第3話
言ってから、自分で自分の声に少し引いた。
高い。細い。森の中でよく通る。どう考えても、死にかけの女騎士を助けに入る歴戦の戦士の声ではなかった。近所の駄菓子屋で百円落とした女子中学生の声だ。
だが、魔物たちは笑わなかった。
狼型の魔物が、俺を見た瞬間に低く唸った。黄色い目が細まり、鼻先がひくつく。俺の周囲に漂う青い香りを嗅ぎ取ったのだろう。わさび。神辛草。薬味。神器の鍵。魂を壊す刺激物。どの呼び方をしても、今の俺にとってはあまり嬉しくない。
女騎士も俺を見ていた。
血に濡れた金髪。傷だらけの銀鎧。剣を構えたまま、彼女の碧い目が大きく見開かれている。たぶん、助けが来たと思ったら、森の茂みから銀髪赤眼のフリル魔法少女が出てきたのだ。絶望に追い打ちをかけるタイプの幻覚に見えても仕方ない。
「下がって」
俺は言った。
言ってから、女騎士のほうが俺より頭三つ分くらい大きいことに気づいた。絵面としては完全に逆だ。だが、今さら引っ込められない。
女騎士がかすれた声で答える。
「君は……」
「説明はあと。噛まれたくなければ、後ろの人を守って」
彼女の後ろでは、若い兵士が腹を押さえて倒れていた。まだ息はある。血の量は多いが、目は動いている。助かる可能性はある。俺に治癒魔法はない。だが、この騎士を生かせば、兵士も何とかなるかもしれない。
狼の一体が跳んだ。
速い。
けれど、見える。
魔装状態の視界は、普通の目で見る世界とは違っていた。魔物の筋肉が収縮する直前のわずかな震え、爪が地面を蹴る角度、飛び散る土の粒の軌道まで、変に鮮明に見える。映像が遅くなったわけではない。俺の処理速度だけが、無理やり上げられている。
俺は杖を振った。
先端の赤い宝石が緑色に脈打つ。周囲に浮かんでいたわさびが、ひとりでに削られた。おろし金部分が高速で回転し、細かな神辛草の粒子が空中に散る。
香りが爆発した。
狼の鼻先へ、青い霧が突き刺さる。
「キャンッ」
魔物が空中で悲鳴を上げた。体勢を崩し、俺の横を転がって木の幹に激突する。目と鼻から涙を垂らし、前脚で顔をかきむしっていた。死んではいない。かなり苦しそうだが、死んではいない。
加減はできる。
それがわかった瞬間、胸の奥にあった硬いものが少しだけ緩んだ。
別の狼が左右から回り込む。群れで狩る生き物は厄介だ。一体が囮になり、もう一体が背後を取る。灰狼と同じだ。俺を殺した獣たちも、こうやって近づいてきた。
その記憶が腹の底を冷やした。
牙。息。腐った肉のにおい。肩に食い込む痛み。腹からこぼれる熱。
俺は奥歯を噛んだ。
小さな顎で噛むと、歯がきしむ感覚まで違う。だが、怒りだけは前の体と同じ形をしていた。
「来るなって言っただろ」
杖を地面に突いた。
足元に緑の円が広がる。草の葉に青い霜のような粒子が付着し、半径数メートルの空気が一気に辛くなった。人間なら目を開けていられないだろう。俺自身も少し涙目になった。自分の魔法で泣かされるのは、かなり納得がいかない。
狼たちは結界に踏み込んだ瞬間、動きを止めた。
鼻を鳴らし、くしゃみのような音を立てる。涙を流し、よろめく。そこへ俺は、辛みの針を撃ち込んだ。見た目は細い緑の光だった。実体はない。だが、魔物たちはそれを食らうと、腹を殴られたように丸くなって倒れた。
殺さない。
殺す必要があるやつだけ殺す。
そう決めないと、俺はこの力に引きずられる気がした。
黒角の熊が動いた。
狼たちが怯えたように道を空ける。巨体が一歩踏み出すたび、地面が沈んだ。熊に似ているが、熊ではない。肩から背中にかけて黒い骨の板が突き出し、額にはねじれた角がある。口元からは赤黒い瘴気が漏れていた。目は黄色ではなく、濁った赤。血を水で薄めて放置したような色だった。
女騎士が低く呻いた。
「あれは、黒角獣……森の奥にいるはずの魔物が、なぜ」
「強いの?」
「小隊で当たる相手です。正面からなら、騎士十人でも危うい」
「そういうことは先に言ってほしい」
