43話 日記
よろしくお願いいたします。
その夜、ココはヨームの部屋を訪れた。
扉をノックすると、すぐに返事があった。ココは一礼してから、部屋の中へ入る。
ヨームは机に向かい、書類を整理していた。
「夜分遅くに申し訳ありません」
ココが扉を閉めながら言うと、ヨームは顔を上げた。
「いえいえ。こちらこそ、ご足労いただきまして」
ヨームは好々爺然とした笑顔でココを迎えた。
「まあ、お座りください」
そう言って、ソファーへ座るよう促す。
「ハンス様の日記をご覧いただく前に、ココ様に確認しておきたいことがございます」
「はい。分かっています」
ココとマティルダは、あらかじめヨームに事情を話すと決めていた。
これ以上、この老人に嘘をつき続けるのは難しい。そう判断したからだ。
「魔女様、よろしいですか?」
「ええ……」
マティルダが姿を現した。
黒い髪に、黒い衣装。そして、息をのむほど美しい顔立ち。
ただ一つ、常人と異なる点があった。
彼女の輪郭はぼんやりと霞み、身体がわずかに透けているのだ。
「く、【黒の魔女】……マティルダ様ですか……?」
さすがのヨームも、驚きを隠せなかった。
500百年前に封印されたと伝えられる人物が、今まさに目の前にいるのだ。
「はい。マティルダです」
マティルダは穏やかな声で答えた。
その返事を聞いた瞬間、ヨームはこれまでの出来事を理解した。
「なるほど……。若を助けた理由も、ご家族のことを調べている理由も、これで分かりました」
ヨームは、改めてマティルダを見つめた。
「ですが、ココ様とマティルダ様が一緒にいる理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「はい」
ココは、これまでの経緯をヨームに説明した。
マティルダが封印されていたこと。
ココの身体に魂をつなぎ、肉体を取り戻す旅をしていること。
そして――。
「なるほど。そういうことでしたか……」
ヨームは感心したように頷いた。
「私も大抵のことでは驚きませんが、さすがにこれは予想以上でしたな」
「しかも、告白とは……」
ヨームが、いたずらっぽく笑った。
「一目惚れしたので!」
ココは胸を張って答えた。
「……」
マティルダは俯き、黙り込んでいる。
「マティルダ様も、まんざらではないご様子ですな」
ヨームが、いたずらっぽく笑った。
「ま、まんざらって……! しょ、承諾はしていないし……。たまたま、この男だっただけよ!」
マティルダは慌てて否定した。
「はっはっはっ。マティルダ様は、言い伝えとはだいぶ違いますな」
ヨームは楽しそうに笑った。
その言葉に、ココは先日フリンクスが口にした言葉を思い出した。
【黒の魔女】を、淫乱で狡猾な女だと決めつけた言葉を。
「そうなんです! 魔女様は、言い伝えで語られているような女性ではありません! ましてや、淫乱で姑息な、そんな人では……!」
ココは、これまでため込んでいた思いを一気に吐き出した。
「……それで、ココ様は若と上手くいっていないのですね」
「申し訳ありません……」
ヨームは、この7日間でココの事情を感じ取っていた。
フリンクスが抱えている苦しみ。
そして、ココが心から慕う女性が、フリンクスの憎む【黒の魔女】であるという事実。
「謝ることはありません。ですが、若の気持ちも分かっていただければ……」
「分かっています……。そのつもりです」
「若には、このことを内密にお願いいたします。今は大事な時期ですので」
「俺たちも、魔女様のご家族のことが分かりましたら、早めにこの地を離れようと思っています」
ココは、できるだけ早く立ち去りたかった。
マティルダに苦痛を与える、この場所から。
「……」
マティルダは、黙ったままだった。
「そうでした。日記でしたな……」
ヨームは棚から木箱を取り出し、机の上に置いた。
「500年前の物ですので、読めない箇所もあるかもしれませんが……」
