9章 要石
書庫ではカシアンが不服そうな顔で待っていた。石の壁に寄りかかったまま腕を組み、ルカの背後へと胡乱な目を向ける。
「その女、いや、王女はさ……大丈夫なわけ?」
「カシアン」
「構いません」
咎めたルカに対してミラが後ろから穏やかに言う。彼女はカシアンの元へ真っ直ぐに歩み寄ると、静かな笑みを浮かべた。
「カシアン、と言いましたね。あなたのお話は様々な場所で耳にしています。お互いに『怪しい余所者』同士、仲良くやっていきましょう」
ミラの余裕ある挨拶に少し驚いた様子のカシアンだったが、堂々とした態度から逃げるようにそっぽを向いた。そして、部屋の端で待機するニコが肩を震わせていたのに目ざとく気づいて「おい」と声を上げる。ニコが耐えきれなくなったように笑い出した。
「市場でも変わった兄ちゃんって言われてましたけど、城内でも、なんか怪しいけど役に立つ、で顔が売れてきてますもんね〜」
「ニコがこき使うからだろうが」
「それに関してはほんとに助かってます〜。あ、そうだ、仕事仕事! 隣の部屋に持ってきてるんです、さっさと片付けちゃいましょう!」
「言ってるそばから……!」
文句を言いつつも、カシアンはニコの後について出ていった。隣室はしばらく静かだったが、それからすぐに、算術が遅いだの文句を言うなだのと言い合う声が小さく聞こえてきた。そっと壁に耳を寄せたミラが楽しそうに笑う。
「愉快なお二人ですね」
「一緒にいて楽しいですよ」
ルカも思わずといった様子で微笑む。そして、目の前に広がる大量の本の山にふと気づいて慌て出した。
「あ、でも、ミラ殿下をこんな雑多なところにお通しするのは確かに良くはないですね、あれ、そういう意味だったのかな?」
「怪しい余所者、の意味で合っているはずですわ」
ミラが心底おかしそうに返事をする。
「あ、ほら、殿下が普段いらっしゃる場所がすぐ分かりますね。あの本の山が丸く円を描いています」
「お恥ずかしい……」
「日頃からこんなにもたくさんの本に触れているのですね」
ミラが感心したように言った。ルカが足元の本を何となく端に寄せながら答えた。
「国の歴史一つとっても、書かれた年代や著者によって見方が全然違うんです。だから、一冊を読むとまた別の一冊を読みたくなってしまう」
「そうなのですか?」
ミラの意外そうな声にルカは頷いた。
「ヴァレンの歴史について僕はほとんどの知識を外国の本から得ているのですが、本当に面白いですよ。その時代その時代で、外側から見たヴァレンの印象がガラリと変わるんです」
ここまで話したルカが、はっと気づいて俯いた。少しだけ顔が熱くなっているのを感じる。
「すみません、長く話しすぎましたね。今日はこんな話をするためにお呼び立てしたわけではないのに」
「いいのです」
ミラがやわらかに否定する。
「外国の本で……ということは、ヴァレンの文献はやはり戦争で燃えてしまったのですね」
「ほとんどが焼失しています」ルカが言った。「この書庫は昔は雑多な物置として使われていたようで、ここに置かれていたいくつかの冊子は残りましたが」
「石造りだから焼け落ちなかった。あの物見台のように」
ミラの言葉にルカが頷いた。
「今日はこの壁を見ていただきたかったのです。ミラ殿下が気にされていた物見台の壁とよく似ていたので」
ミラは辺りをゆっくり見回した。
半地下の書庫は、石の壁も石の床も常にひんやりとしている。書庫中央から高天井を見上げると、八角形の壁面を埋める本棚が明かり取りまで届いている。
「ここへ来るまでにも石壁の名残が少しだけありましたね」
ミラの言葉にルカが答えた。
「北棟はこの城の中でも特に古いんです。客人をお迎えするには傷み過ぎているので、今は政務室や資料室など実務的な部屋がほとんどです」
ルカの説明にミラが納得したように首を縦に振る。そしてこう言った。
「物見台の壁も、この書庫の壁も、全てアルド式の積み方をしています。廊下のものは恐らく、仮積のまま終わっていたところを煉瓦と漆喰で補強しています」