俺は杖を握り直した。
黒角獣が咆哮した。
音が腹に来た。耳ではなく、内臓を直接揺さぶられる。周囲の葉が震え、倒れていた兵士が小さく悲鳴を上げた。女騎士が剣を構えて彼をかばう。まだ立つ気か。見ているだけで傷口が痛そうだった。
黒角獣の背中から、瘴気が広がった。
霧ではない。もっと粘っこい。黒い油を薄く伸ばしたようなものが空気に混ざり、木々の間を這ってくる。それが触れた草は、一瞬で茶色く変色した。まずい。あれを吸ったら、人間は危ない。
俺は反射的にわさびを召喚した。
今度は一本ではない。十本近い神辛草が、俺の周囲に浮かぶ。緑の根茎が回転し、葉もないのに生命の香りを撒き散らす。辛みは刺激だ。刺激とは、体に異物を拒絶させる信号だ。なら、瘴気にも拒絶を叩き込めるのではないか。
そんな理屈が頭に浮かんだ。
たぶん、この体か職業が答えを知っている。
「辛味支配」
口にした途端、世界が少しだけ変わった。
瘴気の流れが見えた。黒い煙ではなく、無数の小さな悪意の粒として見えた。腐敗、病、呪い、怒り、飢え。いろいろなものが混ざっている。それらは生き物の体に入り込み、内側から機能を狂わせる。
なら、その入り口に辛みを置けばいい。
俺は杖を横に振った。
わさびの霧が壁になった。青く鋭い香りの膜が、黒い瘴気とぶつかる。じゅう、と音がした。実際に燃えているわけではないのに、鼻の奥に焦げた薬草みたいなにおいが広がる。
瘴気が押し返された。
女騎士が息を呑む。
「瘴気を、浄化した……?」
「浄化っていうか、鼻に来る感じで追い払っただけ」
「意味がわかりません」
「俺もわからない」
黒角獣が突進してきた。
巨大な質量がまっすぐ来る。正面から受ければ、今の体など布人形みたいに潰れるだろう。だが、避ければ後ろの女騎士と兵士が巻き込まれる。
俺はその場を動けなかった。
なら、止めるしかない。
杖の先端を黒角獣に向ける。緑の魔力が集まる。集まりすぎる。制御を間違えれば、魂ごと消す一撃になる。殺すべき相手か。たぶんそうだ。こいつを逃がせば、他の人間が死ぬ。狼たちとは違う。瘴気を撒く魔物を放置する理由はない。
それでも、指先が一瞬迷った。
俺はもう人を殺された側だ。だからといって、殺す側になることに何の抵抗もなくなるわけではない。
黒角獣の角が迫る。
迷っている時間は終わった。
頭の奥で、勝手に技名のようなものが浮かんだ。
言いたくない。
絶対に言いたくない。
けれど、魔力が喉を震わせた。
「ワサビカル、スティンガー!」
森に、死ぬほど恥ずかしい叫びが響いた。
緑の閃光が走った。
それは槍の形をしていた。いや、もっと細い。針だ。神経に直接刺さる辛みの針。黒角獣の額に命中した瞬間、巨体が空中で止まった。突進の勢いを残したまま、時間だけが凍ったように見えた。
黒角獣の赤い目が大きく開く。
次に、全身の瘴気が内側から緑色に染まった。
魔物は声を上げなかった。上げられなかったのだろう。魂の奥に、耐えられない刺激を撃ち込まれたのだ。骨板が割れ、角に亀裂が入り、皮膚の下から光が漏れる。巨体はその場に崩れ落ちた。地響きが起き、落ち葉が舞った。
そして、砂になった。
灰ではない。肉も骨も残らない。魂核を破壊された魔物は、存在の輪郭を失う。地下で見た魔物と同じだった。
静寂が戻った。
狼たちは主の消滅を見て、完全に戦意を失った。鼻を押さえるように前脚を動かしながら、森の奥へ逃げていく。俺は追わなかった。追う気力もなかった。
女騎士が、剣を下ろした。
そのまま膝をつく。金属の膝当てが土を叩く音が、やけに大きく聞こえた。
俺は慌てて駆け寄った。
「大丈夫?」
「はい。まだ、死んではいません」
「その返事、だいたい大丈夫じゃないやつだよ」
彼女の肩から血が流れていた。鎧の隙間を狼に噛まれたらしい。脇腹にも裂傷。額にも打撲。よく立っていたなと思う。根性でどうにかなる傷の量ではなかった。
