7話 旅の始まり
よろしくお願いいたします。
「……さい……きなさい……起きなさい」
ココの耳元で、心地よい澄んだ声が響く。
「ん……?」
目をこすりながらゆっくりとまぶたを持ち上げると、すぐ目の前にマティルダの美しい顔があった。あまりの至近距離に、寝ぼけ眼のココは思わず息を呑む。
「て、天使……?」
「なっ……! な、何を寝ぼけたことを言っているのよ……早く起きなさい!」
マティルダは慌てて顔を離した。
(天使ですって……!? 朝起きていきなりそんな歯の浮くような台詞を言うなんて……やっぱり生粋の女たらしだわ! 騙されないんだから……!)
心の中で激しく身構えるマティルダをよそに、ココは満面の笑みを浮かべた。
「あ、魔女様、おはようございます」
「……出発の準備をしてちょうだい」
マティルダはぷいっとそっぽを向いて冷たく告げた。
ココはいそいそと立ち上がり、携帯食を口に放り込むと水筒の水で一気に流し込んだ。
「あの……魔女様、少し離れて後ろを向いていて欲しいのですが……」
「なんでよ……」
「自然現象です! 用を足したいのですが……」
「なっ! は、早くして来なさい!」
マティルダは顔から火が出るほど赤くなり、慌てて限界まで離れて背を向けた。
(せ、精神融合の懸念点はまさにそれだったのよ……!)
500年前に生きた大魔女とはいえ、中身は世間知らずでウブな乙女である。当然、男性の“アレ”など見たことすらあるはずがなかった。
ココは部屋の隅でいそいそとそれを済ませ、戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「……」
スッキリした顔のココに対し、マティルダは恥ずかしさのあまり直視できない。
「今後、大きい方はどうしたらいいですかね……?」
「し、知らないわよ! 私は限界まで離れるから、見えないようにやってちょうだい!」
「……なんか、そこは恥ずかしいなー」
「恥ずかしいのはこっちよ! ……い、行くわよ」
「はい」
マティルダが指先を小さく動かすと、禍々しい石の扉が静かに開いた。
ココが扉に向かって歩き出したその時、マティルダが声をかける。
「あっ! 待って」
「どうしました……?」
「アレを持って行ってくれるかしら?」
マティルダが指さしたのは、祭壇の上に置かれた美しい手鏡だった。
「手鏡ですか……? 長らく封印されていた元凶の品なので、嫌ではないのですか?」
「その鏡は私の物なの。お父様とお母様からもらった大事な物なのよ……たぶん私の物で現存している物は、それしか残っていないと思うわ……」
どこか寂しげに瞳を伏せるマティルダ。
ココは何も言わず、鏡が置かれていた白い綺麗な布でそれを包み、さらに自分の持っていた布を丁寧に巻き重ねて壊れないよう梱包すると、大事そうにリュックの奥へと収めた。
「……」
その丁寧で優しい仕草を、マティルダは黙って見つめていた。
胸の奥がきゅっと疼くのをごまかすように、マティルダは小さく咳払いをした。
「行きましょう」
「はい」
二人は部屋の外へと出た。
「この忌々しい部屋は完全に封印するわ! ……本当は部屋ごと粉々に破壊したいのだけど、迷宮が崩落したら大変だから我慢してあげるわ」
マティルダは何かの呪文を低く詠唱し始めた。
数秒後、ギシギシと凄まじい軋み音を立てながら、頑丈な扉が中心から渦を巻くようにねじ曲がり、一体化して変形していく。マティルダの五百年分の怒りが凝縮したかのような光景だった。扉ごと壁を破壊しない限り、二度と開くことはないだろう。
「さあ、行きましょう」
「は、はい……」
何事もなかったかのように歩き出すマティルダの魔法の実力と怒りの末端を目の当たりにして、ココは冷や汗を流した。
魔晶石が淡く照らす回廊を抜け、ココが隠し通路を発見した分岐点まで戻ってきた。
「それで、出口はどっち?」
「……どっちでしょう?」
ココは顎をポリポリとかきながら首を傾げた。
「えっ!? どういうこと!?」
「マッピングはジーナ……メンバーで得意な人がいたので、全部その人に任せていて……」
ココは申し訳なさそうに、パーティ内での役割分担を簡単に説明した。
