16章 焦燥
八角形の壁。高い位置にある明かり取り。
ルカは見慣れた書庫の天井を見上げていた。
背中に石畳の硬さを感じたルカの頭が一気に冴える。慌てて起き上がった瞬間に、脳を貫くような痛みが走った。思わず唸ると意外なほど近くから声が聞こえてきた。
「大丈夫か?」
「カシアン……」
「遠距離移動、お疲れさん」
カシアンは石畳に両足を放り出して座っていた。心なし顔色が悪い。
「さすがにふらつくな。誰も来ねえようなら、しばらくここにいようぜ」
ルカは小さく頷いて、ゆっくりと辺りを確認した。
ルカの時代に大量の書籍を抱えている石造りのこの場所は今、雑多なものを詰め込めるだけ詰めておく倉庫として使われているらしい。様々な日用品や道具、布類、紙類、調度品……至るところに物が溢れている。
「城の中っていうのはどの時代も整理が行き届いてねえものなんだな」
カシアンの遠慮のない言葉にルカが「耳が痛いね」と苦笑した。
「王子、とりあえずどこに飛べたのか確認しときてえんだ。遠すぎたからな、自信がねえ」
カシアンの言葉に、ルカが視線を動かして手がかりを探す。ふと視界に入ったのは、黒い影。背の高い家具の背面のようだ。ルカは近くにあった椅子を頼りに立ち上がると、そろそろと歩いて目的のものへと近づいていく。
「本棚だ……」
それはルカよりも随分と背の高い本棚だった。全ての棚に大小様々な書物が隙間なく詰め込まれていた。たくさんの埃が積もり、あちこちに蜘蛛の巣がかかっている。
ルカの目は一冊の本に吸い寄せられていた。他よりもずっと分厚い。例えば——革袋から出てきた記録簿のように。
ルカは衝動的に厚い背表紙を掴んでいた。思いきり引き出したせいで埃が立ち、隣り合っていた数冊の本が次々に落ちてしまった。カシアンが驚いたように「王子?」と声を上げる。
「なんだよ急に」
「ここにあったんだ……こんな状態で……」
それは間違いなく地下避難所の記録簿だった。ふと視線を落とすと、ルカの足元に落ちた冊子が何冊か開いていた。そこには避難所の経路図のようなものが書いてある。あるいは、保管庫の適切な使い方について図示されている。
理性で抑え込んでいた黒い感情が一気に噴き出した気がした。ルカはとっさに奥歯をぎゅっと噛みしめることで、体中をのた打つように駆け巡る激情を抑え込んだ。
「それ、何だよ」
「避難所の資料だよ」
ルカの言葉にカシアンの顔が強張った。埃まみれのそれらが意味するところを察したらしかった。
「……手がかりなら外で探そうぜ。こんなもん、見たくねえ」
逃げるように出ていったカシアンに続くようにして、ルカは石造りの建物を後にした。頭痛は次々に沸き上がる黒い熱で紛れていた。
外に出ると目の前に広がっていた光景に、ルカは思わず息をのんだ。
風が吹くたびに砂煙が立つ広大な土地。
外郭は見上げるほど高い木柵で覆われ、敷地内にはぽつりぽつりと木造の平屋が点在する。板を貼り合わせただけの無骨な外壁と厚い茅葺屋根。屋根に空いた穴からは煙が立っている。
離れた場所には厩があり、どうやら井戸もあるようだ。
石造りの建物に最も近い場所にある木造建物だけは背が高かった。二階建てのようだ。板張りの外壁は、他の建物と違って石灰で丁寧に白塗りされている。
「偉い奴がいるとしたらここだろ」
扉の影に隠れて辺りを見回していたカシアンが、ひときわ大きなその建物を示す。
「ここだけ出入り口に見張りが立ってる」
「見張りか……どうしよう……」
ルカが呟くか否かのところでカシアンがルカの腕をぐっと掴んだ。音が一瞬消える。思わず瞬きをする。
——ルカは小さな部屋にいた。
「え……?」
急いで辺りを見回すと、すぐそばに立っていたカシアンと目が合った。
「まあ、応用すればこういう使い方もできる」
カシアンは涼しげな顔でそう言って、きょろきょろと周囲を探り始めた。
政務室のようだとルカは思った。
作業用の大きな机が一つ。その向こうに椅子が一つ。卓上には作業途中の書き物が置いてあり、その周りには資料やら帳簿やらがうず高く積まれている。床にはぎりぎりまで使われた蝋燭の残りや、葦ペンのペン先の欠片が大量に落ちていた。
多忙。
その一言が漂う空気に滲み出ているような空間だった。
「父上! 一体何を考えておられるのですか!」
突如、怒声が聞こえてルカとカシアンは固まった。この部屋の外から聞こえたようだった。
「今、国境の兵を引き上げて運河の監視をさせるわけには参りません! 兵站の予算を運河の拡張費に充てたために、ただでさえ我が国の兵力は疲弊しているのです!」