後ろの兵士も危険だった。顔が真っ白で、唇が紫色になりかけている。腹の傷から出血しているが、手で押さえているせいで詳しくは見えない。俺が治療できるとは思えない。できるのはわさびを出すことと、辛みで何かを壊すことだ。
役に立つのか、これ。
そう考えた瞬間、頭の奥にまた文字が浮かんだ。
神辛草には、瘴気毒の進行抑制、腐敗遅延、魔力回路活性化の効能があります。
だから説明文が業務用すぎる。
俺は変身を解かず、わさびを一本召喚した。杖のおろし金で少し削り、水筒の水に溶かす。鼻を刺す匂いが立ち上った。女騎士がわずかに身構える。
「何を?」
「たぶん薬。たぶん」
「たぶん?」
「俺の人生、だいたいたぶんで進んでる」
まず兵士の口元に水筒を近づけた。
「飲める?」
兵士は薄く目を開けた。俺を見て、ぎょっとしたような顔をする。まあそうだろう。瀕死の時に銀髪赤眼の魔法少女がわさび水を飲ませようとしてきたら、俺なら走馬灯のほうを信じる。
「大丈夫。毒じゃない。たぶん」
「そこは言い切ってください」
女騎士が苦しそうに突っ込んだ。
兵士は小さく笑い、すぐに痛みに顔を歪めた。俺は水を少しずつ飲ませた。彼はむせたが、飲み込んだ。数秒後、目を大きく見開く。
「っ、鼻が……!」
「効いてる?」
「鼻が、鼻が死にます……!」
「生きてる証拠だな」
わさび水を飲んだ兵士の顔に、わずかに赤みが戻った。傷が塞がるわけではない。だが、呼吸が安定し、黒ずんでいた血の色が少し明るくなった。瘴気毒の進行を抑えているのだろう。
次に、削ったわさびを布に包み、女騎士の傷口近くへ当てた。
「しみるかも」
「騎士です。痛みには慣れていま、あああっ」
女騎士が叫んだ。
森の鳥が一斉に飛び立った。
俺は反射的に手を離した。
「ご、ごめん」
「いえ、失礼しました。少し、想像以上でした」
少しどころではない声だった。だが彼女は歯を食いしばり、もう一度わさび布を受け入れた。目に涙が浮かんでいる。さっき黒角獣に立ち向かっていた時より、明らかに苦しそうだ。
「これ、魔物よりひどくないですか」
「俺に言われても」
「ですが、熱が引いていく。毒が薄れているのがわかります」
女騎士は息を整えながら言った。
「あなたは、聖女なのですか?」
「違う」
「では、精霊術師?」
「違う」
「古代魔導師?」
「もっと嫌なやつ」
「嫌なやつ?」
俺は自分の格好を見下ろした。
フリル。リボン。杖。おろし金。
「魔法少女」
女騎士は真剣な顔で頷いた。
「なるほど」
「なるほどじゃない。そこは疑って」
「しかし、実際に魔法を使う少女ですから」
「正論が一番痛い時もあるんだよ」
話しているうちに、女騎士の警戒が少しずつ薄れていくのがわかった。命を助けたことと、兵士を救おうとしていることが効いているのだろう。人間は自分を助けた相手をすぐには敵と見なせない。逆に、助けた相手から裏切られると、傷は深くなる。俺はそれを最近学んだ。
兵士の応急処置を終えると、女騎士はゆっくりと立ち上がろうとした。
すぐによろめく。
俺は慌てて支えようとしたが、体格差がありすぎた。俺が支えるというより、彼女の鎧の重さに俺が引っ張られる形になる。魔装状態でなければ、たぶん一緒に倒れていた。
「無理しないで」
「部下たちを、確認しなければ」
彼女の視線の先には、倒れた騎士たちがいた。
動いていない。
俺は何も言えなかった。
女騎士は一人ずつ、倒れた仲間のそばへ行った。俺もついていく。だが、助けられる者はいなかった。首を裂かれた者。胸を潰された者。瘴気で顔色が黒くなった者。ここで何が起きたのか、嫌でもわかる。
壊滅だ。
彼女の部隊は、ほとんど全滅していた。
女騎士は最後の一人の目を閉じさせると、剣を地面に立てて静かに祈った。声は出さない。涙も流さない。だが、背中が少しだけ震えていた。
俺はその横で黙っていた。
かける言葉が見つからない時、人間はよく慰めらしい音を出す。大丈夫、頑張った、あなたのせいじゃない。便利な言葉だ。便利すぎて、時々軽い。俺は軽い言葉をかけられる側の不快さを知ってしまったので、口を閉じるしかなかった。