「ふぅ……しょうがないわね。魔法で出口を探すわ」
マティルダは静かに目を閉じ、呪文を唱え始めた。
「静寂よ、我が耳となれ――魔力感知」
数秒後、マティルダはゆっくりと目を開き、通路の先を指差した。
「コッチね」
「凄いですね……!」
「このくらいの魔法、私の時代では迷子になりそうな子供が使って家に帰っていたわよ」
ふんと鼻を鳴らして面白くなさそうに言い放つマティルダ。
「ハハハ……迷子の子供ですか」
ココは苦笑いするしかなかった。
「最短で、それと戦闘は最低限ですます方向で行くわよ」
「は、はい!」
それから数時間、2人は迷宮を駆け上がっていった。
マティルダの的確なナビゲートのおかげで、一度も道に迷うことなく、モンスターとの無駄な遭遇も避けて順調に進んでいた。
「待って!」
突如、マティルダが鋭い声を上げた。
「!?」
ココは即座に身構える。
「5階層への階段付近に、オークが3体いるわ」
「階段付近だと、避けて通るのは難しいですね……」
「倒すから良いわ」
「オークは2体を5人がかりでようやく倒した相手です……たった2人ですが、大丈夫ですか?」
「はぁ……」
マティルダは心底呆れたようにため息をついた。
「言ったでしょ? 今の私でも、あなた達5人よりずっと強いって」
「はあ……」
「もう少し前に進んでちょうだい。魔法の射程が届かないわ」
「了解しました!」
ココは覚悟を決め、左手のスモールシールドを構え、腰の剣の柄に手をかけた。
そして次の瞬間――ココはオークの群れに向かって猛然と駆け出した。
「ちょ、ちょっと待ちなさい……!?」
マティルダは魂の鎖で強引に引っ張られる形になり、目を丸くして叫んだ。
オークは極めて優れた嗅覚を持つため、隠密で近づいて奇襲をかけるのは不可能に近い。知能が低く連携が取れないため、前衛が真っ先に突撃して混乱させ、その隙に各個撃破するのがパーティ戦の定石だった。
「うりゃああっ!!」
ココは疾風の勢いで間合いを詰め、抜刀一閃、先頭のオークへ斬りかかった。
鮮やかな太刀筋が走り、オークの片腕が宙を舞う。
突如として現れた人間の奇襲に、オークたちは激しく動揺した。
ココは間髪を入れず、体勢を低くしてオークの脚を薙ぎ払うように斬り裂いた。一撃目ほどの威力はないものの、深く肉を断ち切る。
追撃を繰り出そうとした瞬間、横から別のオークが巨大な棍棒を振り下ろしてきた。
ココは冷静にシールドの角度を傾け、棍棒の軌道を滑らせて直撃を回避すると、後ろへ跳躍して距離を取った。
突撃の勢いはいったん止まり、腕を斬られた個体以外の二体が獰猛な唸り声を上げて構え直す。
だが、これまでの冒険の中で一番と言えるほど完璧な立ち回りに、ココは内心で歓喜していた。
(やっぱり、愛する女性が見守ってくれていると、こうも動きが違うのか……!)
(格好いいところを見せて、褒めてもらわないと!)
ココが一呼吸置き、2体目のオークへ踏み込もうとした――まさにその瞬間。
頭上を切り裂く轟音と共に、高速の何かが背後から飛来した。
ズドッ!!
凄まじい衝撃音と共に、残るオークたちの頭部へ巨大で鋭利な氷の塊が正確無比に突き刺さっていた。巨躯を誇るオークたちは声も上げられず、地響きを立ててその場に崩れ落ちた。
「え……?」
ココが目を丸くして振り返ると、そこには激怒したマティルダが浮かんでいた。
「ちょっと! どういうことよ!!」
「ひえっ……」
「急に走り出さないでって言ったでしょ! 貴方に引っ張られて、私の詠唱が遅れたじゃないの!」
「す、すみません……」
「あと、貴方に死なれたら困るって言ったわよね!? ちゃんと聞いてたの!?」
「ですが、3体もいたので……前衛の俺が引きつけようと……」
しょげ返るココに対し、マティルダは顔を真っ赤にしてまくしたてる。
「ですがもへったくれもないわ! 貴方は私の後ろにいなさい!」
「俺、一応前衛なんですけど……」
「そんなの知らないわ!」
「わかったの!?」
「……はい」
矢継ぎ早に怒鳴りつけられ、ココは犬のように耳を垂らしてしょんぼりと頷くしかなかった。
2人の奇妙な旅の始まりは、まさにこんな調子だった――。
ありがとうございました。




