8章 中庭
中庭の人払いは済ませていた。
ルカとニコは中央の広場でミラを待っている。本格的な夏の空気が全身を包む中、そばに佇む煉瓦造りの小さな噴水の音がささやかな涼をもたらしている。
ミラは遠目からもすぐに分かった。「来た」背後のニコが呟いた。
ミラは侍女一人を連れてこちらへゆっくりと歩いてくる。ゆるやかに微笑んだミラは、ルカから少し離れた場所で歩みを止めると、手本のような優雅な一礼を見せた。
「殿下直々に中庭の案内をしてくださるなんて嬉しいですわ。ヴァレンへ来た時以来ですね」
朗らかな声で話したミラが遠くへと視線をやる。
「今日は菜園に人がいないんですか?」
「……よくお気づきですね」
「小路を散歩している時、農夫の方とたまにお話するのです。夏野菜が実ったら見せてくださると約束しているんですよ」
楽しげに語ったミラがそっと口を噤んだ。そして、小さな声で呟く。
「私はこの間から食べ物の話ばかりしている気がします」
ルカは微笑んだまま何も答えない。ニコへ軽く目線を送ると、ニコは静かに広場から抜け、回廊の影へと下がった。それを見ていたミラが何かを悟ったように侍女を下がらせる。
広場は二人だけの空間になった。水が煉瓦を打つ小さな音が彼らの間をゆるく隔てている。
「河港監督、穀倉管理人、地方代官……」
ルカが淡々と名前を挙げる。ミラの瞳がわずかに揺れた。
「そして城下町の商館長。あなたがヴァレンへ来てから密かに会っていた方々です」
ルカは三日かけて全ての接触を押さえていた。
「何のお話でしょうか?」
ミラはゆったりと微笑んだままだ。
「お分かりになりませんか?」
ルカの問いかけにもミラは涼しい顔で黙り込んだままだ。ルカは言った。
「あなたの部下についてもここでお話しますか?」
脅すような言い方は好きではない。だが、ミラを揺さぶる必要はあった。
ミラが軽く視線だけ動かして辺りを見回した。中庭の静けさの意味を理解したミラの表情がすっと変わった。可愛い婚約者ではなく、アルドの王女として覚悟の決まった顔。
「その必要はありませんわ、ルカ殿下」
「ヴァレンの弱点を探しているとか」
ミラは答えない。
「アルドはヴァレンとの争いを一つの選択肢に入れている。そうですよね」
「隣国との関係は常に変化していくもの。警戒心を持つことは国を治める上で当たり前のことです」
「お認めになるのですか?」
「一般的なお話をしているだけですわ」
ミラはそう言ってまた静かになった。ルカが口を開いた。
「奪うことに意味はありません」
ルカが強く言いきったことにミラはわずかに驚いたようだった。
「……何故そう言いきれるのですか」
「歴史が証明しているからです」
ルカの言葉にミラは黙ったままだ。ルカは話を続ける。
「二百年前にヴァレンを壊滅状態に追い込んだのは、とある大国でした。その後、大国はどうなったと思いますか?」
「……大国?」
ミラが怪訝そうに眉をひそめた。ルカが軽く笑う。
「違和感のある言葉ですよね。今、この地方に大国と呼べるような国は存在しませんから。でも、二百年前には確かに存在していたんですよ、たった三十年だけ」
ルカの目は自然と噴水へと向いていた。灰王が作ったものだ。ヴァレンが続く限りこの水は絶やさないこと。王家に伝わる約束の一つだ。
「その国は周辺諸国を蹂躙し飲み込むことでどんどん成長していきました。この国が世界を一つにまとめるだろう、そう評している文献が残されているくらい勢いがあったんです。けれど、些細なきっかけで内部から崩れていき、分裂や統合を繰り返して今はその名残すらありません」
「大国の驕りが迎えた末路です」
ミラの冷たい声が即座に反論する。
「歴史が証明したのは驕りが身を滅ぼすことだけです。アルドは違う。そのような浅薄な理由で奪いはしない。全ては生き残るための選択です」
「生き残る方法なら他にもあります」
「それは豊かな国の慢心ですわ。綺麗事だけで生きてはいけない」
ミラの声がひときわ大きくなった。
「冬が来る前にオリーブを全て潰してしまう、そんな国に生まれ育ったあなたは知らないのです、窮地に陥った国がどんなものかを。その焦りも、苦しみも、あなたは決して見たことがない」
何かに耐えるように絞り出されたミラの声には、静かな怒りが満ちていた。
「……話を終わらせましょう」
冷ややかな調子でミラが言った。
「あなたのおっしゃったことは全て真実です。処分を受け入れる覚悟はできております。ただし、私を支えてくれた者たちはどうか不問に」
「ご自身を争いの火種にするおつもりですか?」
ルカの言葉にミラが押し黙る。
夏風が吹き抜けて木々を揺らし、噴水の小さな水柱がわずかに乱れた。しばらくはかすかな水音だけが二人の間にあった。
ルカが突如「疲れませんか?」とミラへ言った。ミラが小さく眉をひそめた。ルカの出方を窺うような目。少しも揺るがない姿勢。
「立ちっぱなしで僕は疲れちゃいました」