祈りを終えると、女騎士は俺の前に膝をついた。
今度は倒れたのではない。意図して膝をついたのだ。
「私はアストレア王国北境騎士団副団長、レミリー・クラウゼンと申します。命を救っていただき、感謝いたします」
鎧が土に触れる音がした。
副団長。
思ったより偉い人だった。
俺は少し身構えた。王国の騎士。それも上級職。俺を召喚した国の人間だ。直接俺を森に捨てたわけではないが、同じ紋章を胸に付けている。警戒するなというほうが無理だった。
「俺は……アスカ」
一瞬、ルミナリアという名が頭をよぎった。
だが、口から出たのは自分の名だった。
「天王寺アスカ」
「テンノウジ、アスカ様」
「様はいらない」
「では、アスカ殿」
「それもなんか固いけど、まあいい」
レミリーは俺の顔をまっすぐ見た。
その視線が、ふと揺れる。
銀髪。赤い瞳。魔力の気配。彼女は何かに気づいたようだった。さっきまで命の恩人を見る目だったものが、騎士の目に戻る。緊張。困惑。そして、恐怖を押し殺した理性。
「アスカ殿。失礼を承知でお尋ねします」
「何」
「あなたは、人間ですか?」
予想はしていた。
していたが、聞かれるとやはり胃が重くなる。
俺は変身を解いた。光がほどけ、魔装が古い黒衣に戻る。フリルが消えるのはありがたいが、銀髪赤眼の小柄な少女である事実は変わらない。むしろ、魔装の派手さが消えたぶん、魔王の娘っぽさは増したかもしれない。
「さあ」
俺は正直に答えた。
「自分でもよくわからない」
レミリーは眉をひそめた。
「わからない?」
「昨日までは人間だった。男だった。勇者と一緒に召喚された異世界人だった。それが死んだと思ったら、この体で目が覚めた」
言ってから、説明が雑すぎることに気づいた。
だが、詳しく話そうとすると長くなる。婚約者を勇者に寝取られたとか、妊娠報告と同時に追放されたとか、わさび召喚士だったとか、全部を並べると、助けた女騎士にまで可哀想なものを見る目をされそうだった。
レミリーは黙って聞いていた。
笑わない。
疑わないわけではないだろう。だが、少なくとも笑わなかった。それだけで、少し呼吸が楽になった。
「銀髪赤眼。古い魔王種の特徴です」
彼女は静かに言った。
「北境には、封印された魔王の姫の伝承があります。邪神の器として生まれ、人と魔の争いの果てに森の地下へ封じられた少女。名は、たしか」
「ルミナリア」
俺が言うと、レミリーの顔色が変わった。
「やはり」
「この体の名前らしい。俺の名前じゃない」
「魂は別、ということですか」
「たぶん」
「先ほどから、たぶんが多いですね」
「俺も困ってる」
レミリーは剣に手を伸ばしかけた。
当然だ。
魔王の娘。邪神の器。王国の騎士なら、討伐対象として見るのが普通だ。命を助けられたからといって、すべてを飲み込める話ではない。
俺は動かなかった。
逃げようと思えば逃げられる。変身すれば、今の彼女では止められない。だが、逃げたら終わりな気がした。せっかく助けた相手と、最初から敵になるのは嫌だった。
レミリーの指が剣の柄に触れる。
数秒。
森の中に、小川の音だけが聞こえた。
やがて、彼女は手を離した。
「あなたは私を助け、部下を助けようとしました。魔王の娘であろうと、邪神の器であろうと、その事実は変わりません」
「騎士として、それでいいの?」
「よくはありません」
即答だった。
「ですが、騎士である前に、人として恩を忘れるほうが私は嫌です」
その言葉は、まっすぐすぎて少し痛かった。
俺は視線を逸らした。
「そういう人もいるんだな」
「王国にも、いろいろな人間がいます」
「知ってる。最低なのもいた」
レミリーは何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。
