26章 灯火
「今年、色々あって戻し忘れてましたね」
書庫の本棚から埃を払っていたニコが言った。
棚にずらりと並ぶのは灰王の『再生記』だ。冬は夏と光の角度が変わる。太陽光から逃がしていたはずの書物は、小さな窓から差し込む柔らかな光の帯の中で、淡く光っていた。
「今からでも俺とニコで運んじまうか? 二人でやりゃ早いだろ」
いつもと変わらず石壁に寄りかかっていたカシアンが、そう言いながら立ち上がった。
「そうですね。じゃあ、そこからここまでがカシアンさん」
「多い」
「このくらい簡単に持てますよ」
「それニコが言うことか?」
書き物机のミラと歴史書を囲んで談笑していたルカが、本棚のそばであれこれ言い合っている二人を振り返った。
「ごめん、運ぶのは少し待っててくれないかな?」
ルカの声に、ニコとカシアンが揃ってルカを見た。きょとんとした顔が二つ並んでいるのに、ミラが思わずといった様子で「ふふっ」と笑う。
「なんとなく、こっちに置いておきたい気もするんだよね」
ルカの言葉にニコが心配そうな表情を浮かべた。ルカが微笑みながら言い足した。
「『再生記』から学ぶべきことはまだまだたくさんあるよ。僕の中で文献というより、一人の時に読み返したい本になっただけ」
読み返すたびに、ルカは思い出したいのだ。
灰王の背に感じた苦しさを。市場や人々の眩しさを。
「ま、色々あったもんな」
いつの間にかニコの手からはたきを取っていたカシアンが、ニコの届かない場所を適当に掃除しつつ言った。
「カシアンさん」
「今日、ずっと動きっぱなしだろ。王子のとこでちょっと休んでろよ」カシアンがここで左の口元を引き上げる。「また居眠りして派手にコケるぞ」
「だ、誰から聞いたんですかその話〜!」
「王子」
「陛下〜!」
ニコの情けない叫び声にミラがとうとう笑い出した。
「やはり愉快なお二人ですね」
「一緒にいて楽しいですよね」
ルカも笑いつつ同意する。そのまま、目を細めてカシアンを見た。
「陛下」
静かなミラの声。小さく頷いてきた。少しだけ勇気をもらった気がした。
「カシアン」
一段落したのか、壁に寄りかかる形でどさっと腰を下ろしたカシアンに、ルカが声をかけた。
「なんだよ」
「頼みがあるんだ」
ルカはそう言うと、カシアンの前で片膝を立ててしゃがんだ。カシアンは驚いた様子でルカを見ている。ルカはカシアンの瞳を真っ直ぐに見つめながら、言った。
「僕と一緒に、崩城戦争のヴァレンへ戻ってほしい」
カシアンの動揺がはっきりとルカに伝わってきた。静まり返った書庫に、重い緊張感がゆっくりと積もっていく。
「……本気か?」
長い沈黙の後、カシアンがぼそりと訊いてきた。
「そうだね」
ルカが返す。揺るぎのない声。
カシアンの視線が大きくぐらついた。次の瞬間、カシアンが勢いよく立ち上がった。その目がルカを強く睨みつけている。だが、壁に背を貼りつけてルカから距離を取っている姿は、怯えているようにも見えた。
「行ったところでどうしようもねえだろ。そんなの、俺が何度……っ」
とうとうカシアンがルカから目を逸らした。
壊れた町へと戻るたびに彼が負ってきた傷。その数を、その深さを、ルカは想像することしかできない。酷な頼みだと分かっていた。
「カシアン」
ルカはカシアンを見上げたまま言った。
「僕たちはきっと、歴史をやり直すことはできない」
カシアンの顔が歪んだ。
「起きた争いを無くすことも、滅びた国を生かすことも、僕たちには無理なんだ」
でもね。
思いのほか明るくなったルカの声に、カシアンがその視線を恐る恐るルカへと向けた。
「取り戻せることも、あるんでしょう?」
