5章 印
「カシアンさん、いい加減その服装やめてくださいよ!」
政務室の隅であぐらをかいていたカシアンが、ニコの声に面倒くさそうに顔をしかめた。
「なんだよ、このくらい良いだろ?」
「城内で浮きますから!」
「あんたが持ってきた服、肩凝るんだよ」
カシアンはニコが用意した服のうち、上着だけは元々着ていた丈長外套へと勝手に戻していた。河川商人の羽織りに似ているが、肩の落ち方も布地の重さもどこか古い。もちろん、城勤めの人間とも全く違う雰囲気だ。
「ルカ殿下も何か言ってやってくださいよ〜」
「まあ……カシアンだし……内側に隠しが多くて便利そうだね」
「おう、言ってくれれば何でも持ち歩けるぜ」
「殿下は甘すぎます〜……」
不服そうに言ったニコが「仕方ないですね」と呟く。
「もうそのままの格好でいいですから表の荷物運んでください。お祭りの片付けがまだまだ終わらないんですから」
「あんた、俺のこと雑用係だと思ってんだろ。やるけど」
立ち上がったカシアンを満足げに見たニコは、上機嫌に「行ってきまーす!」と叫ぶなり、カシアンをぐいっと引っ張って政務室から出ていった。わいわいと騒ぎながら遠ざかっていく二人に苦笑したルカが、静けさを取り戻した空間で手元の仕事へと集中し始めた。
ニコは最初こそカシアンへ警戒心をむき出しにしていたが、最近になって態度を軟化させたようだった。通常業務、祭りの準備、ルカの時間移動に伴う諸々の調整と、修羅場を迎えたニコを影で支えたのがカシアンだった。てんてこ舞いになっているニコの隣で無言のまま荷物を持ち上げる。カシアンはそんな男だった。
「失礼致します」
ついさっき二人が出ていった重い扉が開かれ、一人の男が入ってきた。日に焼けた大きな顔が特徴の壮年の男だ。
「殿下、頼まれていた件についてご報告が」
ヴァレン王立調査団北部隊の隊長だった。ルカが隊長へと向き直って報告を促すと、隊長は慣れた手つきで手元の書付をルカへと差し出してくる。
「ミラ殿下付きの女官及び近侍が城内で接触した人間についてこちらにまとめてあります。ご査収ください」
ルカはその場でざっと確認した。かなり詳細に記録が取られており、場合によっては会話の内容まで注記されている。
「こんなに早く……」
呟いたルカがはっとして隊長を見る。
「……父上か」
返事がないのは肯定の意味だ。
ガレスがミラを密偵と睨んだ上で政治の切り札として利用しようと考えているなら、いよいよ事態は深刻なことになる。ミラの掴んだ情報によっては、間違いなくその命を使うことに舵を切るだろう。
「ミラ殿下についての調べは――」
「これ以上は」
隊長の一言でルカは言葉を止めた。
「……分かった。報告ありがとう」
調査団を動かせるのは本来、国王だけだ。王立の名を冠する以上、その独立性は絶対だった。
「父上への報告は……」
「殿下からのご相談について、私が報告を上げることはありません」
肩をなで下ろしたルカに、隊長がわずかに表情を和らげた。
「殿下のお立場については私なりに案じております。ですが……我らが動かざるを得ぬ事態だけは、どうかお避けください」
「多少のお目こぼしは期待できるってことかな?」
「これ以上申し上げることは何もありません。――失礼致しました」
それだけ言った隊長は、格式張った礼を残してから足早に部屋を出ていった。
ルカは手元に残った資料を見下ろした。
接触者から察するに、防衛や外交に関する重要事項はあまり掴めていないと判断していいだろう。その代わり、城内の人事や派閥、人間関係に関してはほぼ全てを把握されたと見ておいたほうが良いかもしれない。
「どこまで知っているんだ……」
すると、ルカの独り言をかき消すような騒がしい気配が廊下から近づいてきた。
「算術が遅いとは失礼ですね!」
「ほんとのことだろうが。ああいうのは俺に任せとけよ、やってやるから」
「む……――ただいま戻りました!」
カシアンに苛立っていても、ルカには機嫌よく挨拶する。その豹変ぶりにルカは思わず笑った。
「お疲れ様」
「先ほど隊長とすれ違いました。ここへいらっしゃるのは珍しいですね〜」
「父上絡みで少しね」
ルカは適当に話を合わせながら手元の資料を隠した。ニコは立場上、城内で様々な人間と関わる必要がある。疑心暗鬼を生む余計な情報は入れたくなかった。
「カシアンは数字に強いみたいだね」
話を逸らしたくて敢えてカシアンへ話題を振ると、カシアンは「ああ」となんの気負いもなく答えた。
「倉庫番やってたんだよ。毎日、荷の数合わせや帳簿付けに追われてたんだ」
「ええ……」
ニコがあからさまに嫌そうな顔をする。
「毎日数字と睨めっこってことですか?」
「そ。荷物抱えて倉庫中を走り回りながらな」
「ひえ……」
ニコが震え上がる。ルカも思わず声を上げていた。
「休む暇もなさそうだね」
「そんなことないぜ。数えきれねえほどの人数が働いてるからな。倉庫の近くに屋台もいっぱい並んでて飯にも困らねえ。俺は毎日……」