彼女は生き残った兵士、カイルという名らしい男のところへ戻り、傷の状態を確認した。カイルはまだ意識が朦朧としていたが、わさび水のおかげか呼吸は安定している。
「このままここにはいられません」
レミリーが言った。
「血の匂いで、また魔物が来ます。少し南に、古い見張り小屋があります。崩れかけていますが、夜を越すには使えるはずです」
「歩ける?」
「私だけなら。カイルは担架が必要です」
俺は周囲を見た。
壊れた盾、槍、外套、折れた木。簡易担架なら作れるかもしれない。日本でアウトドアの経験などほとんどないが、遠征中に騎士たちがやっていたのを見たことはある。
俺たちは倒れた騎士たちの外套を借り、槍の柄を二本使って担架を作った。
死者の持ち物を使うのは気が引けた。だがレミリーは、彼らも仲間を運ぶためなら許すと言った。その声が少し震えていたので、俺はまた黙った。
カイルを担架に乗せる。
問題は運ぶ人手だった。
レミリーは負傷している。俺は小さい。普通に考えれば無理だ。だが、魔装状態ならいけるかもしれない。精神的にはかなり嫌だが、命には代えられない。本日何度目かわからない結論である。
「またその姿に?」
レミリーが聞いた。
「笑うなよ」
「笑いません」
俺は変身した。
緑と赤の光が体を包み、フリルとリボンが出現する。レミリーは本当に笑わなかった。騎士の礼儀なのか、単に笑う体力がないのかは不明だ。ただ、少しだけ目が輝いた気がした。
「美しいですね」
「やめて。精神に来る」
「失礼しました」
担架の前側を俺が持ち、後ろ側をレミリーが持った。魔装状態だと、カイルの体重はそれほど重く感じなかった。むしろ、鎧を着たレミリーがふらつくたび、そちらのほうが心配になる。
俺たちは戦場を離れた。
倒れた騎士たちを埋葬する余裕はなかった。せめて魔物に荒らされにくいよう、レミリーが短い祈りを捧げ、俺がわさびの霧で周囲の血の匂いを少しだけ散らした。森の土に、青い香りが残る。弔いとして適切かどうかは知らない。だが、俺にできるのはそれくらいだった。
見張り小屋へ向かう道は、林道とも呼べない獣道だった。
レミリーの案内で、小川を渡り、背の低い茂みを抜け、苔むした岩場を迂回する。移動するたび、彼女は周囲の地形を説明してくれた。北へ行けば魔物の巣。東へ戻れば俺が捨てられた林道。南には古い国境線の跡。西には沼地がある。
「この森は、昔は魔王領と王国領の境でした」
レミリーは息を切らしながら言った。
「戦争で焼かれ、瘴気が溜まり、今のような魔物の森になったと聞いています」
「魔王軍は今もいるの?」
「組織としては弱体化しています。ただ、残党や過激派は各地に潜んでいます。今日の黒角獣も、本来なら森の奥から出てこない。誰かが誘導した可能性があります」
「つまり、普通に面倒な状況」
「はい」
即答が重い。
途中、レミリーが一度倒れかけたので、俺たちは大きな木の根元で休んだ。カイルにわさび水を飲ませる。彼は涙目になりながらも、少しだけ意識を取り戻した。
「副団長……ご無事で」
「無事とは言いがたいですが、生きています。あなたもです」
カイルは俺を見た。
「この子は……?」
「命の恩人です」
レミリーが迷わず答えた。
カイルはぼんやりした顔で俺を見つめ、次に俺の魔装を見て、また目を閉じた。
「夢か……」
「現実だよ」
「現実のほうがひどい……」
瀕死の兵士にまで言われた。
少しだけ元気がある証拠だと思うことにした。
休憩後、俺たちはさらに南へ進んだ。森の密度が少しずつ薄くなる。空が見える面積が増え、湿った土の匂いに乾いた草の匂いが混ざり始めた。やがて、崩れた石壁が見えた。
見張り小屋というより、小さな廃砦だった。
半分ほど崩れた石造りの塔と、屋根の抜けた倉庫。周囲には昔の柵の跡が残っている。蔦に覆われ、苔に沈みかけていたが、入口を塞げば一晩くらいは持ちそうだった。
俺たちは廃砦の中へ入った。
