21章 継承
その文章は、怯えていた。
どのページにも、ひたすらに、恐怖が書き連ねてあった。
「エリオ兄様……」
思わずこぼれた声は掠れていた。喉の奥が詰まったようになって、うまく声が出なかった。
滅びの王族教育。それはつまり、先人が犯した過ちと、もたらされた最悪の結果を、日々目の当たりにするということだ。
人類史は戦争の連なりでもある。途切れることのない悲惨な歴史を追いかけているうちに、エリオは王という将来の立場へ大きな恐怖心を抱くようになっていった。
一度でも間違えれば、終わるのだと。
そして時には正しさすらも、時流が変わり、他国が変われば、過ちに変わり果ててしまうのだと。
『痛い。苦しい。私はようやく逃げられるのかもしれない』
最後のページには、読むのも難しいくらい崩れた字でそう綴られていた。ルカの震える指がその文字を何度もなぞった。
ずっと目を逸らしていた手記。そこにはあまりにも悲しい真実が遺されていた。
エリオは完璧な王の器だと、誰もが称賛し、尊敬した。ガレスも並々ならぬ期待を寄せていた。ルカはひたすらに慕った。エリオの逃げ場はどこにもなかった。ルカが大好きだった優しい笑顔の後ろには、こんなにも痛々しい傷が刻まれていたのだ。
ルカは手記を閉じた。色褪せて擦り切れた表紙を見つめた後、抱きしめるように抱え込んだ。手記は本当に小さな冊子で、いくら力を入れて抱えても、まるで何もないように心許なかった。
——父上はどうだったのだろう。
ふとルカは思った。
ガレスの瞳がわずかに揺れたあの瞬間を、ルカはまざまざと思い出していた。
「——大丈夫ですか?」
遠慮がちな声が聞こえた。ルカはふと目を開けた。
やわらかな朝日。柱の影に、人。ニコがそっとルカの様子を窺っていた。
「お部屋にいらっしゃらなかったので……」
ニコが言葉を止めた。
「泣いてるの……?」
ニコの声にルカは自分の顔を触った。そういえば湿ってる気がする。瞼もいつもより重い気がする。
「泣いてたみたいだけど、もう泣いてないよ」
ルカが答えた。自分で思ったよりもしっかりとした声が出てくれた。ニコが困惑した表情のままルカを見つめている。どうしたらいいかを考えあぐねているようだった。
「ニコ」
ルカは立ち上がった。差し込む日差しが瞼にしみて痛い。ルカは白い光に目を細めながら言った。
「今夜から寝室を移す。手配を頼む」
***
廊下に一人の男が待っていた。昨日、政務室を訪ねてきた亡きガレスの側近だ。
「陛下、こちらを」
彼が恭しく差し出してきたのは、ずっしりと重い鍵だった。
「これは……」
「生前、何度か私に仰っていました。何かあったらこれを陛下へお渡しするようにと」
男は静かに下がり、扉へと手を掛ける。
「こちらです」
開かれた扉の向こうをルカは見た。
朝の光に包まれたその部屋は、思ったよりもずっと簡素な空間だった。寝台と、小さな棚。椅子。ガレスの気配が染み込んでいた政務室と違って、この部屋にはほとんど生活の匂いがなかった。
ルカは部屋を一周してあちこちを探った。
ずっと恐ろしくて仕方なかった父親の、そうではない部分が知りたかった。たとえそれが、どんな形であれ。
だが、この部屋にガレスという人の痕跡はないに等しかった。枕をひっくり返し、シーツをめくり、引き出しを開け、椅子を動かし……それでもルカは、何一つも見つけることができなかった。
「あれ?」
ルカはふと気づいた。
部屋の片隅に質素な扉があった。煉瓦の壁と同じ色に塗られていて、すぐにはそうと分からなかった。近づいて開こうとしたが、びくともしない。よく見ると施錠されているようだった。
