第一話 西塔の鐘
王城の書庫で古い棚を撤去していたところ、その後ろから木箱が出てきた。
長く置かれていたらしく、箱も床も埃だらけだった。
「何でしょう、これ」
作業に立ち会っていた文官のノアが覗き込む。
「さあな」
エリオットは箱の上に積もった埃を払い、蓋に残っていた文字を読んだ。
『未処理』
あまり見たくない文字だった。
「未処理ですって」
「見れば分かる」
「開けます?」
「開けないわけにもいかないだろう」
蓋を持ち上げる。
中には書類がぎっしり詰まっていた。
エリオットは蓋を閉じた。
「閉めましたね」
「埃が入る」
「もう十分入ってますよ」
仕方なく、もう一度開けた。
一番上にあった書類を取り出す。
紙は黄ばんでいる。箱だけでなく、中身も相当に古そうだった。
「未処理の書類が全部入ってるんでしょうか」
「それなら、この量になるまで誰も処理しなかったことになるぞ」
「……違いそうですね」
「違っていてほしい」
まずは箱そのものが何なのか調べることになった。
◇
書庫の記録を遡ると、それらしい記載は思ったより早く見つかった。
四十八年前、王城内に保管されていた古い書類を大規模に整理した記録が残っている。
保存場所の変更、廃棄対象の選別、記録との照合。
その中に、問題の箱についてと思われる記述があった。
『処理状況の確認を要する書類については、照合作業終了まで未処理箱へ保管すること』
「なるほど」
エリオットは記録を机へ置いた。
「陳情そのものが未処理という意味ではないんですね」
「ああ。処理されたかどうかの確認が終わっていない書類をまとめた箱らしい」
それなら話は簡単だった。
四十八年前の整理作業で、古すぎてすぐには処理状況を確認できなかった書類を一時的にまとめた。その箱が何かの理由で棚の後ろへ入り、そのまま忘れられたのだろう。
箱の中身まで本当に未処理だったわけではない。
「よかったですね」
「何が?」
「ほとんど処理済みでしょう」
「そうだといいな」
エリオットは先ほど取り出した書類を開いた。
『王城西塔の鐘について』
受付印の日付は、六十三年前。
王城の西塔から毎朝鳴らされる鐘の音が大きく、近隣で暮らす者の睡眠を妨げている。鳴らす時刻を遅らせるか、音を抑えてもらえないだろうか。
内容はそれだけだった。
「六十三年前ですか」
「箱が作られた時点ですでに十五年前の書類だな」
「だから確認対象になったんでしょうね」
「おそらくな」
受付番号を頼りに記録を調べる。
受付記録は残っていた。
『西塔鐘楼に関する陳情 一件』
受理されている。
その後の記録を探した。
ない。
別の台帳も調べた。
ない。
決裁記録も確認した。
ない。
エリオットはもう一度最初の台帳へ戻った。
「ノア」
「はい」
「何か見落としてないか」
「同じことを考えて、今もう一度見ています」
「そうか」
しばらく二人で探した。
やはり、なかった。
「……本当に未処理ですね」
「そうらしいな」
最初の一枚からこれだった。
◇
「六十三年前?」
上司のバーナードは、陳情書と一緒に提出された報告を読んだ。
「はい」
「箱は四十八年前の書庫整理で作られたものなんだな?」
「そのようです」
「なぜ棚の後ろにあった」
「それはまだ分かりません」
「中身は何件ある」
「数えていません」
バーナードが顔を上げた。
「なぜだ」
「まず一件確認しようと思いまして」
「それで?」
「本当に未処理でした」
バーナードは陳情書へ視線を戻した。
「……陳情した者は?」
「当時五十一歳です」
「そうか」
「住所は残っています」
「今さら返答する相手もいないだろう」
「はい」
「なら、どうする」
「それを確認に参りました」
バーナードは椅子にもたれた。
「過去の陳情が一定期間で失効する規定は?」
「ありません」
「処理されていない書類を、古いという理由だけで破棄する規定は?」
「ありません」
「つまり?」
「未処理です」
しばらく沈黙が続いた。
「……処理するしかないな」
「承知しました」
エリオットは陳情書を持って立ち上がった。
「エリオット」
「はい」
「箱の中身はまだ数えるな」
「もちろんです」
同じ考えだった。
◇
西塔へ向かい、鐘楼を管理する職員に事情を説明した。
「六十三年前の陳情?」
「はい」
「この鐘について?」
「そうです」
職員は頭上を見た。
大きな鐘は今もそこにある。
「当時と同じ鐘ですか?」
「鐘そのものは同じですよ。何度か修繕されていますが」
「鳴らす時刻は?」
「日の出です」
「昔から?」
「少なくとも、私が知っている限りは」
古い記録を確認してもらうと、六十三年前も同じだった。
「では、状況は変わっていない可能性があるな」
「音の大きさも確認しますか?」
ノアが尋ねた。
「ああ」
鐘楼の職員が壁に掛けられた時刻表へ目を向けた。
「でしたら、明朝いらしてください。日の出に鳴らしますので」
「分かりました」
その日は鐘楼をあとにし、翌朝、エリオットとノアは日の出前から西塔へ向かった。
「眠いですね」
「仕事だ」
「六十三年前の陳情で早出することになるとは思いませんでした」
「俺もだ」
西塔へ着いて間もなく、鐘を鳴らす時刻になった。
ゴォォォォン――!