「取り戻せること……」
カシアンの掠れた声。ルカはそれに頷いてみせると、静かに立ち上がり本棚へと向かった。そして、取り出した一冊を書卓へと置いた。
『再生記』。その中でも、ルカが特に読み返していた一冊。
「灰王に地下のことを知らせるんだ。あの空間を、避難所として甦らせる」
ルカの宣言にしばらく呆けた顔をしていたカシアンだったが、悔しげに歯を食い縛りながら俯いた。
「それは無理だろ。だって、俺は王様にだって会いに行ったんだ。でも、話を聞いてもらえなかった」
「平時はね」
ルカは静かに答える。
「通常、王に会うことは難しいんだ。まして、正体も知れない人の話なんて聞いてもらえない。でも、戦中の灰王ならきっと違う」
ルカは古びた表紙にそっと手を置いた。
「この本も、この城も、この街も、灰王が民のために最後まであがき続けた証なんだ。それに僕は賭ける」
カシアンはしばらく、卓上に置かれたルカの手を眺めていた。昼下がりの光が様々な角度から書庫に差し込んで、空間はかなり明るかった。カシアンの顔や握られた拳が白く光り、石壁にはその影が映っていた。
「なんでだよ」
やがて、カシアンが小さな声を漏らした。
「なんで王子は、自分が危険な場所に行ってでも過去の人間を生かそうとするんだよ」
本から離れたルカの手がそっと握られる。
「僕は今、アルドとの盟約の文書を半分だけ持っている。そこから推測できることがもし正しいのなら、あの地下道は現在のヴァレンやアルドにこそ必要なものなんだ」
ルカは『再生記』の表紙を静かに見下ろした。
「避難所で民を守ることができた灰王は、有事のためにあの場所を残そうとするはずだ。そうすれば、地下道もきちんとした状態で保存されるかもしれない」
ルカは再びカシアンを見つめた。声に力がこもった。
「僕は二百年前のヴァレンの民も、今を生きるヴァレンの民も、この冬を越えようとしているアルドの民も、そしてカシアンも」
カシアンの瞳がわずかに揺れた。
「全員は無理でも、できるだけ多くの人に救われてほしい」
ルカの言葉を最後まで聞いたカシアンが、全身の力を抜きながら大きくため息をついた。
「王子らしいというか何というか……それにしても、少し欲張りすぎてねえか?」
「そうかもしれない」
ルカが苦笑する。カシアンがつられたように表情を和らげた。
「……いいぜ」
カシアンが壁から離れて、ルカの元へとやってきた。『再生記』を見て、その後、自分の足元へと目を落とした。片手が右の隠しを探りかけ、そのまま下ろされる。
ようやくルカへと向けられた眼差しは、先ほどと打って変わって穏やかだった。
「行こう、あの時のヴァレンに」
***
すぐそばを流れる運河にはたくさんの灯火が宿っていた。
月は線のように細い。だが、夜の水面に浮かぶいくつもの明かりが、真冬の闇を温かく照らしていた。
「レナにも休んでもらうため年始三日は働かねえっていうのは昔からだが、年の終わりにこんなことはしてなかったな」
馬に揺られたカシアンが、そう言いながら目を細めた。
カシアンは出会った頃の姿に戻っていた。何もかもがちぐはぐな格好。すっかり見慣れた丈長外套だけは、今夜も変わらず羽織っている。
今日の昼間、ルカはニコと共に北部詰め所予定地を訪れて、地元住人への挨拶や交渉担当者への礼回りなどをして過ごした。
地元の交渉人の一人は、以前オリーブ畑で出会った農夫だった。ルカとカシアンが時間移動をしている間、ニコはその人の家に泊めさせてもらうのだという。
「野宿を覚悟してましたからね……良かった……」
「本当にいつもごめん……」
