23章 残響
調査団の帰還と共に、住人の避難計画の策定が始まった。
アルドは着々と侵攻準備を進めており、来春には動ける。これが調査団の見解だ。
「王都の住人はこれまでどおり、城の中庭を有事の避難所と想定し、運用することにいたす」
内務卿の言葉にルカと隊長が頷いた。ヴァレン全土が分かる地図や各町村の覚書など、大卓には様々な資料が並べられている。木箱から出てきた見取り図もその一つだ。
「煉瓦という防壁も、食べ物も水も、薬すらも、全てが中庭にある。灰王のお考えには感服するばかりですな」
内務卿が感慨深げに呟いた。ルカは無言のまま、この城を建てた灰王の心中を少しだけ思った。
「新たに発見された北部避難所の収容人数及び生存可能期間が割り出せました」
隊長が新たな資料を取り出すと、数値に大きく丸を書き入れながら言った。
「収容人数は二千二百、生存可能期間は七日」
数字がずっしりとした重みを持って、ルカの中に居座る。
「北部の人口には足りないな……」
ルカの呟きに、内務卿が腕を組んで椅子の背にもたれかかる。
「子供や老人、病人に怪我人、妊娠中の女性など、優先させるべき者たちは次々に思い浮かぶのだが」
「城内の中庭と違い、北部は民の手に運営のほとんどが任されます。動ける人間もいなければこの避難空間に意味はありません」
内務卿のぼやきに対して隊長が淡々と告げる。
「物見台を復活させるのはどうだろう?」
ルカの発言に二人の視線が集まった。
「この物見台から避難所の入口が見えるんだ。恐らく、避難所への誘導のために後から設けられたものだろう」
ルカが地図を指差しながら位置関係を説明すると、二人がそれぞれ納得したように頷いた。
「ここに複数人を常駐させ、有事の避難誘導と避難所の初動を任せる。不測の事態には一人が王都へ戻って増員を頼む」
「なるほど」
隊長が呟き「ですが」と続ける。
「あそこは人を常駐させるには狭すぎませんか?」
ルカが頷いた。
「もしもこの計画を進めるのであれば、地元の人間と交渉してどこかに詰め所を設ける必要は出てくる」
「詰め所のみならば、そのまま建ててしまったらいかがですか?」
隊長が言う。
「民を守るために必要なものならば交渉も何もございませんでしょうに」
内務卿も不思議そうな顔をしている。
「いや、必ず交渉するんだ。僕が現地に向かってもいい」
ルカが念押しするように言葉を発した。
「この物見台は地元の人々の憩いの場となっている。この計画で彼らから一つの場所を奪うことになるんだ。だからこそ、詰め所の場所はそこに生活する人々の意見を取り入れて決める」
ルカの真剣な声に、二人は黙って耳を傾けている。
彼らの射るような眼差しとぶつかった。けれど、今のルカの心は不思議と凪いでいた。
「過程を疎かにしてはいけないんだ。最初に信頼されなければ、有事の時にも信じてもらえず、誰も守れなくなってしまう。僕はそれが一番怖い」
ルカは言いきり、無言の二人の様子を窺った。反論に備えるべく、そっと呼吸を整えたルカの思考が動き出す。と、内務卿が「陛下」と口を開いた。
「今のはとても良いですな。あなたは人をよく見ておられる」
ルカの心がぽんと跳ねる。ぶわりと体が熱くなった。
内務卿がルカに初めて笑みを見せた。
「交渉人を用意いたしましょう。陛下のお考えを汲んでくれる者を私が選定いたします」
「陛下……!」
突如、部屋の隅から声がした。ルカが振り返ると、必死に口を押さえたニコが立っている。内務卿が高らかに笑った。
「異論は出ぬようですな」
「ニコ……」
呆れ声で諫めつつも、押さえきれない気持ちにルカの口元は自然と引き上がる。ニコにようやく自分の成長を見せられたような気がした。
「避難経路や順序については、計画が具体化してからでよかろう。——さて、保管庫についても検討せねば」
