19章 断片
ガレスの言葉に、ルカは耳を疑った。
「調査団を引き上げる、ですか?」
ガレスは手元の書類を処理しながら顔も上げずに言った。
「地下空間はアルドの脅威ではなく有事の避難所だった。そうと結論が出た以上、更なる地下調査は無駄だ」
「地下の遺構は地下道が先へと続いております。アルドの脅威という危険性を排除するためには今しばらく時をかけるべきかと」
今、地下調査を打ち切るわけにはいかなかった。ヴァレンとアルドの繋がりを、ルカはうっすらと感じ始めている。だが、それを明確に示す証はまだ何も出ていないのだ。ルカはガレスが気を引きそうな言葉を必死に並べた。
ルカの進言が意外だったのか、ガレスがルカを一瞥した。が、興味なさげに逸らされる。ガレスのペンを走らせる音は止まらない。
「北部は石灰岩盤が長く横たわる。崩落しやすい地盤にいつまでも地下道が続いていると考える方が不自然だ」
「それは——」
「調査団はアルドへと派遣する」
ガレスの言葉にルカは硬直した。思考が止まり、言葉が出てこない。
「何故ですか?」
ルカはようやくそれだけ言った。
「アルドの脅威ならば地下よりも山にある。奴らが動くとしたらこの時期が限度だ、現状を把握する必要がある」
低い声。
「父上」
ルカは一つ深呼吸をした後に、早鐘の心臓を何とか無視しながら言葉を発した。
「地下調査の撤収、こちらに関しては父上の仰ることも一理あります。ですが、調査団のアルドへの派遣は承服できません」
ガレスの手が止まった。ルカはそれに気づかないふりをして言いきった。
「彼らは我が国特有の調査部隊です。彼らの調査対象は現存している国ではありません」
今や射抜くような目がルカを睨んでいた。張り詰めた空気が部屋中に充満していた。
ルカは口を強く引き結ぶ。大きく息を吸ってから、こじ開けるようにして口を開いた。
「彼らは一つの国が傷つき斃れていくまでを、その足とその目でくまなく辿っていきます。そして、彼らが持ち帰ってきた記録を、我々ヴァレンの王族は脳へと刻みつける」
ガレスの刺すような眼を見つめ返したまま、ルカは必死に言葉を紡ぐ。舌がうまく回っていない気がする。声の調子がおかしい気がする。とにかくがむしゃらに口を動かし続けた。
「彼らの意義は、未来の平和のために様々な滅びの痕跡を巡ることにあり、争いに備えるための諜報行為ではありません」
言いきったルカは、ここで息をついた。背中にじっとりと汗をかいていることに、ルカはようやく気づいた。
「……見抜く力は抜群にある集団だ。生きている国が相手でもそれは同じこと」
ガレスの不機嫌そうな声が返ってきた。彼は手元の資料を指で叩き始めている。硬い音が自分を責めているような気になりながらも、ルカは発言をやめない。
「調査と諜報は勝手が違います。アルド側が調査団の動きを掴まないはずがありません。今、何の動きもないアルドを刺激して何になるのですか? 下手な探りは誤解を生み、事態を悪化させかねません」
「……アルドに何の動きもない?」
突如ガレスが立ち上がり、卓上を思いきり薙ぎ払った。大量の羊皮紙が舞い上がり、床へ叩きつけられたインク壺が大きな音を立てて割れ、飛び散ったインキが辺りを真っ黒に汚した。
ルカは呆然としながらガレスを見つめた。
「見えぬものに対して可能性で希望を語るな、この無能が!」
ルカへと怒号を浴びせたガレスが、崩れるようにして再び座する。
「どうしてお前はそうなんだ……どうして……っ」
何もなくなった卓上に寄りかかるように両肘をついたガレスは、組んだ両手で俯いた顔を隠し、そのまま黙り込んでしまった。
失望。
ガレスの姿からありありと滲む感情。ルカは全身が一気に冷えていく気がした。
——違う。
ルカはぐっと拳を握りしめた。
いつもそうだった。ガレスを恐れるあまり、ルカはいつもその場で止まっていた。見ることも、考えることもせず、ただ震えているだけだった。
——僕は多分、何かを見落としている。
激昂したガレスがどうしても通したいのは、調査団のアルド派遣だ。だが、冷静に考えれば考えるほど、これは随分とおかしな話だった。
見抜く力。それだけで勝手の違いを解決できるほど諜報活動は甘くない。ガレスがその程度のことを理解していないはずがない。
それでも派遣したがっている。どうしても。つまり、これは政治的な判断ではなく——
「父上は何かを焦っておられるのですか……?」
ガレスが勢いよく顔を上げた。見開かれた目とぶつかった。ルカはこの時初めて、人間らしく揺れる父親の瞳を見た。
次の瞬間、ガレスは勢いよく立ち上がってルカへと背を向けていた。
「方針は変えぬ。お前はもう口出しをするな」
絞り出すような声。
「……今後、要件は人を介して伝えよ。しばらくは顔を見せるな」
何も言わなくなったガレスの背中を、ルカは黙って見つめた。わずかに上下する背中は、何故か以前よりも少しだけ痩せて見えた。
***
「あ、間違えた……」
ルカは力なく呟いた。小さい声だったはずだが、八角形の壁に反響して思いのほか響いた。
「どうされました?」
棚の埃を払っていたニコがすかさず訊いてくる。しゃがんで石壁に寄りかかっていたカシアンも顔を上げる。机について本を読み込んでいたミラも、二人に次いでルカの方を見やった。
「これ、保管室のだ」
ルカが手元の本を持ち上げてみせた。書庫から持ち込んだ本と古文書保管室にあった本を、取り違えて持ってきてしまっていたのだ。
「珍しい間違いですね」