まずカイルを倉庫跡の乾いた床に寝かせる。レミリーが鎧の留め具を外し、傷を確認した。俺はその間、周囲を見て回った。壁の隙間から風は入るが、獣がすぐに飛び込めるほどではない。塔の上へ続く階段は崩れかけている。井戸は枯れていた。木箱は腐っていたが、焚き火に使える木片は集められそうだった。
日が傾き始めていた。
森の夕方は早い。木々の影が伸び、気温が下がる。俺は廃砦の入口付近にわさびの霧を薄く撒いた。魔物避けになるかもしれない。少なくとも、鼻のいい獣には嫌がらせになる。
「便利ですね、神辛草」
レミリーが言った。
「そっちの世界では有名なの?」
「古い文献に出てきます。聖剣や神器の儀式に用いられた神域植物。今は失われたものとされていました」
「聖剣にも?」
俺は思わず聞き返した。
「はい。勇者の聖剣を起動する触媒として、神辛草の名が残っています。もっとも、実物を見た者はいないため、学者の間では比喩表現だとされていました」
腹の奥で、冷たい笑いが生まれた。
やっぱり。
聖剣はわさびで動いていた。
レオンが勇者だからではない。いや、勇者の資格がなかったとは言わない。だが、その力を安定させ、引き出していたのは俺の召喚したわさびだった。薬味で動く聖剣。笑い話ではなく、歴史的事実だったわけだ。
俺は廃砦の壁に背中を預けた。
「どうしました?」
「いや、ちょっと元職場の業務実態を思い出してた」
「元職場?」
「勇者パーティー」
レミリーの目が鋭くなった。
「アスカ殿は、勇者様と?」
「同じ召喚者だった。職業がわさび召喚士だったから笑われて、でも俺のわさびであいつらの力が安定してたっぽい。で、婚約者を勇者に取られて、妊娠したって報告されて、邪魔になったから森に捨てられた」
言った。
言ってしまった。
言葉にすると、改めてひどかった。あまりにひどくて、少し他人事みたいに聞こえる。レミリーはしばらく動かなかった。カイルも目を開けてこちらを見ていた。瀕死の兵士に聞かせる話ではなかったかもしれない。
「それは」
レミリーが低い声で言った。
「勇者の行いではありません」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
誰かにそう言ってほしかったのだと、そこで気づいた。
俺は怒っていた。レオンに。ミサキに。王国に。笑ったクラスメイトたちに。だが、その怒りの下にあったのは、もっと単純なものだった。俺がされたことは、おかしい。そう誰かに認めてほしかった。
「まあ、俺も勇者らしさに詳しいわけじゃないけど」
声が少し掠れたので、冗談で誤魔化した。
レミリーは真剣な顔のままだった。
「少なくとも、仲間を魔物の森に置き去りにする者を、私は勇者とは呼びません」
カイルがかすれた声で言う。
「副団長……それ、王都で言うと首が飛びますよ」
「事実を言っただけです」
「なおさら飛びます」
この二人、意外と会話のテンポがいい。
少しだけ空気が緩んだ。
俺は干し肉と硬いパンを出し、レミリーたちに分けた。カイルはほとんど食べられなかったが、わさび水を少しずつ飲んだ。レミリーはパンにわさびを塗って食べ、涙目になっていた。
「なぜ塗ったの」
「貴重な神域植物ですので」
「食べ方としては間違ってないけど、量が違う」
「鼻が燃えています」
「でしょうね」
夕闇が濃くなると、廃砦の中に冷気が溜まり始めた。
レミリーは自分の外套を俺に渡そうとした。俺は断った。負傷者が使うべきだ。だが、彼女は頑として譲らない。
「アスカ殿は体が小さい。冷えます」
「見た目ほど子供じゃない」
「見た目は大切です」
「そういう正論も痛い」
結局、外套はカイルにかけ、俺は焚き火の近くに座った。魔装を解いていると寒いが、変身したままだと精神が削れる。どちらを取るか迷った末、寒さを選んだ。人としての尊厳は温度より重い。たぶん。
夜になると、森の音が変わった。
昼間は鳥や虫の音があったが、夜はもっと湿った音になる。遠くで何かが吠える。枝が折れる。地面を這うものの気配がする。廃砦の入口に撒いたわさびの霧のおかげか、近づいてくる魔物はいなかった。たまに気配が入口付近で止まり、くしゃみのような音を立てて去っていく。