和やかな空気を、内務卿がゆるりと取りしきる。うっすらと笑みを浮かべていた隊長がその表情を引き締めた。
「湿気があるので長期保管には適さないかと。在庫を回していく方式が安全では」
「地下道は行き止まりで宜しいのかな?」
「いえ、恐らくその先も続いています。方角的には石灰採掘場跡に続きます。ただ、調査が打ち切られたために何とも——」
ルカの耳にはそのやり取りの一切が入っていなかった。喉奥で心臓が激しく打っている。卓を掴んだ両手が震えて落ち着かない。
羊皮紙の端。地下道端部のコの字。行き止まりにも見える、その隣。追記された様々なヴァレン文字に隠れるようにして存在している、線の連なり。
「アルドだ……」
ルカの声に内務卿が「ん?」と反応する。ルカが羊皮紙を勢いよく指さした。
「これはアルドの文字です。羊皮紙を横にして見るのが正しい方向です」
「え?」
二人が紙の方向を変えて覗き込む。
「これが文字……? ただの線にしか……」
「僕もミラ殿下にアルド文字を教えてもらうまでは分からなかった。文字という認識すらしていなかった」
ルカの早口に、隊長が羊皮紙から顔を上げた。
「読めるのですか?」
「一部だけなら……」
かなり古い時代のものなのだろう。ミラに教えてもらった形とは全然違う。だが、たった一つだけ分かる文字があった。
昔から彼らが大切にしてきたもの。だからこそきっと、形が変わらなかった。
「——『山』と」
沈黙が流れた。ルカが二人とそれぞれ顔を見合わせる。卓についた手のひらに熱がこもる。早すぎる鼓動は収まる様子がない。
「まさか……」
隊長の声が緊迫している。内務卿が地図を食い入るように覗き込んだ。
「この道がアルドに通じているのか……?」
***
「お祭り、ごめんね」
ルカの声にカシアンが左の口元をゆるりと上げた。いつものように姿勢を崩して、書庫の壁に寄りかかるようにして座っている。
秋の冷えた空気が空間に満ちていた。ただ、日の光が当たる場所だけはほっとするような温かさだった。
「別に。それより王子はこんなとこにいてもいいのかよ」
石畳に座って夢中で本を選んでいるルカに、カシアンが訊いた。
「さっき顔出したから少し休憩。今日はお祭りだからね、何の予定もないんだ、こんな日は珍しいよ」
「王子もすっかり忙しくなったな……と」
カシアンが気づいたように言葉を止めた。
「そういや、もう王子じゃねえのか。慣れねえな」
「いいよ、別に。カシアンにとっては『王子』が呼び名みたいなものだから」
笑いながらそう言ったルカは、ようやく選んだ一冊から銀片を抜いて、黙々と読み始めた。しばらくはカシアンの視線を感じていたが、ページに没頭するうちに分からなくなった。
「なあ王子」
カシアンの声にルカがはっと顔を上げる。
「あ、時間……」
「いや、そうじゃねえんだ」
カシアンが躊躇うように視線を泳がせ、そしておもむろに立ち上がった。落ち着かない様子で書庫を歩き回っていたが、やがて本棚の近くで足を止めた。
「王子は俺の力を自分のために使おうとは思わないんだな」
「もう十分使わせてもらってるような?」
ルカが首を傾げる。カシアンがルカを振り返ると、おどけた調子で言う。
「休憩時間をちょっとだけ延ばしたり、行きたい場所にぱっと行っちまったり」
「そんなことには使えないよ」
「なんでだよ、負担なんかほぼないぜ」
「でもなんか抵抗あるなあ……それよりずっと大きなことを頼んでるのにね」
ルカが苦笑した。カシアンも小さく笑った。
「普通はそう思うんだろうな。特別な力だから特別な時に使おうって」
棚に寄りかかったカシアンが鼻で笑った。自嘲。ルカはカシアンの様子がおかしいことに気づき、そっと本を閉じた。
「俺はこの力を日常的に使ってきた。そんな大層な話じゃない、失敗したらぱっと戻って修正する、その程度だ。でも、それをずっと繰り返してきた」
