7章 回廊
遠く市場の喧騒に混じる笛の音、太鼓の刻み、そして合いの手。
ルカとカシアンは祭りの当日に飛んでいた。今は北棟の古文書保管室にいる。薄暗く埃っぽいこの場所には日頃からあまり人が訪れないため、誰かと鉢合わせる心配はほとんどない。古びた椅子にもたれかかったルカは、時間移動特有の体調不良に耐えながらその時が来るのを待っていた。
「この部屋、王子の書庫より本の数が多いな」
カシアンが周りを見渡しながら感心したように言った。並んだ本棚に書物がびっしりと詰められているだけでなく、砂っぽい床にも、書き物机の上にも、巻物や冊子が大量に積まれている。
「ここには特に古い文献や記録類のほとんどが保管されてるんだよ。昔の手紙や台帳なんかも多くてね。僕の持ってる歴史書は年代も地域もばらばらだから、ここで分からない言葉を調べたりもしてるんだ」
「なるほどな」
しばらく部屋をふらふらしていたカシアンがルカのそばへ来てしゃがみ込む。
「大丈夫か?」
「まあ、三回目だからだいぶ慣れてきたかな。もうじき動けそうだよ」
ルカの言葉にカシアンがほっとしたように笑う。そして、ふと思案顔になった。
「……あいつは大丈夫かな」
カシアンがぼそりと呟く。ニコのことだろう。
ニコはルカの無理な頼みを渋々引き受けた後、城中を文字どおり駆け回って、関係各所に謝罪行脚をしながらルカの予定を調整し、魂の抜けたような顔でルカの元へと帰ってきた。
『ひと月後、三日……』
そして、それだけ言ってまたどこかへ行ってしまったニコは、日常業務をこなす傍らで、予定調整によって生じる諸々の不都合に対し助言と補佐をして回った。激務の原因であるルカは多忙のニコに申し訳なさを感じながら、極力予定外の外出や面会を控えることでニコの負担を少しでも減らそうとしたが、そんな気遣いによって減らせる仕事量は微々たるものである。
「今回、かなり無理をさせてしまったからね……」
ルカが苦笑する。
「正直、ニコの疲れきった顔を見た時は少し焦ったよ。ここまで負担をかけるつもりじゃなかった。本当に申し訳なかったと思ってる」
でもね、とルカは明るく言った。
「ニコなら大丈夫だよ。本当に優秀だし、人に好かれてるから。僕らの留守を預かってる間にもし困ったことがあっても、きっと誰かが助けてくれる」
ルカが誇らしげに続ける。
「父上もニコのことはとても評価しているんだ。本当は――」
ルカはここで口を噤んだ。カシアンが怪訝そうに眉を上げる。
「……なんでもない」
カシアンは何か問いたげな顔を浮かべたが、その表情を無視するようにルカが立ち上がった。
「カシアン、ありがとう。そろそろ行こうか」
二人は部屋から出て東棟へと向かった。少しひんやりとした空気を切るような早足だ。ルカもカシアンも祭りの当日は外にいた。出会ってしまう危険性は限りなく低い。
「どうして祭りの日って分かったんだよ」
ルカの後に続くカシアンが訊いた。
「分かったわけじゃなくて可能性が高いって話だよ」
辺りを警戒しながらルカが小声で答えた。
「資料によると、祭りの日に女官長が城下町の商館長と会ってるんだ。しかも、ミラ殿下も祭りの途中で一時離席してる」
「理由は?」
「言わなかった」
「怪しいな」
「ね?」
二人は無人の広間を抜け、渡り廊下を通り過ぎた。たどり着いた東棟は北棟と違い、日が差していて明るく、空気もほんのりと温かい。
ルカがここでカシアンをちらりと振り返る。
「後は調査団にだけ気をつけないと」
「なんだそれ」
「父上直属の調査専門部隊なんだ。たぶんミラ殿下も監視してる。鉢合わせたら面倒だから先に隠れておこう」
「先にって……接触場所なんて絞れんのか?」
「恐らく一階の小応接室だと思う。中庭への逃げ道が近いんだ」
「逃げ道?」
「誰かに露見してしまった時のためだよ」
言うなりルカは目的の部屋へと滑り込んだ。素早く周囲を確認し、扉からも窓からも死角になる場所を探す。片隅に寄せられたソファに目をつけたルカは、カシアンに目で合図をしてその背後へと身を潜めた。ルカに続いて同じように隠れたカシアンが声を潜めて訊いてくる。
「どのくらいここにいりゃいいんだ?」
「あと少しのはずだよ。今流れてる音楽が始まる時にミラ殿下は祭りを離れたんだ」
それから二人しばらく黙っていると、応接室の重い扉がゆっくりと開いて、三人の人影が入ってきた。