蓋を開け、中から一冊の日記を取り出す。
「扱いには十分ご注意ください。私は書類仕事をしておりますので、ごゆっくりどうぞ」
日記の表紙には、牛革にローゼンベルク家の家紋が型押しされていた。
その下には、ハンスの名が薄く刻まれている。
「開きますよ……」
ココは慎重に表紙を開いた。
「間違いない……。ハンス兄様の字だわ……」
マティルダが、かすかに呟いた。
いつもの速読とは違い、彼女は一字一字を確かめるように、ゆっくりと日記を読んでいく。
内容は、先ほどヨームから聞いた話とほぼ同じだった。
だが、所々にマティルダについて書かれた記述があった。
〈王都に手紙を送ったが、マティルダからの返事がない。マティルダは大丈夫だろうか〉
〈病状の母上が、マティルダの身を案じている。無事であってほしい〉
〈エレオノーラ姉さんが、元旦那の愚痴を言っていた。マティルダのおかげで離縁できて良かった、と言っている。エレオノーラ姉さんらしい〉
〈妹のクラリッサが、父上とマルコ兄さんの絵を描いた。次はマティルダの絵を描くらしい。決して上手くはないが、辛い時期だ。好きにさせておこう〉
家族は、マティルダのことを気にかけていた。
手紙の返事がないことを心配する兄。病気を患いながらも、娘の身を案じる母。そして、マティルダのことを思いながら日々を過ごす姉妹。
そこには、彼女が知らなかった家族の姿があった。
その事実を知り、マティルダはただ泣いていた。
ココは何も言わず、静かにページをめくり続ける。
日記は、母親が亡くなった頃から次第に記述が少なくなっていた。
そして最後には、白紙のページが大半を占めていた。
ココは、そっと日記を閉じた。
マティルダは俯いたまま、泣いている。
ココとヨームの目が合った。
ヨームは、優しい表情で微笑んでいた。
ココは、黙って頷いた。
それから、半刻ほど経っただろうか。
「……ありがとう。もう、落ち着きました」
マティルダは、いつもの表情に戻っていた。
ココは日記を木箱へ戻し、ヨームに返した。
「この日記は、マティルダ様がお持ちになりますか?」
「大丈夫です。ここで大切に保管してください」
マティルダは、迷いのない声で答えた。
「では、そのように」
ヨームは日記を木箱に戻し、元の場所へ収めた。
「ヨームさん。兄の日記を大切に保管してくださって、ありがとうございます」
マティルダは、深々と頭を下げた。
ココは驚いた。
マティルダが人に頭を下げるとは思っていなかったからだ。
「何よ!」
「……いえ。魔女様も、人に頭を下げることがあるんだなと思いまして」
「貴方、それじゃあ私が常識を知らない人間みたいじゃない!」
「す、すいません……」
(……常識、か。まあ、いつもの魔女様に戻ってよかった)
ココは、心の中でそう思った。
「はっはっはっ。仲がよろしいですな」
ヨームが楽しそうに笑う。
「別に、仲なんて……普通よ!」
マティルダは腕を組み、そっぽを向いた。
「日記を保管していたのは、私だけではありません。私の父や祖父、その他の者たちが、代々管理してきたのです」
ヨームは、木箱を見つめながら続けた。
「大切に保管しておいて、本当によかったと思います。皆も、マティルダ様のお言葉を喜んでいることでしょう」
その言葉には、約500年という歳月の重みがあった。
ヨームは笑顔を消し、真剣な表情でマティルダを見つめた。
「マティルダ様。若――フリンクス様の現状を説明してもよろしいでしょうか?」
「はい」
「現在、我々は《黄金の麦》という名の反乱組織として活動しております」
ヨームは、静かに語り始めた。
「ですが、集まっているのは、現政権のやり方に不満を持つ下級貴族たちです」
そして、ココとマティルダを見つめた。
「その《黄金の麦》の代表が、フリンクス様なのです」
ココとマティルダは、驚きに目を見開いた。
あの若者が――反乱組織の代表だった。
ありがとうございました。