ふっとカシアンの視線が遠くへ逸れた。明かり取りが切り取る小さな空を見ているようだった。
「俺は何回か昔に戻ったんだよ。ヴァレンが火の海になる前に何とかできねえかって。今まで上手くいってたから、今度も何とかなるんじゃねえかって」
カシアンは黙った。遠くに祭りの音がするが、石壁に遮られてほとんど聞こえない。静けさが二人を包んでいた。
「戦争は止まんなかった。俺一人がどうこうしたって無理な話だった」
カシアンが低い声で言った。
『あんまりでかいことは止められねえし、変えられねえ。……俺も昔に失敗した口さ』
このことだったのだ。
「過去に行ったって変わらねえから、俺はどこに飛ばされるかも分からねえ未来に飛んだんだ。そしたらこっちでも戦争だなんだって騒いでんだから、ほんとに嫌になっちまうよ」
カシアンが笑った。乾いた笑いだった。そして、ルカから逃げるように俯いた。
「俺は必死だった。王子に近づいたのも、ニコを支えたのも、力を使って協力したのも、全部俺の願いを叶えてもらうためだ」
「願い?」
「何とか戦争を回避して、平和な場所を作って、それで……」
「それで?」
ルカの声にカシアンの口元がわなないた。
「——忘れちまった」
「え……?」
ルカの心臓が嫌な音を立てた。
カシアンが一つ息を吐いた。震えていた。その手が右の隠しに滑り込む。ぎゅっと強く握られていることが、外套の布越しに分かった。
『忘れねえための印だ』
あの言葉の重みを、ルカは今になってようやく理解した。体の内側を冷たい手でじかに撫でられたような、気味の悪い冷気がルカの全身を駆け巡る。
命綱。時代と彼を結ぶ、唯一の繋がり。
「俺は、自分がなんてこんなに必死になってたか、全部忘れちまった。元いた場所から離れすぎた、遠くに来すぎちまったんだ」
カシアンの目がぐらりと動いてルカを見た。ルカは思わず肩を強ばらせた。まるで何も映っていないかのような、空っぽの目。
「王子、なんで飛んだ先で自分自身に見られたらだめなのか、教えてやろうか?」
ルカは黙ってカシアンを見つめた。今、彼から目を逸らしてはいけないような気がしていた。ルカが見ている前で、カシアンの口がその形を歪めなから開く。
「自分ってもんがなくなってくんだ」
カシアンが突然笑い出した。口を開けて、声を上げて。調子外れの笑い声がルカの鼓膜をめちゃくちゃに叩く。ルカは震える息を吐いた。
かつてのヴァレンで見た、幸福そうな笑い方ではない。痛くて痛くて仕方がなくて、どうしていいか分からずに思わず笑ってしまった。そんな風に。
「戻ってきた俺は、戦争が怖いのに王女への嫌悪感はほとんどねえし、別の場所から来たのに王子やニコとずっと一緒だった気がする。あの町が懐かしいのに自分が住んでた感じはしねえし、昔の俺の姿を見ても、誰か別の人間を見てるみてえだった。もうめちゃくちゃなんだ」
追い立てられるように言葉を発していたカシアンがふいに黙り込み、棚に背中を預けたままずるずると床へ崩れ落ちる。焦点の定まらない目がゆらゆらと揺れている。
「……俺はもう、自分がどんな奴で、何のためにここにいるのか、少しも分からねえ」
ぽつりと言ったカシアンが膝を抱えて俯いた。何かを守るように。あるいは、これ以上傷つかないように。
「でも、俺は小さなことから逃げるってことを繰り返して生きてきた。そんな俺が、戦争なんてデカいもんから逃げ出さねえはずがねえんだよ……」
カシアンの声が大きくぶれた。
「俺は多分、あの場所にいた全員を捨てて……それで……忘れて……生きて、」
カシアンの声がここで途切れた。縮こまった肩は震え続けている。乱れた呼吸の音が石壁にぶつかってずっと響いている。
ルカは何も言えなかった。秋の光は、冷えきったルカの体を少しも温めない。
カシアンが持つ力の真の代償を、ルカは初めて目の当たりにしていた。




