18章 刻痕
夜の書庫には、やはりカシアンがいた。
丈長外套の上に寝転んで、明かり取りを見上げていた。今夜も月明かりがたっぷりと差し込んでいて、空間は思いのほか明るい。
「何だよ」
まるで自室に入られたかのような態度に思わずルカは笑った。
「ごめん、読みたい本があって」
言いながら本の山を避けて慎重に進む。闇に溶けた石床に、月に照らされた羊皮紙が白く浮かび上がっていた。
「体調は?」
ルカの問いにカシアンが少しだけ肩をすくめた。
「別に何とも……と言いたいとこだが、ちょっとまずいな。しばらく時間移動は無理だ。特に今回みたいな長距離のものはな」
「そうなんだ……」
ルカの声にカシアンが申し訳なさそうな顔をした。
「もしかしてまだ見てえもんがあったのか?」
「そうじゃないよ」
ルカは首を振った。カシアンはいつの間にか体を起こしてあぐらをかいていた。どうやら、ルカがどんな本を選ぶのかに興味があるようで、楽しそうな目線を寄こしている。
ルカはカシアンから少し距離を取って、その場へと腰を下ろした。ルカの背を支える石壁は今夜も冷えていた。
「王子?」
「——カシアンはどこから来たの?」
返事がない。ルカの目はカシアンを見ない。代わりに、明かり取りから小さく覗く夜空を見ていた。
「……見ただろ」
「うん」
積もっていた小さな疑問は全て、あの時の光景で全て解けていた。
「カシアンは、あの時代のヴァレンから来たんだね」
無言は肯定の意味だろう。
「理由、訊かないんだな」
やがてカシアンがぼそりと言った。
「訊いてほしい?」
ルカの静かな声に、カシアンの気配がわずかに揺れた。
「いや、ほしくねえ」
そうだろうな、とルカは思った。
戦争の話を忌み嫌い、極度に恐れる態度。地下で見せた怒りと絶望。
恐らくカシアンは崩城戦争を知っている。
失われる前を生きて、失う瞬間を経験した人間に、何故ここにいるのかと問えるはずがなかった。
「侍医には見てもらった?」
ルカが突然話題を変えたからか、カシアンが戸惑った声を上げた。
「え? あ、ああ」
「問題はないって?」
「そうだな、至って健康」
「よかった」
ルカは言葉を続ける。
「もう少ししたら秋の祭りが始まる。冬前にはオリーブオイルの試食会があって、年越しの夜は運河にあかりを灯す。忙しくて、楽しくて、倒れてるのは勿体ないからね」
ルカはこれから先の話をした。カシアンはここで新たな日常を過ごす。途切れた未来は、ここで繋ぎ直せばいい。
「……こき使われる未来しか見えねえな」
カシアンの物言いにルカは笑う。カシアンを見ると、左の口元をぐいっと引き上げていた。昔の彼は大口を開けて笑っていたな。ルカはふと思い出したが、静かに目を伏せることで記憶の片隅へと追いやった。
「そうだ、本読みたいんだった」
立ち上がったルカを見上げてカシアンが言う。
「何、読みに来たんだよ」
「『再生記』」
ルカの言葉にカシアンが黙り込んだ。ルカは奥の棚へと歩み寄り、一冊の本に手を伸ばす。慣れた手つきでページを開くと、細く小さな銀片を外す。薄靄のような光が、今もなお黒々と残る筆致を照らしていた。
『人は先の戦を崩城戦争と呼ぶ。確かに都は焼け、城は落ちた。だが、我が国が最も失ったものは民であった。あまりにも多くの命がこの地を去った。ゆえに私は、あの戦を「亡民戦争」と記す。』
ルカがこの文章を昔から好きだった理由は、平坦で事務的な文章が続く復興録の中で、唯一ここだけは灰王の感情が滲んでいるからだった。
長い間ずっと、このくだりは灰王が民を見ているからこそ零れ出たものだと思っていた。民を襲った悲劇を民のために嘆き悲しんでいるのだと。
だが、今のルカには全く違うものに見えてくる。
『本当は、自分が気を抜いたことで何かを見落としてしまうのが恐ろしいんだ』
ルカの前で震えた灰王の背中が、戦後に背負ったもの。それは、とてつもなく大きな罪悪感だった。
ルカは『再生記』を閉じた。