「少しぼーっとしてたからね」
ルカは言いながら、ガレスとの一幕を思い出して少しだけ気持ちが落ちた。
「返してくるよ、ちょうど調べたいこともあったしね」
大判の表紙を眺めつつそう言ったルカだったが、ここで書籍の違和感に気づいた。
「あ、これ、こんなところに紛れてたのか」
ルカがページの間から取り出したのは一枚の羊皮紙だった。縦に半分裂けていて、書きつけてあるどの文章にも後半部分がない。
「面白いものをお持ちですね」
いつの間にか立ち上がっていたミラが、ルカの手にした羊皮紙を見ながら歩み寄ってきた。ルカが軽く笑う。
「内容も面白いかは定かではありませんが……随分と古い時代のもののようで全く読めないんですよ」
ミラが羊皮紙へさっと目を走らせる。
「古いヴァレンの文字ですか?」言いながら一行目を指差したミラが「あら?」と呟く。
「どうされましたか?」
「こちらはアルドの文字に似ています。でも、やはりかなり古いものですね。ほとんど分かりません」
ミラの指は今度は二行目を指していた。少し考える素振りを見せ、そして口を開く。
「『道』か『路』?」
「え?」
ルカが聞き返した瞬間、カシアンがふらりとやってきて、二人の後ろから羊皮紙を覗き込んだ。
「ヴァレンとアルドって言葉が違うのか? でも、王女は俺たちと同じように喋るよな?」
「話してる言葉は同じなんですけど、使ってる文字は違うんですよ」
ニコが少し離れた場所からカシアンの疑問に答える。ルカが補足的に説明した。
「元々は同じ文字だったんだけどね、商人文化が栄えたヴァレンは、取引や競りの時に手早く書ける筆記文字に変わっていったんだ」
ルカはそう言うと書き物机へと向かった。羽ペンを持つと、適当に重ねられた羊皮紙の切れ端にさらりと文字を書く。ほとんど一筆書きで記される、流れるような文字列。緩やかな曲線やまどかな弧線が美しいヴァレン文字だ。
「これなら俺も読めるな」
いつの間にかルカの肩越しに手元を見下ろしていたカシアンが言った。口元が少し笑っている。
「たくさんの本って書いてある。王子らしいな。帳簿付けで使ってた文字とほぼ一緒だ」
「アルドの文字は線文字ですわ」
ミラがそう言いながら二人の元へとやってくる。ルカが椅子を指し示すのを見て取ったミラは「失礼いたします」と断って静かに腰掛ける。そして、ルカから渡された羽ペンを優雅に持つと、ルカの文字の下に何かを書きつけ始めた。
「建築技術が発展していったアルドの場合は、設計図で視認しやすく、更に石に刻みやすい形へと変化していったのです」
ミラの字はどれもが記号のようであり、小さな絵のようでもあった。一つ一つ独立した文字で、長短様々な直線が組み合わさっている。
「アルドだと、たくさんの本、はこう」
カシアンが「へえ」と面白そうな声を上げた。
「まったく読めねえ」
「アルド文字、なんか可愛いですね〜」
掃除道具を片付けたニコがようやく合流し、ミラの手元を楽しそうに覗き込みながら言った。
ペンを置いたミラが「こうして見ると、全く別の言語のように違いますね」と呟きながら、楽しそうに羊皮紙の文字を追っている。ルカはそんなミラを見て、本ごと抱えていた半分の羊皮紙を見て、そしてもう一度ミラを見た。
「ミラ様、アルドの文字を教えてください」
羊皮紙を囲んで盛り上がっていた三人が一斉にルカを振り返った。きょとんとした様子のミラに、ルカが熱を帯びた声で語り出した。
「ミラ様には破けた羊皮紙の二行目の文字が『道』や『路』に見えるのですよね? 実は、僕にも一行目の文字が同じように読めたんです」
ミラの瞳に驚きの色が広がった。
「翻訳文、ということですか?」
「まだ分かりません。文章は半分以上なくなっていますし、全部あったとしてすぐに読めるとはとても思えないので……ただ、ここで大事なのは同じ羊皮紙の上に二国の文字が記されていたということです」
「この羊皮紙も、繋がりの一つ、ということですね」
ミラの声に力がこもった。ルカが大きく頷いた。
「そうです、アルドとヴァレンを繋ぐ断片です。これを読み解くことで新しい何かが分かるかもしれない。だからこそ、読めないことで諦めたくはない」
「ですが、私が知っているのは今現在のアルド文字だけですわ」
軽く眉を下げたミラを安心させるようにルカは微笑んだ。
「今使われている言葉を習得することで、史料を探す時間が一気に短縮されるんですよ」
途端にミラがふわりと笑った。
「そういうことなら分かりましたわ。手本となる書を何冊か持ってきてもよろしいですか?」
「お願いします」
二人のやり取りをわくわくした顔で見守っていたニコが、ルカとミラの顔を交互に見ながら「もしかして……」と言う。
「ほんとのほんとに国を揺るがす重要書類だったりして……?」
ニコの期待するような物言いにルカが笑う。
「そうなのかな?」
「ますます地下調査が打ち切りになるのが悔やまれますね……!」
悔しげに顔をしかめたニコに、ルカが「実は」と切り出した。
「その件について、もう一度父上に掛け合ってみようと考えているんだ」
ニコが途端に不安そうな顔つきに変わる。
「大丈夫ですか?」
「もう少し話がしたいと思っていて」
そう言ったルカが、声を潜めながら大事そうに付け足した。
「今日、僕は初めて父上を知れた気がするんだ。本当に少しだけだけどね」
ルカが地下の件をガレスに話すことはなかった。
ガレス崩御の知らせがルカの元へ飛び込んできたのは、翌日の朝のことだった。