隣室を覗くと、ルカたちに背を向ける形で佇み、必死に叫んでいる男性がいた。臙脂のケープ。王族だ。声の感じからルカたちよりずっと年上だと思われた。
「数年前と比べて国境沿いでの小競り合いは確実に減っている。それは、この地方における我が国の地位が向上し、他国の我が国を見る目が変化してきている証に他ならない。ならば今は、ヴァレンという国をより良き方向に変えていくことこそ肝要だろう」
もう一人の声が聞こえてきた。立っている男性の向こうに重そうな木の机が見えた。そこに座して構えているのは随分と老齢の男性だった。こちらも臙脂のケープを身に纏っている。時の王だとルカはすぐに悟った。
「ですが!」
「ダリオン」
国王が宥めるような声を出した。ルカは確信した。先ほどから怒声を上げている男性こそ灰王だ。ルカがカシアンにもそのことを告げると、カシアンの形相が途端に険しくなった。室内の会話は続いている。
「ヴァレンは軍事国家ではない。武器を生む技術も買いつける予算もない我が国は、国境にいくら兵を固めようと、他国にとって吹けば飛ぶ塵であることに変わりはない」
「しかし……っ」
尚も食い下がろうとする灰王を、国王が静かに手を上げて制した。興奮しきりの灰王に対して、国王は始終穏やかな態度だった。
「今は運河の運営こそ最優先にすべきだ。商流の要として名が知られ始めている我が国の付加価値を、より一層高めていく必要がある」
それに対して再び灰王が噛みついた。
「運河の運営についても商会頭から意見が上がっております。外国の船舶を優先するあまり我が国の商人が干上がっていると」
「私が即位してから今日まで、無価値という烙印を押された国は次々に滅ぼされていった。ヴァレンのような弱き国は、他国にこそ必要とされなければこの地に生き残ることは難しい。ある程度の優遇は致し方ないだろう」
「民を見ぬやり方が正しいはずがありません! 仮に運河の運営を優先させるのであれば、それは我が国の民にも益のあるものでなければなりません!」
灰王の渾身の叫びにルカは息をのんだ。ルカの知っている灰王がすぐそこにいた気がしたからだ。
「国は民を守る囲いのようなもの。すぐに腐り落ちる木の柵を決して揺るがぬ石塀にしてから、改めて民に目を向けても遅くはない。最も恐ろしいのは、この囲いが失われ、民が数多の刃に晒されてしまうことだ」
重々しい声で言いきった国王は、深いため息をつきながら椅子の背へもたれかかった。灰王が途端に怯んだ。
「父上、お加減は……」
「しばらくここを任せて良いか? 少し眠りたい」
「相変わらず夜は寝付けないのですか……?」
「何、年をとれば自ずとそうなってくるものだ。夜は静かだ、積み残した仕事を片付けるのにちょうどいい」
国王はそう言い残すと、両の手で机に縋るようにして立ち上がり、近侍に抱えられながら部屋を出ていった。その姿を無言のまま見送った灰王が、一人になった瞬間に深く長い息を吐き出す。
「すまない、少し目眩がするんだ、薬を煎じてほしい」
「殿下もあまり休まれていないようですが……」
控えていた従者が駆け寄りながら灰王へ問いかける。
「父上が弱ってから日々の業務が滞っているのだ。私が休むわけにはいかない」
ここで灰王は乾いた笑いを漏らした。ルカの目の前で彼の背中が震えた。
「本当は、自分が気を抜いたことで何かを見落としてしまうのが恐ろしいんだ。政の過失は、民の命に関わる大きな厄災をもたらしてしまう。——この国は少しでも弱みを見せたら終わるのだから」
灰王の言葉が、重くルカの心にのしかかる。
崩城戦争以前、ヴァレンは今よりもずっと小さく、ずっと弱い国だった。運河という恩恵を他国へ分け与えることでようやく命を繋いでいた。明日滅びるかもしれないという危機感は、ルカの時代とは比べ物にならないほど深刻だっただろう。
隣の部屋も、ルカたちがいる部屋とあまり変わりはなかった。大量の資料。台帳。壁にまで貼られた書きつけ類。印のついた地図が数枚。ひたすらに荒れ果て、整うことのない空間。
——今を守るのに精一杯だった。
ルカは、あまりにも酷な現実を目の当たりにしていた。
時の王も、そして灰王も、過去を蔑ろにしたわけではない。民のことを考えなかったわけではない。ただ、歴史を通じて先人の残したものを学ぶなど、そんな時間や余裕はどこにもなかった。
そうやって途切れていったものも、この世界にはあるのだ。
ルカは何も言えなかった。おのれの内側でくすぶり続けていた黒い炎はずっと小さくなっていた。代わりに残ったのは、どこにも逃げ場のない苦しさだけだった。




