25章 路
「宜しかったのですか」
リヒマンの声にマルゼルが「問題ない」と答えた。
マルゼルは地形模型を見下ろし、新しく増えた印を目で追っている。境ノ衆が定めた今冬の道だ。この道は、死者の最後の旅路であると同時に、生者のための配給路でもある。
「狭間の番人である境守が墓を掘り返すと言った。ならば、もはや他の人間が口を出せることではない。誰も文句は言わんだろう」
「そうではなく」
マルゼルが気づいたように、ああ、と呟く。
「写しの件か」
半月以上姿を見せることのなかったミラが、久々にマルゼルの元を訪れた。墓の下から掘り出した成果物を携えて。
マルゼルは地形模型から視線を外し、卓上に広げられた羊皮紙へと目を落とした。
縦に裂かれた羊皮紙。記された文章は、前半部分がなくなってしまっている。
「秘められていた約束が、こんなものとはな」
マルゼルがため息混じりに言った。
「調査に回しますか」
リヒマンが言うのに、マルゼルが首を振った。
「今こんなものにあてがえる人間はおらん。あいつの返答を待つ」
ミラのことだ。
ミラは羊皮紙の写しを持ち帰ると主張した。だが、マルゼルがそれを蹴ったのだ。敵国に我が国の情報を渡すつもりはない。そう告げると、ミラは再び怒りをその顔に滲ませたが、今度はぐっと堪えた様子を見せた。
『では、せめて冒頭の二行だけでも』
そして、ヴァレンにも対になる羊皮紙があると言ってきたのだ。
「ヴァレンの新王が古語にも精通するというのなら、あのくらい読んでくるだろう。その後の対応は内容次第だ」
リヒマンは無言のままだ。マルゼルがそんなリヒマンを振り返った。
「何か言いたげな顔だな」
「寝返った可能性は」
冷えた声にマルゼルが唸った。
「お前はたまに本当に嫌なことを言う」
マルゼルは腕を組み、しばらく黙り込む。
「……その可能性は低いだろう」
「何故そう言いきれるのですか」
問いただしたリヒマンの声にはいつも以上に険がある。
「『奪うことに意味はない』」
「たわ言です」
リヒマンが切り捨てる。
「全くよ」
マルゼルが同意し、髭をさする。その目が模型を——山を下る川をじっと見据えている。
「だが、もしこれを本気で言ってるとしたら……ヴァレンの新王は聞いていた以上に変わり者だぞ」
片隅の暖炉で薪の爆ぜた音がした。固く閉ざされた木戸を吹雪が叩き続けている。
アルドの冬は始まったばかりだった。
***
地下通路を進んだ先は崩落現場だった。
昔の石灰採石場跡の横穴をそのまま利用した通路が崩れているようだった。ルカも相当無理を言って少しだけ現場を覗かせてもらったが、砕石で完全に塞がれてしまい、全く通れる気がしない。
アルドへの道。アルドからの道。その可能性は潰えていた。
「ここから攻め込まれたら危ないところでした」
隊長が安堵したように言った。吐く息が白くなっている。
ルカは返事をしなかった。その目は少しも揺れることなく、積み重なる砕石の山を見つめていた。
忘れ去られて、誰にも見つからないまま、ひっそりと壊れていった地下道。
——でも、まだ残ってる。
ルカは静かにその手を握り込む。
忘れられてしまっただけで、まだ。
***
ヴァレンには初雪がちらちらと降っていた。
「アルドと交渉したい、ですか?」
宰相の執務室は整っていて、膨大な資料や冊子の配置が厳格に定められているようだった。
必要なものは侍従が取ってきてはすぐに戻すので、宰相とルカの間に横たわる応接机の上にも、常に最低限のものしか置かれなかった。
今そこには、半分に裂けた古い羊皮紙と、ミラの持ち帰ってきた写しの二行が並んでいる。
「半分はアルドが持っている。僕はそれが欲しい」
そう言ったルカが口を引き結ぶ。太腿の上で手を握り、黙って宰相の出方を待った。
宰相がひらりと羊皮紙を持ち上げた。半分しか書かれていない古語をしげしげと見つめている。
「全く内容が分かりませんね」
「冒頭の二行だけはミラ殿下が写しを持ち帰ってくれたんだ」
「二行ですか」
「これ以上は条件次第、ということだろう」
ルカはミラが持ち帰ってきた羊皮紙の写しを手に取った。
ヴァレン文字の連なりと、アルド文字の羅列。そして、その下に追記されたルカの文字。
「石文化のアルドの書物はあまり流通していない。だから翻訳にはかなり苦労したけど、多分、合ってると思う」
ルカは写しを机上に戻し、宰相の元へと静かに滑らせた。そっと息を吸って、自分の字を読み上げる。
「——盟約路」
宰相が怪訝そうに眉をひそめた。
「何でしょうか」
「今はまだ分からない。三行目以降に具体的な内容が書いてあると僕は見ている」
「成程、よく分かりました」
宰相が柔らかに頷いた。その手が羊皮紙を机へと戻した。
「陛下は、この文書が二国の関係を改善に向かわせる重要なものとなる。そうお考え、いや、お感じになられている」
言い方に引っかかったルカは、無言のまま宰相を見た。宰相が静かな目でルカを見つめて話し出した。穏やかな口調だ。