間近で聞く鐘の音に、エリオットとノアは揃って耳を塞いだ。
ゴォォォォン――!
やがて鐘が止まり、エリオットは耳から手を離した。
「大きいな」
「鐘ですから」
「近隣まで響きますね」
「聞こえないと困りますから」
「それもそうか」
鐘としては何も間違っていない。
だからといって、六十三年前の陳情が間違っていたとも限らなかった。
「住所も確認しますか?」
「ああ」
「今なら、実際にどのくらい聞こえるか分かりますね」
「行こう」
二人はそのまま西塔を出て、陳情書に記された住所へ向かった。
◇
陳情書に記された場所には、今も住宅があった。
建物は何度か建て替えられていたが、住居として使われ続けている。
現在の住人に事情を説明すると、返事は早かった。
「ああ、鐘。うるさいですよ」
「やはり?」
「毎朝ですからね。もう慣れてますけど」
「睡眠の妨げになることはありますか?」
「夏はありますよ。日の出が早いでしょう。鐘で目が覚めることもあります」
エリオットは手元の陳情書を見た。
『毎朝早くから鳴るため、睡眠を妨げられている』
六十三年前と、ほとんど同じだった。
「問題、残ってましたね」
王城へ戻る途中、ノアが言った。
「残ってたな」
「六十三年間」
「ああ」
「誰も陳情しなかったんでしょうか」
「慣れたんじゃないか」
「慣れってすごいですね」
六十三年かけて解決したわけではない。
六十三年間、慣れていただけだった。
◇
鐘を遅らせれば済む。
そう思って調べ始めると、そう簡単でもなかった。
西塔の鐘は、王城の門を開く時刻、衛兵の交代、市場の開始、王城内の勤務開始など、いくつもの仕事の目安になっている。
鐘だけを遅らせれば、別のところに影響が出る。
「六十三年前の担当者も、ここで止まったんでしょうか」
「調べてみるか」
今度は受付記録だけでなく、当時の会議記録や担当部署の日誌まで範囲を広げた。
三日後。
「エリオットさん、ありました」
ノアが古い書類を持ってきた。
六十三年前、西塔の鐘について現地調査が行われていた。
近隣住民への聞き取りもしている。
鐘楼の担当者とも協議していた。
「ちゃんと調べてるな」
「ですね」
さらに記録を追う。
当時、王城では勤務開始時刻そのものを変更する案が出ていた。
鐘を鳴らす時刻についても、それに合わせて見直す予定だったらしい。
陳情の担当文官は、最後にこう記していた。
『勤務時刻改定後、再確認』
「それで保留になったのか」
「みたいですね」
ところが勤務時刻の改定案は、その二か月後に見送られていた。
「じゃあ、そのあと再確認して――」
ノアが別の記録を開いた。
止まった。
「どうした」
「担当者、異動してます」
「いつ?」
「改定案が見送られる十二日前です」
引き継ぎ記録も探した。
西塔の鐘については書かれていなかった。
「……漏れたか」
「漏れましたね」
当時の担当者は何もしていなかったわけではない。
陳情を受け、現地へ行き、住民から話を聞き、関係部署と協議した。
ちょうど別の計画で解決できそうだったから、結果を待つことにした。
そして、その途中で異動した。
後任には伝わらなかった。
十五年後の書庫整理で、処理済みの記録が見つからない書類として未処理箱へ入れられた。
そこで今度は箱ごと行方不明になった。
「二回止まってるんですね」
「そうなるな」
「運が悪い書類ですね」
否定はできなかった。
◇
関係部署との協議の結果、鐘を止めたり時刻を変更したりするのではなく、鐘楼の窓の一部を改修することになった。
住宅地側へ直接音が抜けにくくし、王城側へ響くよう調整する。
工事には三週間ほどかかった。
完成した翌朝、エリオットとノアは以前訪ねた家の前にいた。
日の出とともに鐘が鳴る。
聞こえることは聞こえる。
だが、以前とは明らかに違った。
家の主人も窓を開けた。
「これなら随分ましですね」
「睡眠の妨げにはなりませんか?」
「このくらいなら大丈夫でしょう」
「ありがとうございます」
王城へ戻り、報告書をまとめた。
エリオットは六十三年前の陳情書を机に置いた。
受付印はある。
その隣には、何もない。
そこへ印を押す。
『処理済』
「終わりましたね」
「ああ」
「六十三年越しです」
「俺たちが六十三年かけたみたいに言うな」
「実際は一か月くらいですね」
「それでも長いな」
陳情書を処理済みの保管場所へ移した。
これで一件。
机の横には、例の木箱がある。
『未処理』
エリオットは中を見た。
まだ書類がぎっしり入っている。
ノアも横から覗き込んだ。
「次、見ます?」
エリオットは少し考えた。
「今日はやめよう」
「そうですね」
一件目だけで一か月かかった。
箱の中身を数えるのは、もう少し先でいい。