わさび結界、思ったより優秀だ。
焚き火の光に照らされながら、レミリーは剣の手入れをしていた。傷だらけの体でよくやる。カイルは眠っている。呼吸は安定していた。
「アスカ殿」
レミリーが言った。
「明日、私は北境砦へ向かいます。カイルを治療師に見せ、部隊壊滅の報告をしなければなりません」
「うん」
「あなたはどうされますか」
答えは決まっていなかった。
王都へ戻る気はない。魔王軍に行く気もない。森に住むのは論外。北境砦に行けば、王国の騎士たちに見つかる。魔王の娘と疑われるだろう。下手をすれば捕縛される。
だが、レミリーをここで見捨てて一人で去るのも違う。
「砦に行ったら、俺は捕まる?」
「可能性はあります」
正直だった。
「ですが、私が命の恩人として保護を主張します。少なくとも、いきなり剣を向けさせはしません」
「それ、君の立場が悪くならない?」
「なります」
「即答やめて」
レミリーは少しだけ笑った。
初めて見る笑顔だった。疲れ切って、血の気も薄い顔なのに、不思議と凛としている。こういう人が本当にいるのだなと思った。物語の中の騎士みたいな人間。だが、物語の騎士と違って、彼女は傷つき、汗をかき、わさびで涙目になる。
だから信用できるのかもしれない。
「アスカ殿が望むなら、私があなたの盾になります」
「命の恩人だから?」
「それもあります。ですが、それだけではありません」
レミリーは剣を鞘に収め、まっすぐ俺を見た。
「あなたは強大な力を持ちながら、魔物をすべて殺しはしませんでした。カイルを救おうとしました。倒れた私の部下たちにも祈りを捧げてくれた。私は、その行いを信じます」
「買いかぶりだよ」
「かもしれません」
「そこは否定して」
「ですが、私は自分の目で見たものを信じます」
重い言葉だった。
レオンたちは、自分に都合のいい物語を信じた。勇者がすごい。聖女がすごい。わさび召喚士は役に立たない。そう信じれば、自分たちが気持ちよくなれるからだ。
レミリーは違う。
少なくとも今は、目の前の行いを見ている。
俺は焚き火に小枝を投げ入れた。ぱち、と音を立てて火の粉が上がる。
「じゃあ、砦までは一緒に行く」
「ありがとうございます」
「その代わり、俺を売らないで」
「誓います」
レミリーはその場で片膝をつこうとした。
「やめて。傷が開く」
「では、座ったままで失礼します」
彼女は剣を胸の前に立てた。
「レミリー・クラウゼンの名において、アスカ殿を守ると誓います」
「重いなあ」
「騎士の誓いですので」
「俺、昨日まで会社員だったんだけど」
「会社員?」
「説明すると長い。朝にする」
そう言うと、レミリーは素直に頷いた。
夜は長かった。
俺は眠れなかった。眠れば、また元の体の最期を見る気がした。獣の牙。土の冷たさ。ミサキの唇。レオンの声。悪いけど、わさびを出すことしかできないお前はもう必要ないんだ。
必要ない。
その言葉が、焚き火の音に混ざって何度も戻ってくる。
俺は小さな手を握った。
この手はもう男の手ではない。だが、わさびを召喚できる。辛みを操れる。魔物を倒せる。誰かを助けることもできる。
必要ないかどうかは、俺が決める。
少なくとも、あいつらにはもう決めさせない。
その頃、王都では、勇者レオンが白い訓練場の中央で聖剣の柄を握っていた。
朝の光が大理石の床を照らし、見学席には神官や騎士たちが並んでいる。昨日までなら、レオンが聖剣を掲げるだけで、空気が震えた。民衆の期待、王国の希望、本人の自信。そういう見えない燃料が、彼の周囲にはいつも満ちていた。
だが、その日の聖剣は重かった。
柄を握る手に力を込めても、刃は鞘から半分しか抜けない。光も弱い。白ではなく、濁った灰色に近い。レオンは奥歯を噛み、さらに腕に力を込めた。
動かない。
見学席の神官たちが、小さくざわめいた。