そこでカシアンが少し笑った。眩しいものを見るような顔だった。
「……」
楽しそうに語っていたカシアンの声が止まった。ニコが話の先を催促するように「カシアンさん?」と名を呼ぶも、反応はない。
「あれ……俺は……」
そのうち、カシアンの表情が目に見えて戦慄していった。その変わりようにルカがただならぬものを感じ取った時。
「――俺は誰に会いに行ってたんだ……?」
呟いたカシアンが、突然外套の右側をまさぐった。あまりにも焦っているので服が破けてしまいそうだ。唖然としているルカとニコの前で、カシアンは服の内側からようやく何かを取り出した。
それは小さな刻印だった。
「あった……」
手元のそれをしばらく凝視していたカシアンが、今度は左の隠しから一枚の硬貨を出してきた。ヴァレン市中や近郊の国に出回っている珍しくも何ともないものだ。
「そうか……そうだ……大丈夫……大丈夫……」
カシアンは両手のものを忙しなく見比べている。ぶつぶつと呟き続ける声は震えていた。
「カシアン……?」
ルカの呼びかけにカシアンがはっと顔を上げる。
怯えきった目がルカを見つめていた。
***
深夜の書庫にはカシアンがいた。
ルカが驚いていると、向こうも同じように驚いたようだった。適当に敷いた外套の上に仰向けに寝転んでいたカシアンが、少し慌てたように体を起こした。
「王子、こんな夜更けに何してんだよ?」
「少し眠れなくて。カシアンこそどうしたの?」
ルカの問いにカシアンが言いにくそうに顔を背ける。
「あー……いや、あいつが用意した部屋、居心地悪いというか……豪華すぎて俺には合わねえんだよ。だからこっちで寝泊まりしてた」
あいつ、とはニコのことだ。ニコはカシアンに衣類を用意すると共に、西棟の一室もカシアンのために空けていた。
「ニコにバレたら怒られちゃうよ? はりきって部屋の支度してたんだから」
カシアンが「世話好きの坊っちゃんだな」と言い捨てるが、その目はわずかに笑っている。ルカも笑って応じると、石畳に手元灯代わりの蝋燭を置き、大量に積まれた読みさしの本の輪の中に座った。今夜は月の光が明るいから読むのに苦労はなさそうだ。
「あんた、いつも地べたに座るよな。王子がそんなとこにいて良いのかよ?」
「本当は良くないから色んな人に言われるよ。ニコには諦められたけど。でもさ、床が一番、読みかけの本に近いんだよね」
「なんだそれ」
カシアンの面白そうな声に応えるように、ルカが周囲にあった本の一冊に手を伸ばしてひょいと拾い上げた。そして、ページの中に収めていた銀片を取り出しながら「ほらね?」と言う。
「確かにそこに座ってんのが一番近いな」
カシアンがそう言うと、外套の上に再び横になる。が、何を思ったのか起き上がり、外套を羽織りつつルカの元へやってきた。
「さっき、ニコからなんか隠しただろ?」
「……よく見てるね」
「あの女のことか?」
ミラのことだろう。
「それは――」
「あの女がいると戦争が起きんのか?」
カシアンの問いかけにルカがはっとしたように顔を上げた。固い表情を浮かべたカシアンがルカを見下ろしていた。
「……城の人間に何か聞いた?」
「アルドのお姫様は国家間の軋轢をどう考えてるんだってニコに話してた。侵攻とか強奪とか物騒なことばっか言いやがって。あいつは呑気な顔したまま会話からうまく逃げてたけどな」
真剣な顔つきのカシアンが、何かに追い立てられるようにして喋り続ける。やけに焦った口調だ。
「アルドのお姫様って密偵疑惑のあいつだろ? あいつがここにいるとヴァレンにとって良くないんじゃないか? 酷えことになるんじゃないか? だったらとっとと帰しちまえば――」
「カシアン」
ルカの呼び声にカシアンが我に返ったように口を閉ざした。静寂の中に、カシアンの荒い息遣いだけが響いた。
「大丈夫?」
ルカが再び声をかけると、カシアンが「わりい」と謝ってきた。
「今の忘れろ」
その手が無意識に右の隠しに触れているのに目ざとく気づいたルカが、少し迷ってから口にする。
「隠しのそれ……」
「ん? ああ」
カシアンが右の懐を探った。カシアンが差し出してきた手のひらに木製の刻印が転がっている。
「仕事道具。忘れねえための印だ」
「忘れないため……」
ルカが再び問いかける。
「硬貨も?」
「そっちも、まあ、同じようなもん。ヴァレンのものなら何でもいい。小さいものならな」
ルカは少し考えた。
「カシアンはいずれまた旅に出るんだよね?」
「あ、ああ……まあな……」
曖昧に返すカシアンに、ルカが手元のものを差し出した。
小さな細い銀片。ルカが本を読む時、ページに挟んで使っている目印だ。
「ヴァレンで僕らと出会った印」
カシアンは驚いたような表情で、受け取った銀片を月明かりへとかざした。
「印、受け取っとくぜ」
カシアンは左の隠しから硬貨を取り出すと、代わりに銀片を滑り込ませた。そして、左胸を叩きながらぐっと口の端を引き上げてみせた。




