第二話 東門前の水たまり
一件目の陳情を処理してから、三日が経った。
エリオットは机の横に置かれた木箱を見た。
『未処理』
三日前から、そこにある。
昨日もあった。
一昨日もあった。
当然だった。誰も動かしていない。
「そろそろ次、見ます?」
向かいの机からノアが言った。
「……そうだな」
いつまでも置いておくわけにはいかない。
それでは四十八年前と同じことになる。
エリオットは木箱を引き寄せ、蓋を開けた。
一番上の書類を取る。
「何年前です?」
「八十一年前」
「古くなりましたね」
「年代順には入っていないらしいな」
箱が作られたのは四十八年前だ。そのとき処理状況を確認できなかった書類がまとめて入れられているのだから、年代が前後していても不思議ではない。
「内容は?」
エリオットは表題を読んだ。
『王城東門前の水たまりについて』
「……水たまり」
「水たまりですね」
陳情書を開く。
雨が降るたびに王城東門の前へ大きな水たまりができ、通行の妨げになっている。馬車が通れば泥水が跳ね、徒歩で通る者は大きく迂回しなければならないため、排水を改善してほしい。
何度読んでも、水たまりについての陳情だった。
「今回は簡単そうですね」
「その言葉、覚えておくぞ」
「やめてください」
まずは処理記録の確認から始めた。
受付記録はある。
その後の記録はない。
別の台帳にもない。
決裁記録もない。
念のため、もう一度探した。
「…………」
「…………」
ノアが台帳を閉じた。
「未処理ですね」
「まだ決めるな」
「でも」
「現地を確認する」
エリオットは陳情書を持って立ち上がった。
◇
現在の王城東門前に、水たまりはなかった。
「ありませんね」
「ないな」
前日まで雨が続いていた。
石畳はまだ濡れているが、水が溜まっている場所はない。排水溝にも問題はなく、水はきちんと流れていた。
エリオットは陳情書と東門を見比べた。
「解決してるんじゃないですか?」
「その可能性はある」
「処理記録だけ残ってないとか」
「あり得るな」
「今回は早そうですね」
「まだ言うな」
東門を管理する衛兵にも聞いてみたが、雨の日に大きな水たまりができるという話は知らなかった。
「昔はあったんですかね」
「八十一年前だ。門そのものを改修している可能性もある」
そこで二人は、東門の修繕記録を調べることにした。
戻って一時間ほどで分かった。
「エリオットさん」
「何だ」
「八十一年前、東門ここじゃないです」
ノアが広げた古い王城図を指した。
現在の東門より少し南。
そこに旧東門が描かれている。
「いつ移った?」
「七十二年前です。城壁の一部を改修したときに現在の位置へ移設されています」
エリオットは陳情書の日付を確認した。
「陳情が出た九年後か」
「じゃあ、水たまりがなくなったのもそのときじゃないですか?」
「旧東門がどうなったか確認しよう」
「行くんですね」
「行く」
王城図を持って、二人は再び外へ出た。
◇
旧東門があった場所に門は残っていなかった。
城壁も造り直されている。
その代わり、王城内の建物と倉庫を結ぶ細い通路が通っていた。
「この辺りですね」
「ああ」
ノアが古い王城図と現在地を見比べる。
「でも、水たまりは――」
そこまで言ったところで、荷物を抱えた使用人が通路の途中で大きく横へ逸れた。
二人でそちらを見る。
通路の中央に水が溜まっていた。
かなり大きい。
「…………」
「…………」
「ありますね」
「あるな」
昨日までの雨が残っているらしい。
通れないほどではないが、真ん中を歩けば靴が完全に水へ沈む。先ほどの使用人も慣れた様子で端を回っていった。
エリオットたちは水たまりへ近づいた。
「八十一年前のものと同じでしょうか」
「場所はほぼ同じだな」
「まだ残ってるんですかね」
「聞いてみよう」
ちょうど別の使用人がやってきた。
「すみません。この水たまりについて聞きたいんですが」
「はい?」
「雨が降ると、いつもこうなりますか?」
「なりますよ」
「いつからです?」
使用人が困った顔をした。
「いつからと言われましても……私がここで働き始めたときには、もう」
「通行の邪魔では?」
「邪魔ですけど、端を通れますから」
「改善してほしいと思ったことは?」
「考えたこともありませんでした」
「なぜです?」
「昔からこうなので」
エリオットはノアを見た。
ノアもこちらを見た。
「また慣れてますね」
「そうだな」
一件目と同じだった。
