど、わさびを出すことしかできないお前はもう必要ないんだ」
言葉は静かに落ちた。
森の土より冷たかった。
「ミサキも、これを知ってるのか」
レオンの目が少しだけ動いた。
馬車の中で、カーテンが揺れた。
俺は見た。
ミサキがいた。
奥の座席に座り、腹の前で両手を重ねていた。まだ膨らみなどわからない。だがその仕草が、彼女がもう俺の知っているミサキではないことを告げていた。
「ミサキ!」
俺は立ち上がった。
彼女はカーテンの隙間からこちらを見た。泣いていた。泣きながら、小さく唇を動かした。
ごめんね。
声は聞こえなかった。
レオンがカーテンを閉めた。
「これ以上、ミサキを苦しめるな」
俺は笑った。
今度は声にならなかった。喉の奥で何かが裂けるような感覚だけがあった。
「俺が苦しめてるのか」
「お前がいると、あいつは前に進めない」
「便利だな、勇者って」
レオンの眉が動いた。
「何?」
「奪って、捨てて、全部世界のためって言えば済むんだもんな」
騎士が剣の柄に手をかけた。レオンはそれを片手で制した。
「アスカ。最後だから忠告しておく。王都へ戻ろうとするな。ミサキにも近づくな。勇者パーティーにも、王国にも、お前の居場所はもうない」
「元の世界に戻る方法は」
「見つかったら知らせる」
嘘だった。
俺はそれを理解した。理解した瞬間、心のどこかが妙に澄んだ。
「俺のわさびがなくても大丈夫なんだな」
レオンは鼻で笑った。
「まだそれか」
「答えろよ」
「大丈夫に決まってるだろ。俺は聖剣勇者だ。お前はわさび召喚士。最初から、比べるような話じゃない。ミサキも俺と結婚する。お前の出番はもう無いんだよ」
そう言って、レオンは馬車へ戻った。
騎士たちも乗り込む。扉が閉まり、御者が鞭を鳴らした。馬車は来た道を戻っていく。車輪が泥を跳ね、蹄の音が遠ざかる。
俺はその場に立ち尽くしていた。
馬車は林道の曲がり角で一度だけ姿を見せ、それから完全に消えた。音も消えた。森の中に、俺だけが残された。
いや、正確には、俺だけではなかった。
森は生きていた。
木々の間から、無数の気配がこちらを見ている。枝が擦れる音。葉の裏を何かが這う音。土の下で小さな虫が動く音まで、やけにはっきり聞こえる。空気は冷たく、湿っていて、肺に入るたびに内側からカビが生えそうだった。
俺は鞄を拾った。
パンは潰れていた。干し肉は少しある。水筒は半分。短剣は腰に差している。地図はない。方角もわからない。魔物の森。この世界に来てから何度も聞いた名前だ。王国の兵士でさえ、数人組でなければ入らない場所。戦闘能力のないわさび召喚士が一人で歩ける場所ではない。
死ぬのだろう。
その考えは、驚くほど自然に浮かんだ。
怒りよりも先に、納得が来た。人間は不公平を理解できないと怒るが、あまりに露骨な不公平には、逆に現実感がなくなる。まるで雑な脚本を読まされているようだった。親友に婚約者を奪われ、妊娠を告げられ、その日のうちに追放され、魔物の森に捨てられる。
笑える。
笑えるくらい、ひどい。
俺は右手を開いた。
魔力を流す。
「召喚」
掌にわさびが現れた。
緑の根茎は相変わらず美しかった。森の薄暗さの中で、そこだけが異様に鮮やかに見える。青い香りが鼻を刺し、涙が出た。辛みのせいだ。そう思うことにした。
あいつらは知らない。
聖剣が輝く時、いつもわさびの香りがあったことを。
賢者の魔法が安定する時、俺の掌がひりついていたことを。
ミサキの祝福が強まる時、清めの水には必ず俺の召喚したわさびが溶けていたことを。
そして何より、わさびをただの薬味だと笑ったあいつらが、薬味抜きの料理みたいに、これから味気なく崩れていくことを。
その時の俺はまだ、はっきりとは知らなかった。けれど、体のどこかで感じていた。俺が失ったものは、あいつらにとっても失ったものなのだと。
森の奥で、低い唸り声がした。
一つではない。
右から。左から。前から。枝の間に、黄色い光がいくつも灯る。目だった。灰狼より大きい。もっと低く、もっと重い足音が土を踏む。獣の息が腐った肉のにおいを運んでくる。
俺は短剣を抜いた。
手が震えていた。刃先も震えていた。こんなもので戦えるわけがない。わかっている。わかっているのに、抜くしかなかった。
もう一度、わさびを握る。
青い辛みが掌から立ち上った。
「もし次があるなら」
声が勝手に出た。
森が聞いている気がした。木も、虫も、獣も、土の下に眠る何かも。
「もう二度と、お前たちのためにわさびなんか出さない」
獣が跳んだ。
黒い影が視界を塞ぐ。牙が見えた。涎が糸を引き、血のにおいが鼻を打つ。俺は短剣を構えた。遅すぎる。間に合わない。世界が奇妙にゆっくりになる。
その瞬間、足元の土のさらに深い場所で、何かが鼓動した。
まるで、俺の言葉に返事をするように。




