10章 手記
ニコが書庫の書き物机にずらりと並べられた冊子を見下ろし、満面の笑みを浮かべた。
「今年も大移動の時期になりましたね〜。つまり僕の好物がもうすぐ食べられる!」
ニコの上機嫌な叫びに、本棚の近くで本をぱらぱらとめくっていたミラがすぐに反応した。
「ヴァレンの夏のお野菜ですか?」
「いえ、南国の果物ですよ〜。今度、殿下と市場に行かないとな、ミラ殿下もぜひ!」
「楽しみですわ」
盛り上がる二人をカシアンが呆れたように見やり、そして、卓上の冊子を一冊ずつ丁寧に検分しているルカへと話しかけた。
「随分ぼろぼろの本だな」
「かなり古いものでね、普段は政務室に置いてあるんだけど、夏の日差しで焼けてしまわないようにこの時期だけは書庫に持ってくるんだよ」
「へー」
カシアンが黄ばんだ羊皮紙に記されている題名を読み上げた。
「『再生記』」
全ての検分を終えたルカが、今度は小さな布で表紙の埃を払いながら言う。
「灰王が遺した手記で、ヴァレン復興の軌跡が詳細に記録されているんだ。僕の愛読書だよ」
「王子はほんとに灰王が好きなんだな」
カシアンが驚いたように呟いた。その言葉にルカがそっと微笑んだ。
「僕は幼い頃に母上を亡くしていて、母上の記憶はほとんどない。でも、ずっと憶えている言葉が一つだけあるんだ」
霞のかかった思い出の向こう側。顔も、声も、何も思い出せないけれど、後ろから抱っこされながら読んでもらった本のインクの匂いだけはずっと消えない。
「『国ではなく民を見なさい』」
ルカがカシアンを見上げる。
「灰王はまさに民を見る王なんだ」
ルカはずらりと並んだ『再生記』のうち一冊を手に取った。ページの中腹から小さく細い銀片を取り出すと、カシアンの前に静かに差し出し、古い羊皮紙に綴られた短い文章を声に出して読んだ。
『人は先の戦を崩城戦争と呼ぶ。確かに都は焼け、城は落ちた。だが、我が国が最も失ったものは民であった。あまりにも多くの命がこの地を去った。ゆえに私は、あの戦を「亡民戦争」と記す。』
「僕はここのくだりが手記の中でも一番好きなんだ」
ルカの声に力が入る。
「灰王は戦争で民が失われたことを何よりも嘆いた」
無言のままページを見下ろしているカシアンにルカが続ける。
「ヴァレンを火に強い国にしたのも、失わないための王族教育を徹底したのも、灰王が民を思う気持ちの表れなんだ。ヴァレンに生きる全ての人のために努力や苦労を惜しまなかった素晴らしい方だよ」
カシアンは何も言わない。そういえば歴史や昔の話には興味がなかったなと、ルカが話題を変えようとしたところで、カシアンがぼそりと呟いた。
「『あまりにも多くの命がこの地を去った』……」
「崩城戦争と名付けられたくらいだからね。城も町も農村も、全部がなくなってしまったんだ。今のヴァレンからは想像できないだろうけど」
「そうか……」
カシアンは居心地悪そうに紙面から目を逸らした。
「――好きじゃねえな」
やがてカシアンが低い声で言った。
「あ、いや、灰王じゃなくて、戦争の話はよ」
カシアンは言葉に迷っているようだった。目が泳ぎ、どことなく落ち着かない。
「こうやって言葉一つで終えちまう感じがさ、なんか、ちげえなって思っちまう」
「……ごめん」
謝ったルカへ複雑な視線を向けたカシアンが「わりい」と小さく言った。
「王子のせいじゃねえ、俺の受け取り方のせいだよ」
カシアンの手が右の隠しへと向かう。ルカはそれに気づいたが何も言わなかった。ルカと目が合ったカシアンが誤魔化すようにゆるりと笑い、ルカの元から静かに離れる。
「ニコ、なんかやることねえか?」
「え、珍しいですね……? 何を考えてるんです……?」
明らかに警戒しているニコに対して、カシアンが左の口元をぐいっと上げる。
「俺のやる気があるうちに面倒事押しつけといたほうがいいんじゃねえか?」
「あ、そのやる気できるだけ保ってくださいね、たくさん残ってますんで」
「たくさん!?」
「はい、行きますよ〜!」
もはや恒例になりつつある軽快なやり取りを交わしながら、二人は書庫を去っていった。しばらくして、ミラの侍女がそっと様子を窺いにきた。ミラが「大丈夫よ」と頷いてみせると、また音もなく姿を消した。その背中を見送ったミラが小さくため息をつく。
「最近、私がここへ来るのを侍女がかなり心配しているのです」
「どうしてですか?」
