24章 約束
鍛冶小屋から絶えず槌音が聞こえてくる。
ミラは微動だにせず、目の前に鎮座する自分の父親——マルゼルをじっと見つめていた。
彼の背後に据えられた台座には、山脈や谷を刻んだ巨大な石の模型が置かれている。アルド全土の地形を再現したものだ。地形の制約を受け続けるアルドにおいて、歴代の王は常にこの模型を睨んできた。
「石の墓を掘り返す許可だ?」
ミラの発言を受けたマルゼルが顔をしかめた。そばに控えていたリヒマンの眉もわずかにひくついた。
「できるわけがないだろう。ちっとは考え——」
「何故ですか?」
ミラがマルゼルの言葉を遮り、ぴしゃりと問う。マルゼルが心外とばかりに瞠目した。
「あれはアルドに生きる人間が代々大切に守ってきた宝、それを掘り返すなどという酔狂なことを許せるか」
「宝ではなく正確には、約束、でございますね」
「お前はそうやって、人の言葉のあやをだな」
「私たちは一体、誰と約束をしているのでしょう?」
「少しは俺の話を聞け……」
呆れ返った様子のマルゼルに構うことなく、ミラは声高に続ける。
「約束の相手も分からず大切にするなど本当にできるのでしょうか? 約束は相手がいてこそ成り立つもの、象徴のみを磨くだけでは果たしていないも同然」
「お前……言い方ってもんがあるだろうが……」
疲れた表情でそう呟いたマルゼルが、長く深いため息をついた。
「とにかく許可は出せん。ろくでもないことを考える前に仕事をしろ、仕事を」
「ですが父上」
ミラが強気な表情で言い返す。
「私は時を待つようにと申し上げたはずですが」
ミラの声に槌の音が重なる。アルドでは鍬もノミも剣も同じ炉から生まれる。だが、ミラにはこれが何を打つ音かはっきりと分かっていた。
ミラの言葉を聞いたマルゼルが不敵な笑みを浮かべた。
「そうだ。だから準備をしてきた。お前の合図を待ちながらな。——だが、もう要らん」
マルゼルの声が突如、低く険しいものとなった。ミラがそっと目を細める。マルゼルはそんなミラを見据えながら重々しく告げた。
「雪解けと共に戻ってこい。お前ならどうとでも逃げ出せよう」
ミラが息をのんだ。わずかに開いた唇から言葉は出ない。ずっと握りしめていた手は力を失っていた。
が、次の瞬間にはその目をぎゅっと釣り上げ、マルゼルを力強く睨んだ。そして、ミラは無言のまま部屋を出ていった。
***
「境守!」
雪の道を意にも介さず進み続けたミラが、とある石蔵の前で叫んだ。吹きつける風が粉雪を巻き上げ、白く煙る山並みの向こうでは、空さえ灰色に沈んでいた。
「王女殿下」
初老の男性が驚きの表情を浮かべながら外へと出てきた。
厚手の上着には真新しい雪が付着していた。足元の革靴には乾ききらない泥が残っている。灰色のフェルト帽の下からミラのことを静かに見つめていた。
境守。アルドの墓の守人であり、国境の番人でもある境ノ衆の長である。
「これはお久しゅうございます。いつお帰りになったのですか?」
「雪山を動ける人間を急いで集めてほしいの」
挨拶もそこそこにミラは本題へと入った。境守の表情が緊張を帯びた。が、ミラはそれに気づかない。
「あなた方が一番信頼できます。時がないのです、とにかく急いで——」
「お断り致します」
ミラが黙った。境守をじっと見つめている。
「断る……?」
ミラが聞き返すも、境守は無言のままだ。
「何故ですか、あなた方は今よりもずっと雪深い時期もアルドの山を動けるはずです」
「そのとおりでございます」
「だったら……」
「お断り致します」
境守のにべもない言い方にミラの顔がさっと朱に染まる。
「時がないと言っているでしょう! これは王女の命です! 何故聞けないのですか!」
輪郭の曖昧な雪景色にミラの怒声が響き渡る。反響する自分の声に、ミラが我に返った様子で唇を噛みしめた。ミラの激昂にも境守は一切動じず、その瞳は静かに彼女を見つめていた。やがて、境守が口を開いた。
「王女殿下、あなた様はどちらの味方なのですか?」
「え……?」
境守がミラの困惑げな声を無視して話し出した。
「あなた様の情報が遅かったせいで、アルドはヴァレンへと攻め込む時機を逃しました。この遅れが、今冬に死ななくてよかった人間の命を奪うかもしれません」
ミラの瞳が揺れた。
「そんなこと……」
言葉が続かない。舞いしきる粉雪がミラの髪や頬にぶつかっては消えていく。
「王女殿下、儂ら境ノ衆が何故、牙を剥くとも言われるアルドの雪山を動けるのかご存知ですか?」
境守の問いかけ。