「大当たりだな」
カシアンが囁いた。
ミラだ。次いで女官長。堂々と入室する彼女たちの後ろでしきりに恐縮している小男が商館長だ。ルカも何度か会ったことがある。愛想はいいが、抜け目のない男だ。
三人は部屋の中央に据えられた卓につくと、顔を突き合わせて何やら囁き合っている。ルカは耳を澄ませた。
「船荷の流れは……」
「倉の割り振りに関して言うと……」
「外国船への商いの許しが……」
どうやらヴァレンの商流について調べているらしい。三人は秘密裏な空気を漂わせながらも、始終和やかな表情を浮かべている。時折、商館長の機嫌のいい笑い声が上がった。ミラ達は巧みに会話を進めながら、商館長の人柄や権限のほどを計っているようだった。
「何話してるかよく分かんねえな」
カシアンが小声で言う。
「こんなんで証拠取れんのか?」
「いいんだよ」
ルカがそっと答えた。
「認めさせる必要はないからね。知られていると理解してもらえれば十分なんだ」
三人はその後すぐに立ち上がり、部屋を後にした。あれほど楽しげだった表情は、扉をくぐる時にはもう消えていた。内々に接触したからこそ知らぬふりをする。何らかのきっかけで再会してしまった時に、堂々と無視できるようにだ。
「よし、俺たちも早々に退散しようぜ」
ソファの背後から飛び出したカシアンは思いきりのびをした。そして、しゃがんだままのルカを引き上げるべく手を伸ばしてきた。そこへ――
「――何をしている」
小応接室の隣から人が出てきた気配がした。
しまった。ルカは思った。客への対応のため控えの間があることを失念していた。調査団の人間はそこに潜んでいたのだ。
と、カシアンの手がルカの体をソファの影へと押し戻した。
「俺が何とかする。先戻ってろ」
ルカを見ずに囁いたカシアンが自ら人影へと歩み寄っていく。
「あー! 良かった、助かった……! わりい、入り口が分かんなくて外から入っちまった。西棟に行きたかったんだが……え、ここ反対? うわ、やっちまったな……部屋に忘れもん取りに行きたかったんだよ、ああ、ニコ……さん? 様? 殿? に一室用意してもらったんだけどよ――」
カシアンの声は次第に小さくなっていった。うまく遠ざけてくれたらしい。ルカはしばらく様子を窺い、恐る恐る立ち上がると、なるべく音を立てないように応接室の扉を開け、隙間からするりと廊下へ出た。
目指すは北棟。踵を返し、急いで向かう。
「――奪うことは本当に意味あることなのでしょうか?」
突然聞こえてきた声にルカは思わず立ち止まった。とっさに声のした方を見る。中庭へ続く回廊に面するポーチに、ミラと女官長が立っていた。ルカは急いで柱の後ろに身を隠す。
影からそっと覗くと、ミラと女官長は燦々とした太陽の光を浴びてほんのりと輝いて見えた。ミラは回廊に向かったまま、ルカに気づくことなく話し続ける。
「戦が始まれば、民が死に、土地は焼け、失うものは多い。そうやって奪った土地で、これまで何も育んでこなかった私たちは一体どんな恵みを生めるというのでしょうか?」
「ミラ様……」
女官長の戸惑うような声にミラが「ふふ」と笑う。
「こんなことを思うなんて、私はヴァレンを愛してしまったのかもしれません」
「ミラ様、迷ってはいけません」
女官長がすかさず鋭い声を上げた。
「アルドを背負っている者の自覚をお持ちください。貴女様の気の迷いで多くの民の命が失われるのです。どうか今はご自分の使命に集中なさいませ」
辺りはしんと静まり返った。市場から流れてくる祭りの音が虚しく響く。
「……ごめんなさい。つい弱気になってしまいました。私らしくないですね」
ミラが女官長へと向き直る。彼女はいつもどおり姿勢が良かった。
「そろそろ祭りへ戻ります。あなたも頃合いを見計らって外へ。今日は城内に留まる方が不自然ですから」
「かしこまりました」
恭しく礼をした女官長を置いて、ミラは颯爽と歩き去った。女官長もその後すぐにポーチを離れた。
ルカは一人取り残された。ずっと潜めていた息をようやく吐き出した。
『私はヴァレンを愛してしまったのかもしれません』
ルカの脳裏にはオリーブ畑で見た屈託のない笑顔が浮かんでいた。
祭りの喧騒がどこか遠くに聞こえる。ミラの声だけがいつまでも耳元で響いていた。