「二人きりになって間違いがあってはいけないと」
「間違い……?」
ルカが首を傾げ、それから数秒後に、ようやく真意に気づいて真っ赤になる。
「僕は間違えません……」
赤面したまま意味の分からない宣言をしたルカに、ミラが軽やかに笑う。そして、ふと思い出したように一冊の本を差し出した。埃まみれで、表紙がすり切れてしまっている。
「こちらの本が棚の隙間に落ちていたので、もしかしたらお困りでないかと思って」
「あ……」
ルカが硬直した。ミラの目に緊張が走る。それに気づいたルカがすかさず笑みを浮かべようとしたが、あまり上手に笑えなかった。
「実は……普段は目につかないところへ押し込んでいて……」
「そうだったのですか? 申し訳ありません、余計なことをしてしまいましたわ」
慌てたように踵を返したミラをルカは止めた。
「良いんです、変なところに置いておいた僕が悪いので……」
「これは……いえ、何でも」
すぐに言葉を打ち消そうとしたミラの声に被せるようにルカが答えた。
「兄様の手記です」
書庫が静まり返った。明かり取りから入る夏の日差しが、ミラの手元の手記をはっきりと照らしている。それをぼんやりと見ながら、ずいぶんと褪せてしまったな、とルカは思った。心の奥深くにちくりとした痛みが走った。
ミラがそっと目を伏せ、迷うようにして口を開いた。
「……アルドは以前もヴァレンへ婚約の申し出をしたことがあります。その時に伺っていた王子のお名前はルカ殿下ではありませんでした」
再びの、沈黙。
「……エリオ兄様は」
ルカはぽつりと語り出した。
「人として完璧な方でした。何でもできて、いつも優しくて、町へ出ればみんなが自然と集まってくる。誰もが次の王にふさわしい人だと言っていた」
ミラは静かにルカの言葉を聞いている。
「僕も尊敬していましたし――」
ルカの声が一瞬ぶれる。
「……大好きだった」
ルカの目が再び手記を見て、また逸らされた。
「この手記は、病で亡くなった兄様が死の間際まで書き続けていたものです」
「何を遺されたのですか?」
ミラの問いにルカの口がわななく。事実を口にするのを躊躇ったのだ。
「……実は僕、読めていないんです」
掠れた声。ルカが痛々しい笑みを浮かべる。
「おかしいですよね。あれだけ偉そうに歴史のことを語っておいて、一番身近な先人である兄様の手記だけは読めないなんて」
まるで罪を告白しているかのように重苦しい響き。
「殿下、それは」
「情けない話です。自分でも分かってる、でも、どうしても開けなくて……」
ルカの目は石畳を見つめ続けている。
「最期の言葉を読んだら、本当にいなくなってしまう気がして。もう、頼れない気がして」
ルカの中の兄の姿。穏やかに名を呼んでくれる優しい顔も、初めて書庫へと連れて来てくれた手も、自分に合わせて歩く長い脚も……。
全てを覚えているはずなのに、真っ先に思い出すのは、病に苦しみながら痩せていった姿なのだ。自分の元から去っていった姿なのだ。
「――そろそろお開きにしましょうか」
ルカが努めて明るい声を出した。
「僕は政務室へ戻らないと」
ルカが逃げるように書庫の入口へと体を向ける。
「今は必要ないだけです」
ミラが真っ直ぐな目でルカを見ていた。その眼差しの強さがルカを引き留めた。
「今の殿下にはまだ必要がないのです。だから開けないのです。お兄様がまだ読む時ではないと仰っているのかもしれませんわ」
冗談めかして言ったミラが再び真剣な顔つきになった。
「ご自身を見下げるのはおやめくださいませ」
きっぱりとした物言いにルカが呆然としたのにも構わず、ミラは強い口調で言葉を続けた。
「読めないのは、決してあなたが情けないせいではない。悲惨な歴史の数々に真摯に目を通して、まるで自分事のように受け止めてきたあなたが、情けないはずがありません」
「……ミラ様はお強いですね」
無意識に呟いていたルカが、自分の使った言葉に気づいて慌てて口を抑えた。顔が熱い。
「あ、わ、申し訳ありません、間違えました……!」
「何も間違いではありませんわ」
そう言ったミラが何かを期待するような目でルカを見つめてくる。ルカの視線はミラから離れて書庫の中をふらふらとさ迷い、やがて、意を決したようにしてミラの元へと戻った。
「ありがとうございます……ミラ様」
ルカが恐る恐る告げた礼に、ミラは華やかな笑顔を返した。