ルカが「アルド式……」と呟いた。ミラが壁に手を添えながら続ける。
「アルドという国は石と共に生きています。石がなければ冬の寒さに耐えられず、あの山は人の住まぬ場所となっていたでしょう」
ミラがルカを見た。
「こちらもご覧になっていただけますか?」
ミラは言うなり踵を返し、書庫のアーチ壁をくぐり抜けた。ルカも後に続く。待ち構えるミラが指し示したのはアーチの頂上だった。
「アルドの要石です」
ルカは思わず、あ、と声を上げていた。
小さな三角が横並びに三つ。その下に一本の縦線。
物見台で見たものと同じだ。
「これは山と川を表しています」
ミラが説明する。
「石は忘れず、山は守り、川は受け継ぐ。アルドの人間はそう信じています」
ミラが静かな眼差しで要石を見上げる。
「この彫りには、どうか長く続いてほしい、そんな祈りが込められているのです」
「どうか長く、続いてほしい……」
繰り返したルカが意外そうな顔でミラを見つめた。
「アルドがヴァレンにそのような祈りを?」
「理由は全く分かりませんが……」
小さくなっていくミラの言葉にルカが考え込む。
「たとえば、かつては同じ国だった。あるいは……」
二人は黙り込んだ。ニコとカシアンの騒がしいやり取りが石壁越しに伝わってくる。
「物見台から見えた建物……」
ミラが呟いた。
ルカも同じことを考えていた。
***
突然呼び出してきたガレスは、剣呑な空気を隠そうともしなかった。ルカが挨拶するより先に怒気をはらんだ声が飛んでくる。
「お前は何を考えている」
「……一体なんのお話でしょうか?」
そう答えながらも、正直、心当たりはあり過ぎるほどあった。今まで言及されなかったのがおかしなくらいだ。
ミラとカシアンのことだろう。案の定、続いた言葉はルカにとって耳の痛いものだった。
「どこの馬の骨とも分からぬ男に、コソコソと嗅ぎ回る隣国の王女殿……ここ最近、お前が熱心にそばに置いている人間共だ」
何も言い返せないルカは、黙ったままガレスの次の言葉を待った。ルカが何の反応も示さないことに苛立ったのか、ガレスの声が一段と大きくなった。
「お前には警戒心というものがないのか? 一国の王子として、それがどんなに危険で浅はかなことか分からぬ年ではないだろう」
呆れ果てたような声色に刺されたルカが、逃げるように俯いた。
「……お前の従者は何も言わんのか」
ニコのことだ。ルカは無言のままだ。
「ふん、見込んだより役に立たんな」
「……っ」
ルカは何かを言い返そうと顔を上げたが、自分を射抜くような視線に気づいた瞬間、うまく言葉が出ずに口を噤んだ。
しばらく嫌な沈黙が垂れ込めていた。ガレスがルカの言葉を――言い分を待っているのだと悟ったルカが、恐怖を押し隠しながらガレスを見つめ、決死の思いで口を開いた。
「……二人は、僕やヴァレンのためにそれぞれよくやってくれています……もう少し様子を見ても……」
小馬鹿にしたような笑い。この瞬間、ルカの心は完全に折れた。とっさに俯いて、ガレスを視界に入れないことで何とか自分を守ろうとする。
「人が人を欺く時には善人の顔をする。お前のような奴が引っかかるからだ」
ガレスの声はそんなルカを責め続ける。
「ルカ、お前の判断は何もかもが遅く、甘い。慣例に従うならばそろそろ譲位の時期になるが、お前に一国の王は当分任せられん。お前の弱さがヴァレンの弱さになれば、この国はまたたく間に傾いていく」
重々しい声色で言いきったガレスが深いため息をついた。
「もうすぐあの時のエリオと同い年になるというのに――」
ここでガレスの声が止まった。ルカは自身のつま先を見つめたまま、顔を上げることができない。目の前が真っ暗になっていくような気がしていた。
「……行け。もう用はない」
ルカはガレスの政務室を後にした。
自分が退室の挨拶をしたかどうかすら覚えていない。足元がふらついて、息が上手にできなかった。幼い頃、怖さに泣いた翌日には必ず怒られていたことを、靄がかかったような頭の片隅でぼんやりと思い出していた。