問題が解決したから誰も言わなくなったのではない。
そこにあるのが普通になったから、誰も言わなくなったらしい。
◇
旧東門周辺の記録を調べ始めると、今度は比較的早く当時の資料が見つかった。
八十一年前、陳情を受けた担当部署は現地を確認している。
水たまりの原因も調査済みだった。
「地面が低いんですね」
ノアが当時の報告書を読む。
「ああ。この辺りだけ周囲より低くなっていて、雨水が集まるらしい」
「排水溝を造る計画もありますよ」
「なら、なぜ造らなかった?」
次の書類をめくる。
理由はすぐに出てきた。
『掘削予定箇所より旧水路を確認。工事を一時中断し、構造調査を行う』
「旧水路?」
「もっと古い時代に使われていた排水路みたいですね」
予定していた場所を掘ったところ、記録にない石造りの水路が出てきた。
そのまま壊していいものか判断できず、調査が行われることになったらしい。
「それで止まったのか」
「でも調査は終わってます」
半年後の記録があった。
旧水路はすでに使われておらず、一部を撤去しても問題ない。
そこまで判明している。
「じゃあ工事できたんじゃないですか?」
「できたはずだな」
さらに記録を追った。
その翌年、王城の城壁改修計画が決定している。
東門を南側から現在の位置へ移すことも、その計画に含まれていた。
「……門がなくなるから?」
「水たまりの対策を急ぐ必要がなくなったんだろうな」
実際、排水工事の計画書には追記があった。
『東門移設予定につき、周辺整備計画確定後に再検討』
「また再検討です」
「嫌な言葉に見えてきたな」
城壁改修は予定どおり行われた。
東門も移設された。
旧東門周辺は門として使われなくなった。
そして、周辺整備計画を見る。
「通路として残す」
「書いてありますね」
「排水は?」
二人で探した。
ない。
「……忘れられてます?」
「らしいな」
門を移したことで、「東門前の水たまり」ではなくなった。
だが、門がなくなったあともその場所は通路として使われている。排水工事が行われなかった以上、雨が降れば水が溜まるのも変わらない。
そうして八十年以上、水たまりだけが残った。
「今回も本当に未処理ですね」
「そうだな」
「二件連続です」
「まだ二件だ」
「箱いっぱいありますけど」
「言うな」
◇
現在の施設管理を担当する部署へ報告すると、排水工事そのものはすぐに決まった。
八十一年前と違い、地下に旧水路があることは最初から分かっている。
残されていた当時の調査記録も役に立った。
旧水路を避ける形で排水溝を設け、雨水を近くの排水路へ流す。
工事は三日で終わった。
「三日……」
完成した通路を見ながら、ノアが呟いた。
「何だ」
「八十一年間あった水たまりが、三日でなくなりました」
「調査はもっとかかっただろう」
「昔の人がほとんど調べてくれてましたからね」
「そうだな」
工事が終わった翌日、都合よく雨が降った。
二人は雨が上がるのを待って、旧東門跡へ向かった。
通路に水たまりはない。
雨水は新しく造られた排水溝へ流れている。
以前話を聞いた使用人が通りかかった。
「あれ、水がない」
「工事しました」
「ここ、直せたんですね」
エリオットは少しだけ黙った。
「直せました」
「そうだったんですか」
使用人は新しい排水溝を眺め、それから水たまりのなくなった通路の真ん中を歩いていった。
「知らなかったんですね」
「昔からあったからな」
「慣れってすごいですね」
「前にも聞いたぞ、それ」
「また同じことになってましたから」
◇
王城へ戻ったエリオットは、八十一年前の陳情書を机に置いた。
『王城東門前の水たまりについて』
門は七十二年前になくなっている。
水たまりは昨日なくなった。
処理内容を記録し、最後に印を押す。
『処理済』
「二件目、終わりましたね」
「ああ」
「今回は二週間くらいですか」
「一件目より早かったな」
「この調子なら――」
「言うな」
「まだ何も言ってませんよ」
「言おうとしただろう」
ノアは否定しなかった。
処理を終えた書類を保管場所へ移す。
エリオットは机の横の木箱を見た。
一件目を取り出したときと比べれば、二枚減っている。
もちろん、見た目では分からない。
「二件とも本当に未処理でしたね」
「言うな」
「次もでしょうか」
「言うな」
ノアが木箱へ手を伸ばした。
「じゃあ、三件目――」
「今日はやめよう」
「またですか?」
「二件目が終わった日くらい休ませろ」
未処理箱は何も言わず、机の横に置かれていた。