「誰も読めない古語の、正誤の検証すらできない翻訳を根拠に、人や金を動かしアルドとの交渉に当たる。それがまかり通ると本気でお考えですか?」
執務室に沈黙が満ちた。二人の視線は交わったまま動かない。ルカの視線を宰相が捉えているのか、ルカの視線が宰相を留めているのか、ルカは分からない。
口の中に妙な渇きを感じ、ルカはつばをのみ込んだ。ごくという音が、わずかに速まった鼓動を一瞬だけかき消した。
「アルドには境ノ衆という特別な集団がいると聞いた」
ルカがおもむろに話し出した。その目線は宰相から一度も逸らされていなかった。
「彼らがこの羊皮紙を掘り起こしたそうだ。人よりずっと背の高い巨石を二つも動かして、その下にある凍った土を難なく穿って」
宰相はルカの話が見えないようで、口を挟んでくる様子がない。ルカの声はここで一段低くなった。
「ヴァレンの人間が手を出せない崩落現場も、彼らの技術ならば何とかしてしまえる。それがどんなに危険なことか、宰相ならば分かるはず」
ルカの発言を聞くなり、宰相の表情に緊迫したものが走った。最悪の事態を想像したようだった。ルカはそんな宰相の反応を確かめながら口を開く。
「羊皮紙を得るための条件として、春以降の運河通行税の減免を提案したい」
春以降、という言葉に宰相の目がわずかに見開かれた。ルカの意図に気づいたようだった。ルカが念を押すように言い足した。
「アルドが侵攻を選ばなければ確実に利益を得られる」
「侵攻と天秤にかける材料を与えるということですか……」
宰相が呟き、考え込むように顎に手をやった。
「陛下」
宰相が姿勢を正してルカへと向き直ると、そのまま丁寧に頭を下げた。
「アルドへの書簡を用意いたします。一両日中にはお目通しいただけるかと」
途端にルカの肩の力が抜けた。
「よろしく頼む」
ルカの言葉を聞くなり宰相が立ち上がり、控えていた数人の近侍に次々に指示を出す。一人は部屋を出ていき、一人は資料を用意し、と全てが無駄のない動きで進んでいく。
ルカは自分の後ろで一切を聞いていたニコへと目線を送り、小さく頷き合った。
「宰相」
立ち上がったルカが声をかけた。宰相がルカへと向き直った。その手はすでに多くの書類を抱えている。
「年末から年始にかけて三、四日ほど留守を預かってくれないか。北部巡察をしたい」
「北部巡察ですか」
「年明けから詰所の建設工事が始まり、物見台の運用が本格的に開始される。その前にあの辺りの地域や避難所をもう一度確認しておきたい」
「そういうことでしたら」
宰相が納得したように首を小さく動かした。
「年内最終日から年明け三日まで決裁は全てお止めいたします。陛下宛の要件は私が預かりましょう」
「ありがとう」
扉の近くでニコが待っている。ルカは踵を返し、速やかに宰相の執務室を出ていった。
***
「あの宰相をよく説得できましたね」
渡り廊下を歩きながら振り返ってきたニコに、ルカが苦笑を返した。脈の速さに、自分の緊張の余波を感じていた。
「ハッタリもあったんだけどね……正直怖かった……」
弱々しいルカの声にニコが「陛下らしいなあ」と笑う。再び歩き出したニコの背中に、今度はルカから「ニコ」と呼びかけた。
ニコが足を止めた。ルカのほうを見ようとしない。ルカが何を話すか分かっているようだった。
「また、ニコに無理をさせることになるね」
恐る恐る口に出した。ニコの背が強ばった。
「無理をするのは陛下のほうですよ。本当に危険ですしね」
すぐに返ってくる言葉。少しだけ、硬い。
「……ごめん」
沈黙。かすかに降る雪が風に巻かれてニコの服に付いた。
「あー……もう……」
ため息混じりの声を漏らしたニコが、その肩を大きく上下させた。ぐるりと体を動かして、渡り廊下の煉瓦柵をぐっと掴む。
「だって、反対しても意味ないですもん」
ニコはヴァレンの景色を見つめたまま言った。そろそろ夕刻の舟が出る頃合いだ。市場の人影もだいぶ少なくなっている。灰色の空を映した運河の上を、ゆっくりと滑る舟。
「誰かを助けたいって時の陛下は絶対に止まらないし、それに」
ニコの横顔がくしゃりと歪んだ。
「僕も助けたい人だから」
ニコが俯いた。わずかに沈んだ声が話し続ける。
「カシアンさんから聞きました。二百年前の崩城戦争の最中からやってきたって。本人は平気だって言ってるけど、絶対にそんなことないって僕でも分かりますよ」
ルカがそっと目を伏せた。
「陛下」
呼ばれたルカが視線を上げると、こちらを見るニコと目が合った。思いのほか凪いだ眼差しだった。
「陛下の筋書きどおりにいけば、きっとたくさんの人が救われます。多分、あの人も」
「……そうだといいな」
ルカの小さな言葉にニコが笑む。
「寒いですね」
ふいに縮こまったニコの肩。笑っているような、泣いているような表情を浮かべながら、ニコはそっと囁いた。
「春が待ち遠しいな」