ルカはふと手元の鍵を見た。試しに錠へと差し込んでみると、かちりと小気味のいい音がした。少し押しただけで、扉は驚くほどスムーズに開いた。
停滞した空気が、立ち入ったルカのことを冷たく迎える。部屋の全貌が目に飛び込んできた瞬間、ルカの全身が硬直した。
そこは窓のない部屋だった。
正面の壁一面に、おびただしい数の紋章が掲げてあった。ルカにはすぐに分かった。それらは全て、この二百年で斃れていった国の紋章だ。
他の壁には大量の地図が下げられていた。地図の形が少しずつ違う。二百年に渡る興亡の歴史が、この地図群を辿れば分かるようになっていた。
ルカはしばらく止めていた息を吐き出した。鼓動がやけに速い。必死に息を吸い込もうとするが、漂う空気の異質さに肺がいつまでも満たされる気がしなかった。
二百年の滅びは、全てを一度に抱えるにはあまりにも重い。
ルカは顔を伏せ、静かに瞼を閉じた。呼吸がいつもの調子に戻ってくるのを待って、そして、再び目を開く。
「この部屋のことを知っていたか?」
ルカは、自分の後ろをついてきた側近の男を振り返った。
「いえ……仕事以外のことはほとんどお話しされませんでしたから……」
男が強ばった顔で答えた。鬱々とした空間にただただ戸惑っているようだった。
「そうだったのか……」
ルカは静かに答え、もう一度部屋を見回した。
だとしたら、ガレスはずっと独りだった。
妻に先立たれ、息子に先立たれ、もう一人の息子とは折り合いが悪く、側近にすら何も話さない。
たった一人で滅びを凝視し続けた。体を休めるはずの部屋でさえ。もう二度と滅びるわけにはいかないという決意を背負って。
——間に合わなかった。
ルカはそう感じた。こみ上げるものを奥歯を噛みしめて耐えた。
エリオにも、ガレスにも。自分は誰にも間に合わなかった。
「父上……」
ルカの呟きは重苦しい空間に吸い込まれてすぐに消えた。ルカは鍵の重さがまだ残る手のひらを強く握り込んだ。
自分が継いだのは国王という地位ではない。
決断の痛みでも、孤独の深さでもない。
忘れられようと、捨て去られようと、それでも連綿と続いていく歴史の一端だ。
廊下にはニコが待機していた。ルカを見るなり、気づかわしげに顔を歪めながらそばへと寄ってきた。
「大丈夫だよ」
ニコが問うよりも先にルカが言った。だが、ニコはなおも心配そうな表情を消さない。ルカはしばらく黙っていた。その目は、王の部屋を守る重々しい扉を真っ直ぐに見つめていた。
「ニコ」
ルカはようやく口を開いた。
「僕はきっと、強い人にはなれない」
ニコは無言のままだ。ルカの発言の真意を推し量っているようだった。ルカは静かに続けた。
「今までもずっと怖かった。この数日で分かったのは、僕は生涯、気弱で臆病なままってことだけだよ」
ルカは小さく笑った。痛みを引きずるような、そんな笑い方だった。
「だけど、それは僕が王になれない理由にはならない」
完璧なヴァレンの王はどこにもいなかった。その代わりにいたのは、悩み、苦しみ、怯える人間だった。そして、この国を二百年もたせたのは、そんな人間のあがきの連鎖だった。
だったら、たとえどんなに弱々しくとも、決して止まらず、あがき続ける。
それがルカの王としての生き方だと、ルカは今はっきりと理解していた。
「さ、やらないといけないことが山積みなんだ。これからもよろしくね、ニコ」
ルカがニコへと笑いかける。途端にニコの顔がぱっと晴れた。
「はい、陛下!」
ニコの力強い応答にルカは頷いた。
秋風が市場の活気を運んでくる。ヴァレンの運河は今日も輝いている。ここを去りし者たちがその目に見た途切れのない流れを今、ルカが見つめていた。