「カシアン」
振り返ると、緊張を帯びたカシアンと目が合った。ルカは静かに告げた。
「ついてきてほしい場所があるんだ」
***
世界は赤く染まっていた。
暮れる空にたなびく雲が、冷たい風に流れては消えていく。オリーブの葉がぶつかり合う音を聞きながら、ルカは壊れた石壁の影が黒く伸びるのを眺めていた。
「殿下、案内を」
隊長が先に立とうとするのをルカが制する。
「いい。僕とカシアンだけで行かせてくれ」
ルカの言葉に何かを悟った隊長が「失礼」と言って中へと入っていく。しばらくして、調査を続けていた団員が全員引き揚げてきた。
「明るさは十分確保されていますが、足元に水が残っている場合がございます。お気をつけて」
隊長の忠告に「ありがとう」と一言返したルカは、少し離れたところに立っていたカシアンを振り返った。
「行こう」
「……」
カシアンは気が進まないらしかった。無理もない。ルカもできれば、もう二度と訪れたくない場所の一つだった。
二人は無言のまま硬い土の床を踏んで中へと進んでいく。煉瓦の壁はすっかり取り払われていた。油皿が置かれた階段を踏みしめるように降りていき、広い空間へと降り立った。至るところに光源の油皿が置いてあり、かなり明るい。
「カシアン」
ルカは後ろをついてくるカシアンを見やった。居心地悪そうな表情で歩くカシアンと目が合ったルカは、安心させるように軽く笑いかけた。石柱に動く二人の影が映っては消え、そして、彼らは保管庫のある場所へとたどり着いた。
「この先に通路がある。そこに木箱があったんだ。灰王が全ての資料を入れてここに置いた」
「隠すためだろ」
「……なんで隠したと思う?」
ルカの問いにカシアンは答えない。ルカは保管庫を通り過ぎる。
「僕は怒りで分からなくなっていた。本当に消し去りたいなら、こんな面倒なことをしなくても、ただ燃やせばよかったんだ。——だけど、そうしなかった」
厳重に封じられた木箱。今ならば思うのだ。あれは執念ではなかったかと。
保管庫の空間を抜けた二人の前には、石造りの通路があった。天井は低くなり幅も狭い。壁のあちこちに立てかけられた松明の火が、ルカたちが通り過ぎるのに合わせて揺れた。
ふいにルカが足を止めた。
「木箱が置かれていた場所の近くで見つかったんだよ」
ルカが湿った石壁に触れる。赤い火に照らされて浮かび上がる荒い石面。そっと置かれた手の、指先が示すもの。
『忘れるな』
たった一言。
石の壁に、傷跡のように残る言葉。弱々しい線。消えそうに薄くて、途切れている箇所もある。
残した人も、残した時代も、まだ分からないと隊長は言った。けれど、ルカにはもう分かっていた。
これは、あの人の言葉だと。
「これを……あいつが……?」
カシアンもそう呟いたきり黙ってしまう。
「そうだよ。この場所を知り、この場所を隠したのは、彼なんだから」
自分の無知が多くを死なせたという事実は、ヴァレン復興の象徴として人々の前に立ち続ける灰王をどんなに責め苛んだことだろう。けれど、誰にも言えなかった。
「『再生記』は復興記録であると同時に、ヴァレンのこれまでのイメージを覆す大きな契機となったんだ」
小さく弱い国から、明るく、逞しく、豊かなヴァレンへ。
「自分の過去が露呈して『再生記』が信頼を失えば、ヴァレンそのものの価値が揺らいでしまう。それは、諸国乱立の時代に滅亡という現実と戦い続けてきた灰王にとっては耐えがたいことだっただろうね」
ルカには見える気がするのだ。全てをこの地下へと隠した日、あの震える背中が、硬い石を必死に削っていた姿が。
頼むから、今は誰も見つけないでくれ。
ただ、いつか誰かが必ず見つけてくれ。
どうか。どうか。
灰王はきっと、生涯忘れなかった。
がらんどうの、誰もいない、誰かのためだったはずの空間を。
「そうか……」
カシアンの小さな声。その眼差しは、刻まれた弱々しい文字をひたすらに見つめていた。




