17章 往日
春風が吹いている。
そのことに気づいたのは、市場を忙しなく飛び交うツバメを見つけたからだ。
カシアンがどこかから調達してきたマントを羽織り、ルカたちは通りを歩いていた。色褪せた布地が二人を風景に馴染ませる。すれ違う人々は彼らという異質に気づくことなく日常を送っていた。
「大丈夫か?」
隣から小さな声が聞こえた。カシアンだ。ルカは少し考え、そっと訊いた。
「カシアンこそ大丈夫?」
「……分からねえ」
カシアンが呟いた。
「許せねえんだよ。大事なもんをあんな風に放っておいて、知らねえままで、しまいには隠しやがった。許せねえけど……でも……」
カシアンはここで言葉を止めた。ルカはカシアンを見た。何かに耐えているような、本当に苦しそうな顔をしていた。
「——ちょいとごめんよ!」
荷を担いでいた男性がルカのすぐ横を軽快にすり抜けていった。
「おやっさん、いつものちょうだい!」
「はいよ!」
「たまには負けてよね!」
楽しげなやり取りが屋台のあちこちから聞こえてくる。
「オレんちの軒にツバメが来てんだ!」
「行こうぜ!」
周りも見ずに駆け出す子供たち。危ないと怒鳴る大人。まあまあと宥める老人。泣いている赤子の声をかき消すように、市場の一角で笑い声がどっと沸く。風に乗って流れてくるのは、上機嫌な歌声。一人だけ調子が外れている。
ここは、間違いなく人々の生活の場だった。
立ち並ぶ屋台に、途切れることのない喧騒。岸に繋がれた川舟の中には、まだ濡れている櫂。川向こうに密集する小さな木造の建物と、風にひらめく洗濯物。この時代を生きる人々の息づかいが、鮮やかな風景となってルカの目の前に広がっていた。
こみ上げるやるせなさに、ルカはうつむいた。転がる壊れた木桶にすら誰かの気配があって、もはや砂の地面を凝視するしかなかった。
ルカは知っている。
この場所がやがては消えてしまうことを。
そして、ここにいる人たちも。
「カシーッ!」
その時、子供たちの大声がした。思わずルカは顔を上げた。カシ。誰かを呼んでいる。
ふと、視界の中を見慣れたものがひらめいた。丈長外套。肩の落ち方も、布の重みも、今とはまるで違う。まるで昔の河川商人が羽織るような。
「おまえら、押すなって! 肩車は順番だからな! ほら並べって!」
二人から少し離れた場所。たくさんの子供たちに囲まれた青年。
口を大きく開けて、楽しそうに――本当に楽しそうに笑う、横顔。
「あ……」
ルカは思わず声に出していた。視線に気づいた青年がゆっくりとこちらを向く――
突如ルカは腕を掴まれた。そのまま強引に引っ張られて市場を走る。
「カシアン!」
「くそっ!」
吐き捨てたカシアンが建物と建物の隙間へと倒れ込む。腕を掴まれ続けていたルカも一緒に倒れた。カシアンは必死の形相で隠しを探すと、取り出した銀片を強く握り込む。
「カシアン!」
慌てて起き上がったルカがカシアンを揺さぶった。真っ青な顔と脂汗。ルカの背筋に冷たいものが走る。ようやくカシアンと目が合った。激しく目を泳がせていたカシアンが、ルカを見るなり大きく息を呑む。
「来い……っ!」
カシアンの叫びが、市場の喧騒が、まるで水の中に飛び込んだように一気に遠ざかった。
「——殿下!!」
こちらを覗き込むニコと目が合った。その表情がくしゃりと歪んだ。
ルカは勢いよく起き上がった。石壁。棚。本。書庫だ。ルカは元いた時代に戻っていた。
「カシアンさん!」
ニコの悲鳴にはっとして声の方を見た。その瞬間に戦慄が走った。
カシアンがうつ伏せのまま倒れていた。ニコが必死に揺さぶるが、目を覚ます気配は全くない。冷たい石畳に押しつけられた顔は真っ白だった。