先導するニコに謝りながら、ルカが馬の上で小さくなると、一番後ろをいくカシアンが納得した顔つきになった。
「ニコの荷物がやけに多かったのはそれかよ」
「必要だと思うものは後でカシアンさんの隠しに詰めますからね」
「はいはい」
三人は運河から離れて緩やかな坂を上る。この丘を越えると石造の建物が見えてくる。
「カシアン」
ルカがそっと後ろを振り返った。
「あの灯火は崩城戦争の後に始まった風習なんだ。忘れないための儀式みたいなものだよ」
丘の上まで来た。三人とも何となく馬の足を止めて、ぼんやりと光る運河を見下ろした。
「……未来へ飛ぶ時、俺は怖かった」
カシアンがぽつりと話し出した。
「ヴァレンが、居場所が壊れた後の世界を、俺は全く想像できなかったから。——でも、飛んだ先にはヴァレンがあった」
今夜は風があまりない。だから、カシアンの声ははっきりとルカの耳に届いていた。
「驚いた。ヴァレンがまだ残ってた。それどころか、前よりずっとデカい国になってた」
ここでカシアンが小さく笑った。
「そこにはお人好しの王子と世話焼きの従者がいた。過去の世界で偉い人に誰一人会えなかった俺の前を、二人は気楽にお喋りしながらのんびり歩いてた」
カシアンがルカとニコを交互に見た。名残惜しむような目をしていた。
「並んでる背中見ながら、ああ、平和だなって思った。ずっと不安で様子見していた俺が、この場所なら平気だって思えたのはあの瞬間だったんだ」
カシアンが頭をかいた。
「正直、王子の考え全部は分かんねえ。でもよ、二百年前のヴァレンと今のヴァレンは間違いなく繋がってるってことだろ?」
ルカとニコは顔を見合わせた。そして、カシアンに向かって力強く頷いてみせた。
「間違いなくね」
たどり着いた地下空間は相変わらず広かった。ニコが明かり代わりの油皿を手早く用意すると、自分の荷物を選り分けてカシアンの隠しに物を詰め込んでいく。
「そんなにいるか?」
「分からないから持たせてるんです」
ニコが立ち上がり、真っ直ぐにカシアンへと向き直った。
「カシアンさん、陛下のこと、頼みますよ」
「分かってる」
次いで、ニコはルカを見る。真剣な眼差しがルカを捉えていた。ルカは王族のケープを脱いでいた。その代わり、ニコが用意した簡素なマントを身にまとっている。ルカが差し出した臙脂色の布地を、ニコは複雑な表情で受け取った。
「陛下、どうかご無事で」
「必ず戻るよ」
ルカの返事を聞いたニコが、わずかに震えた口を引き結んだ。そして、一礼して下がっていく。ルカのケープを宝物のように抱きしめて、二人を照らす灯を手に、ゆっくりと遠ざかるシルエット。
「ニコ」
カシアンが声をかけた。ニコが止まった。カシアンはやわらかな眼差しで、淡く光るニコの顔をしばらく眺めていた。ニコが不思議そうに首を傾げる。
「どうしました?」
「ちゃんと待ってろよ」
そう告げたカシアンは、おもむろに「よしっ」と呟いて、地下空間へと向き直る。
「じゃあ王子、そろそろ行くか」
「この間と同じでかなり遠いけど、大丈夫そうかな?」
ルカの頭には、灰王を見に行った時のカシアンの発言があった。移動した先にあまり自信がなさそうだったからだ。
「それに関しては安心しろ」
カシアンがゆるりと笑い、そして、どこか遠くを見るような眼差しになった。
「あの戦争を忘れた日なんかねえよ」
気づくと、灰色の空を見上げていた。
ルカはゆっくりと立ち上がった。
荒野だった。腰の高さほどの雑草がどこまでも生えていた。見慣れたオリーブの木は一本もなかった。空と草だけがそこにあった。
「ここは……」
ゆっくりと振り返る。
少し離れたところに、薄灰の物見台がそびえていた。