「知識と技術の賜物と……」
「それだけではやがて挑めなくなります」
境守はミラの言葉を緩やかに遮った。そして、言う。
「執念です」
一陣の風が吹いた。地面や石蔵の屋根に積もる雪が大きく舞い上がり、鋭い冷気がミラを刺した。
「儂らは死んだ人間をどうしてもふもとの墓へと運んでやりたいのです。寒さに、飢えに、この冬を越えられなかった人間を、せめて先祖と同じ場所に眠らせてやりたいのです」
ミラが一言も言葉を発せない中、境守の言葉が淡々と紡がれる。
「生と死、国と国の狭間を任されている儂らは、戦が始まれば真っ先に敵地へと乗り込み人を殺すでしょう。進んでやりたいことではございません。それは境ノ衆の誰もが思っていることです。ですが……」
境守は続ける。
「奪ったことで助かる者がいるならば——やせ細った民の冷たい体を運ばなくて済むならば、儂らの選択はおのずと決まってくる」
境守の声は、冷たく白い世界に沈みゆくように重かった。
ミラは何も言えなかった。立ちすくむミラに境守は深くお辞儀をし、そして、石蔵へと帰っていった。
扉はミラの前で静かに閉ざされ、その後、開くことはなかった。
***
ミラは眠れずにいた。
アルドへ来て数日が経った。ミラは何一つ目的を果たしていなかった。ミラはベッドの中でぎゅっと膝を抱えたまま、暗闇をただ見つめていた。
「……だめね」
もぞと動いて半身を起こし、枕元の木戸を開け放つ。途端に、凍てつくような空気が部屋の中へと吹き込んできて、ミラの肌が一気に粟立った。
ミラはそっと窓を覗き、眼前に横たわる黒い景色を見るともなく眺めた。
ミラがいる山城は、山頂の湧き水からなる川を掘り代わりに使っていた。ミラの目は、夜の闇に沈んで見えるはずもない水流をどこまでも追いかける。
アルドの水が山を下り、辿り着く先。
「ルカ様……」
***
ミラは雪の中に立ち、境ノ衆と対峙していた。
今日も雪が舞っている。帽子を目深に被った彼らは、様々な道具を背負い、手に鮮やかな色の紐を持っている。雪が深まる前にアルドの全ての道を検分して、冬中通れる道に印を付けておくのだ。
「王女殿下、あなた様とお話することはもう何もございません」
集団から進み出た境守が静かに告げる。その言葉にあるのは、怒りでも憎しみでもなく、拒絶だ。ミラの表情が一瞬だけ曇る。が、すぐに引き締まった顔つきになった。
「今日は王女ではなく、アルドの民の一人としてここに立っています。アルドの未来を思えばこそ、あなた方に聞いてほしいことがあるのです」
ミラは、彼女の前に立つ境ノ衆一同の顔を一人一人見つめていった。いくら強い風に巻かれようと、その立ち姿は少しも揺るがない。
ミラは拳を強く握りしめた。
「石は忘れず、山は守り、川は受け継ぐ。私たちはそう教えられて育ちました。だからこそ、山が終わり、川が広がるふもと、その地下にそびえる石の墓に遠い日の約束を託す。これは私たちにとっては当たり前のことです」
ミラが言葉を切った。今日の風にも、槌の音が混じっている。
「私はこの約束の中身を知りたいのです」
境守が探るような目つきになった。ミラは表情を崩さないままに言った。
「石の墓の下を掘るということです」
ミラの強い声。
その瞬間、境ノ衆にざわめきが走った。彼らがミラの発言にかなりの抵抗を感じていることが空気感で分かる。境守の顔つきは強張っていた。
ミラは少し待ったが、彼は何も言わない。ミラはここでふっと表情を和らげた。
「ヴァレンの風変わりな王子の話をいたしましょう」
突然話が変わったことに一同が再びどよめいた。ミラは気にせず話し続ける。その瞳がどこか輝いている。
「私に密偵の件を突きつけた彼は、ヴァレンの情報を握った敵国の王女とその部下を、全員アルドへ帰すと言いました」
「は……?」
境守が思わずと言った様子で声を漏らす。
「『奪うことに意味はない』」
ミラの声が冷たい空気に凛と響いた。遠くで枝から雪の落ちる音がした。
「彼の言葉です。歴史に多くを学んできた彼は、数多の国が滅ぶ様を辿り続け、奪う側も奪われる側もやがては斃れるのだと本気で恐れています。そして、ヴァレンやアルドは、決してそんな終わりを迎えてはいけないと、私と共に必死に動いてくれている」
ミラの言葉に聞き入る境ノ衆の反応が徐々に変わっている。ある者は腕組みを解き、またある者は相槌のように首を動かす。険しかった表情もわずかに和らいでいた。
ヴァレンの風変わりな王子の話は、確かに彼らの心を掴んでいるようだった。ミラはそっと熱い息を吐き出した。