レオンのこめかみに汗が浮かぶ。
「勇者様、お疲れなのでは」
神官長が慌てて言った。
「昨日は長旅でした。無理をなさらず」
「いや、問題ない」
レオンは笑おうとした。
うまくいかなかった。
ミサキは少し離れた場所で見ていた。白い巫女服の上から腹をそっと押さえている。まだ膨らみはない。だが、その仕草だけで周囲は彼女を丁重に扱う。勇者の子を宿した祝福の巫女。王国にとって、彼女はもうただの異界人ではない。
レオンはもう一度、聖剣を引いた。
刃はわずかに鳴っただけだった。
その音が、彼の耳には嘲笑のように聞こえた。
おかしい。
こんなはずではない。
アスカを森に置いてきたからといって、何が変わる。あいつはわさびを出すだけだった。戦えない。空気を悪くする。ミサキを苦しめる。パーティーに不和をもたらす。だから外した。それは正しい判断だった。
正しいはずだった。
なのに、胸の奥に小さな棘がある。
わさび。
あの青い香りがない。
訓練場の空気は、妙に薄かった。聖剣を抜く前、いつも鼻の奥を刺していた刺激がない。食事にも、祈祷具にも、清めの水にも、あの緑色の根はない。あるはずがない。出せる者を捨てたのだから。
レオンはその考えを叩き潰した。
馬鹿馬鹿しい。
聖剣が薬味に頼るはずがない。
「今日はここまでにしよう」
彼は鞘に刃を戻した。
戻す時だけは、やけに滑らかだった。
訓練のあと、勇者パーティーは小規模な魔物討伐に出た。王都近郊の草原に出没した灰狼の群れ。以前なら、準備運動にもならない相手だった。
だが、戦闘は長引いた。
賢者カリンの炎魔法は途中で形を崩し、草地を無駄に焼いた。聖盾騎士の防御は狼の爪で大きく揺らぎ、弓聖の矢はなぜか風に流された。ミサキの祝福は光こそ出るが、以前のように体の芯まで力が満ちる感覚がない。
レオンは聖剣を振るった。
狼は倒れた。倒れたが、一撃ではない。二度、三度と斬る必要があった。灰狼の血が腕に飛び、レオンは息を乱した。騎士たちはそれでも勇者を称えた。だが、声の中に少しだけ戸惑いが混じっている。
「今日は調子が悪いだけだ」
誰かが言った。
誰に向けた言葉かは、誰にもわからなかった。
王都へ戻る馬車の中で、ミサキはレオンの横に座っていた。以前なら、そこでアスカが水を渡し、食事を整え、わさびを削っていた。誰も頼んでいない顔をしながら、全員がそれを当然のように受け取っていた。
今、馬車の中には干し肉と硬いパンしかない。
カリンが不満げに言った。
「なんか、食事が味気ないね」
誰も答えなかった。
レオンは窓の外を見ていた。
草原の向こうに、魔物の森が黒く見えた。
そこにアスカを置いてきた。
たぶん、もう生きていない。
そう思うと、胸の棘が少しだけ深く刺さった。だが、レオンはそれを罪悪感とは呼ばなかった。必要な判断に伴う痛み。勇者として背負うべきもの。そういう立派な名前をつけた。
名前をつければ、たいていのものは少しだけ軽くなる。
王城に戻ると、宰相がレオンを待っていた。
「勇者様、北境より緊急報告です」
「魔王軍か?」
「いえ。魔物の森付近で、北境騎士団の小隊が壊滅しました。ただし、副団長レミリー・クラウゼンと兵士一名が生存している可能性があります」
レオンは眉をひそめた。
「可能性?」
「付近を偵察していた斥候が、奇妙な光を見たとのことです。緑色の閃光。黒角獣が一撃で消滅したと」
レオンの指が止まった。
「一撃で?」
「はい。さらに、現場には強烈な刺激臭が残っていたそうです。斥候は目と鼻をやられ、しばらく涙が止まらなかったとか」
ミサキが小さく息を呑んだ。
レオンはゆっくりと宰相を見た。
「その光を放った者は?」
宰相は書類をめくった。
「報告によれば、銀髪赤眼の小柄な少女。奇妙な魔装をまとい、杖を持っていたそうです。兵士たちは半信半疑ですが、こう呼んでいます」
そこで宰相は、わずかに声を落とした。
「魔物の森に現れた、銀髪の魔法少女と」