ルカは穏やかに笑いながら噴水の縁へ腰かけた。ミラにも座るように手で促すが、ミラは動かない。ルカはそのまま少しだけ悩み、そして、迷いながら口を開いた。
「――ヴァレンの王族教育は、様々な国の戦争史を読み込むことから始まります」
ミラの表情に戸惑いの色が浮かんだ。ミラもルカと同じく、未来の統治者として政を学んでいる身だ。だからこそヴァレンの特異さがよく分かるのだろう。
「次に、飢餓や餓死の実態を知り、都や農村が崩壊していく過程を追い、蔓延する病や悪行、極限状態で壊れてしまう人の心について学ぶ」
近くの木から鳥の飛び立った音がして、ルカの声が一瞬だけ止まる。ミラの真剣な眼差しはルカを見据えたままだ。
「ヴァレンの王族教育の根幹は『滅び』です」
静かに言いきったルカが複雑な表情になる。
「幼い頃は耐えられなかった。眠れなくなるほど恐ろしくて、夜中に泣いたこともたくさんあります」
ルカは俯きながら小さく笑った。
「僕はもう子供ではないはずなのに、学び続けるほどにどんどん怖くなって、もうずっと恐ろしいままなんです」
わずかに震えたルカの手にぎゅっと力が入る。
「長い歴史の中、争いを始めた国で滅びなかった国はない。みな終わりを迎えてしまう。そしてそれは、決して穏やかなものではない」
ルカは再び顔を上げた。ミラのことを真っ直ぐに見た。
「奪うことに意味はありません。もしかしたら一時は豊かになれるかもしれない、でも、いつか同じだけの苦しみが返ってくる気がするのです。僕はそんな恐ろしい道を選びたくない」
ルカはミラに柔らかく笑いかけた。
「――できれば、あなたにも選んでほしくない」
祈るように締めくくったルカの言葉に、厳しい顔つきだったミラの瞳が大きく揺れた。
「ミラ殿下、あなたにはアルドへお帰りになってもらいます。もちろんあなただけでなく、あなたを支える方々も全員一緒です」
「何故……」
ミラの小さな声にルカがすぐに答える。
「あなたたちの祖国から、あなたたちのことも奪いたくないんです」
「……随分と甘いのですね」
ミラの低い声にルカが苦笑した。
「同じことを父上にも散々言われています」
ミラは迷うように視線をさ迷わせ、やがてゆっくりとルカのそばへと歩み寄った。そして、ルカから少し離れた場所へと静かに腰を下ろす。
しばらくは二人、無言で夏の庭を眺めていた。力強い日差しが降り注ぎ、辺りはまるで光っているように明るい。
「ルカ殿下、あなたのことは話に聞いていました」
やがて、ミラがルカを見ずに話し出す。
「部屋に籠もって本ばかり読んでいる変わり者の王子だと」
ルカが困ったように笑う。
「当たっていますね」
「いいえ」
力強いミラの声にルカが思わずミラを見た。ミラはいつの間にかルカを見つめていた。少しも逸れない視線に、ルカの心の奥がわずかに跳ねる。
「あなたはただ文字を追っていたわけではなく、先人の言葉を聞き、その思考を辿り、その体験を反芻し……そうやって歴史に学んでいたのですね」
ルカはミラの言葉にぽかんとした。そんな風に言われたことなど、これまで一度もなかった。
「……ふふっ」
ルカの反応がよほどおかしかったのか、ミラが小さく笑った。そのまま、笑みを含んだ表情でゆっくりと庭を見渡した。
「この中庭、本当に素晴らしい場所ですけれど、一つだけ気に入らないところがあるんです」
愛おしげに細められた目。
「ヴァレンの美しい運河が見えませんから」
ミラの言葉にルカは思わず微笑んだ。心に温かいものが流れ込んでくるのを感じた。
「アルドの山々の湧き水が生んだ水流です。ヴァレンに住む僕たちもまた、あの山の恵みに支えられている」
噴水の音がさっきよりもずっと近くで聞こえている。はるか昔の人々もこうしてこの音を聞いたのだろう。二百年。多くの国が興り、そして斃れていったこの地方で、ヴァレンもアルドもまだ生きている。
ルカは無言のままのミラへそっと視線をやった。静かな横顔は何かを諦めるようでもあり、何かを決めたようでもあった。
「殿下」
ミラが口を開いた。
「私はアルドへは帰りません」
意外な宣言にルカは絶句した。ミラが音もなく立ち上がると、ルカの前へ静かに佇む。凛とした立ち姿をルカは思わず見上げていた。
「お願いがございます」
ルカは反射的に腰を浮かせたが、ミラの声の切実さにすぐに気づいて、ぐっと動きを止めた。その代わり、ミラを見つめ続けることで彼女に応えた。
「これはアルドの王女としての申し出ではなく、私の個人的な思いから来るものです」
そう前置きしたミラが緊張したようにそっと息を吐き出す。
「ヴァレンとアルドの不思議な繋がりについて、共に解明していただきたいのです」
そう言ってミラが静かに頭を下げた。次に顔を上げた彼女は、逆光の中で輪郭が淡く滲んで見えた。それでも、真っ直ぐにルカを見つめるその眼差しだけは少しも揺るがず、強いままだった。
——眩しい。
ルカは目を細めた。
日差しのせいだけではなかった。