***
すげえ眠かった。
そう言ったカシアンだったが、思いきり不満顔のニコに根負けしたように頭を下げた。
「心配かけて悪かったな」
「だから危ないって言ったじゃないですか」
つんけんした声。カシアンが弱ったように眉を下げた。
「分かったから……でも、今回は本当に事故みたいなもんで、王子には全く影響ねえから平気——」
「馬鹿なんですか!? カシアンさんのことも心配したに決まってるでしょうが!」
直球の罵倒と気遣いの言葉という両極端なものを同時にぶつけられたカシアンが、呆気に取られた顔になった。
「とりあえず、しっかり先生に診てもらってくださいね。僕が話は通しておきますので」
きっぱりと言ったニコは、さっさと書庫を出て行ってしまった。
「先生って?」
カシアンの疑問の声にルカが「侍医、つまりお医者さんだよ」と答えると、カシアンがげんなりした顔になった。
「もう何ともねえのに」
「ニコを安心させるためにも行くべきですわ」
ここでミラが口を挟んだ。
「しばらく目が覚めなかったのは事実なのですから」
「……分かった」
カシアンは決まり悪そうに返事をすると、ルカのほうを見やる。
「ニコはどこ行ったんだよ」
「ニコのことだから、すぐにでも侍医の予定を確認してくれてると思うよ。ここに戻ってくるはずだから待ってもらえるかな? 僕が政務室へ向かったことも伝えてほしい」
カシアンは無言のまま頷き、壁際に適当に腰を下ろして待ちの姿勢になった。ルカがミラへと向き直る。
「ミラ様、良ければ東棟まで送らせてください」
「光栄ですわ」
廊下には、中庭から風に乗ってきた枯れ葉があちこちに落ちていた。静かに待機していたミラの侍女が、ルカたちに向かって深々とお辞儀をすると、歩き出した二人の後ろを静かについてきた。
「殿下、何かを得ることはできたのですか?」
侍女の存在があるからか、ミラにしては随分と曖昧な聞き方をしてきた。
「余計に分からなくなってしまいました」
ルカは正直に答えた。
「僕はずっと怒っていたはずなんです。でも、気づけば怒れなくなってしまった。今はどういう気持ちでいるのが正解なのか全然分からないんです」
一行は東棟の渡り廊下まで来ていた。ルカがミラから一歩離れ、軽く礼をした。
「ご心配をおかけしました。大したご報告ができず心苦しいばかりです」
ルカの言葉にミラがふわりと笑った。意外な反応にルカは目を見開いた。
「分かるまではきっと時間がかかりますし、それは決して悪いことではありませんわ。——殿下」
ミラが物静かながら力強い眼差しをルカへと向けた。ルカは引きつけられるようにしてミラの瞳を見つめた。
「その場に立ち、その目で見て、その心で感じ、今悩まれている。殿下の真摯さに感服いたします。あなたが私に笑ってほしいと仰ったように、私はあなたにそう在り続けてほしいと、心から願っております」
「……はい」
ルカは突然告げられた敬意に内心焦り、たった一言しか返せなかった。だが、ミラはそれで満足したようだった。目元に微笑みを残したまま踵を返すと、いつもの綺麗な姿勢で優雅に遠ざかっていった。
正直、ルカはその後の自分の足取りを大して覚えていない。気づけば政務室の椅子に座っていた。脳裏にはミラの眼差しがあった。
「——殿下」
ふいに呼ばれて、ルカは慌てて居住まいを正した。
「隊長」
いつの間にか入り口に佇んでいた隊長が、いつものように格式張った礼をする。
「例の地下の件でご報告が」
そして、隊長から告げられた内容に、ルカはしばらく動けなかった。