「ですが、国は誰かの気持ちだけでは動けません。たとえそれが、一国の王となった彼であっても。彼は今、アルドと争わなくていい確固たる理由が欲しい。——そしてそれは、生きるため争いを選ぼうとしている私たちも同じこと」
ミラの言葉に、境守が初めて瞳を揺らした。境ノ衆の一人が小さく頷いた。壮年の男だった。同胞の体を死の床へと運ぶことも、誰かの命に手をかけることも、経験してきた者の賛同。ミラの声に力が入った。
「ヴァレンにはアルドの痕跡が多く残っています。建物も文字も地図も。ならば、その逆があっても不思議ではない」
ミラが言葉を切った。誰しもが真剣な眼差しでミラを見つめていた。ミラは一人一人と目を合わせるように、ゆっくりと一同を見回した。
「そして、それを本気で後世まで残そうとしたのなら、石に託すのが最も私たちらしい」
静かな、だが力強い声でそう告げたミラは、境ノ衆へと一歩近づいた。
「だからこそ私は約束の中身を知りたいのです。もしかしたら、アルドとヴァレンの真の姿を明らかにしてくれるかもしれない。未来の争いを避けられるかもしれない」
ミラの言葉が終わった。静寂がその場にいる全員を包んだ。槌音がいつの間にか聞こえなくなっている。
「……少し考えさせてください」
境守が小さく言った。その目はアルドの雪景色を見ていた。
ミラの呼吸は震えていた。ふと目を落とすと、手のひらに爪の跡がくっきりと残っていた。
「境守」
ミラが呼びかけた。
「ヴァレンでは要石の祈りもたくさん目にしました。私たちの先人が、ヴァレンの永続を願った証です」
無言のままの境守はしばらく寒風に吹かれていたが、やがて集団に短く指示を送った。境ノ衆がその場で一斉に頭を下げると、ミラのすぐ横を歩き去り、山を下っていく。
境ノ衆はアルドで最も尊き仕事を司る。幼い頃からそう言い聞かせられてきたミラは、遠ざかっていく足音に静かに礼をした。
***
発掘作業は雪と戦いだった。
日に日に積もる量が増えていく雪が墓地の入口を塞ぐのを、かき出し続けながらの作業だった。
ようやく動かした二本の巨石の下は、岩場と見まがうほど硬く凍った土だった。
「掘り進めよ」
境守の指示で、境ノ衆の手に握られた鍬や鋤が大きく振り上げられた。ミラは離れた場所から作業の様子をひたすらに見つめていた。
ミラの元へと近づき深々とお辞儀をした境守へ、ミラも一礼を返す。
「ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございます。境守がいなければ父上の許可が下りたかどうか……」
境守がミラの言葉に微笑んだ。
「あなた様のお考えをそのままお伝えしただけです」
境守はそのまま黙り込む。ミラも黙って目の前の作業を見守った。
天井の高い洞窟がどこまでも続き、奥の暗がりに向かって、大きな箱のような薄灰色の石がたくさん横たわっている。至るところに横穴があり、そこにも同じような石の塊が並んでいる。どの石にも、風化した文字や紋様が刻まれていた。
石の墓は、洞窟を先に進んだ場所にある。少しだけ開けたその空間には二本の巨石だけがそびえ、周囲には何も置かれていない。今、そこにあった巨大な石たちは、境ノ衆によって別の場所へと運び出されていた。
常に冷えきった空気で満たされている空間だが、今日は松明の明かりがいくつも灯されているせいか、煙のにおいと共にほんのりとした温かさすら感じる。
「王女殿下」
ミラは境守を見た。松明の光に赤々と照らされている、神妙な顔つき。
「儂らが次の春に見る景色が、平和なものであってほしいものです」
祈りを託されたのだと分かった。
ミラの目指す先を、未来を、理解してもらったのだと。
「——出ました!」
境ノ衆の一人が叫んだ。
「運べ」
境守が言う。わずかにその声が震え、拳が固く握られていた。
境ノ衆の手を次々に渡ったそれは、ミラと境守の足元へと静かに置かれた。
石の箱。
思いのほか小さい。
両手の上に乗せてしまえそうだ。
境守が素早くしゃがみ、その箱を確認する。息をのむ気配。
「開きますか?」
両手を胸の前で強く握りしめたミラが訊く。その声は大きくわなないていた。だが、境守の手元を瞬き一つせず凝視し続ける瞳は、少しもぶれることがなかった。
「……開きます」
「では、開けてください」
ミラの硬い声に頷いた境守が、箱へと静かに手を伸ばした。石同士の擦れる音が響き、上蓋がそっと外された。
そこには、きれいに巻かれた羊皮紙が収められていた。




