15章 東屋
早朝の空気は以前よりもわずかに冷え、そっと触れた石の壁には夜の涼しさが残っている。
まだ薄暗い書庫にはカシアンがいた。壁に寄りかかって腕を組み、待ち構えるように入り口を見つめていた。ルカは何となくそうだろうと予感していた。だからこそ、この場所に来たのだった。
カシアンはルカと目が合うなりこう言った。
「見に行く必要があるだろ」
怒りの滲んだ声。
「あんたの言ってることが本当かどうかを」
ルカが大きく頷いた。
「行こう。灰王がいる時代に」
ルカは、昨晩はほとんど眠れなかった。目をつぶるたびにがらんどうの地下空間が脳裏に浮かんで消えないのだ。カシアンもそれは同じだったらしく、険しい目元にはうっすらと隈ができている。
「……本当に行かれるんですか?」
ニコが背後から言ってきた。かなり不機嫌そうな声だ。
「前にも、昨晩も、僕は止めましたよね?」
「ニコは黙ってろ」
カシアンのぶっきらぼうな声にニコがカチンときたように声を荒げる。
「この状況で黙るわけないでしょう。まるで無関係みたいな言い方はやめてくださいよ」
「移動しないなら無関係だろうが」
カシアンが突き放した。
「カシアン」
ルカの声がわずかに尖る。
「無関係ではないよ、僕たちの留守を預かってくれるのはいつもニコの役目だ」
「その留守や準備に不満があるから文句言うんだろ、だったら王子がいない間は自由にすればいい」
「それはカシアンが決めることじゃない」
「じゃああんたが決めてやれよ、のびのびやれってな。行きもしねえ人間に邪魔されんのはかなわねえよ」
「――心配するこっちの身にもなれよ!!」
突然ニコが怒鳴った。
水を打ったように場が静まり返る。ルカも、カシアンも、ニコを見つめたまま固まっている。
ニコが二人へ鋭い目を向けて睨みつけていた。ニコがここまで激情をむき出しにした姿を、ルカはこれまで一度も見たことがなかった。
「灰王の時代に行く……? 一体何百年前の話をしてるんだよ……? 無事に戻れる保証なんてどこにもないのに……!!」
怒気をはらんだ声にカシアンが口を開く。
「だから俺が――」
「もし帰ってこれたとして体は!? この間なんか三日かけてボロボロになっていった! 数ヶ月前に飛んでああなったのに今度は二百年前!? あり得ない……っ」
吐き捨てたニコが顔をくしゃりと歪めた。
「待ってるこっちはどうしようもできない、戻ってきても何もしてやれない、そのうち本当にどうにかなっちゃったら――……」
ニコがルカを見た。その瞳がぐらりと大きく揺れた。
「見送った側は一生立ち直れない……」
苦しげに囁いたニコがルカから視線を逸らし、二人へと背中を向けた。その肩が大きく上下している。震えるような息づかいが聞こえた。
ルカはようやく気づいた。ニコもルカと同じように誰かを――エリオを喪った側の人間だ。
「ニコ……」
ルカが名前を呼んだその瞬間、遠慮がちなノックの音がした。小さなため息をついたニコが無言で部屋を横切って、ノックをした人物の元へと急ぐ。声を抑えたやり取りがしばらく聞こえ、ニコが疲れたような顔で案内したのはミラだった。
「朝早くから申し訳ありません。殿下もニコもお姿を見せなかったので、こちらかと思いまして」
「どうされたのですか……?」
意外な人物の登場に思わず声が出ていたルカに、ミラが苦笑を漏らす。
「お聞きしたいのはこちらの方ですわ。昨晩はあなた方全員の様子がおかしかったのですから」そしてちらりとニコを見やる。「ニコは曖昧なことを言って私を追い返そうといたしますしね。ちっともニコらしくありません」
ニコはミラから静かに顔を背けた。が、ふと思いついた様子で顔を上げる。そして、乞うような目でミラへと一歩詰め寄ると、その場で勢いよく片膝をついた。
「ミラ王女殿下、無礼を承知の上でお願い申し上げます! ルカ殿下とカシアンをお止めください!」
「え……?」
「ニコ!?」
ルカの声にもニコは黙らない。
「二人して大変な危険を冒そうとしています! 止めないと危ないんです! お願いします! もう僕じゃどうしようもなくて……お願いします……っ」
ミラへと頑なに頭を垂れ続けるニコを、皆が息を詰めて見つめていた。戸惑いを顔に張りつけていたミラが意を決したように口を開く。
「ニコのこのような姿を私は初めて目にしているのですが……」
ミラの瞳がルカとカシアンを交互に見た。すっと伸びた背筋と真っ直ぐな眼差し。嘘や誤魔化しは一切通用しないと、その視線に通告されているような気がしてくる。
「お二人は一体、何を目論んでいるのですか?」
ルカとカシアンはおずおずと目を合わせた。
「……言うしかねえだろ」
「いいの?」
「よかねえよ。けど仕方ねえだろ……」
ミラを疑い半分、怖さ半分といった目で見つめるカシアン。ミラへと向き直ったルカが探り探り話し出す。
「最初から説明すると話が長くなるのですが……」
「殿下がそれでよろしいのなら構いません」
退路を断たれたルカは、今の状況やカシアンの能力について、言葉を選びながら説明した。ミラは話を聞いている間、ひと言も言葉を挟まなかったが、その瞳の動きや息づかいから、かなりの衝撃を受けていることがルカにも伝わってきた。
「……あまりのことに何からお話していいものか……」
全てを聞き終えたミラがぽつりとそう言った。如才なさげに胸の上で両手を重ね、ぎゅっと瞼を閉じる。しばらくそうやって気持ちや頭の整理をつけたのか、彼女が次に目を開いた時には、その瞳の奥に強さがしっかり戻ってきていた。
「率直なことを申し上げますと、ニコの気持ちは理解できます。あれほどまでに必死になるのは当たり前のことですわ。これまでたった一人で留守を預かってきたニコの勇気と献身は、他の人間には耐えがたい大変尊いものだと私は思います」
自分の名前が出てきたことにニコがびくついた。しばらく休むようにとミラに言われたニコは、一同に背中を向ける形で傍らの椅子へと腰かけて、体側を石壁にだらしなく預けてしまっている。
「ただ——」
ミラの声のトーンが落ちる。
「殿下の仰ったことが真実だとすると、それはヴァレンの国家観や歴史観を大きく揺るがす一大事、できることなら我が目で見て確かめたいと切望する気持ちは、為政者の見習いとしてとてもよく分かります。ましてや、それを実際に行える特殊な力を得ているのだから」
ミラはそして、ニコの背中へと真っ直ぐに向き合った。
「ニコ、もし私なら……もしも私が、黙されていた祖国の大きな過ちを知って、その場を確かめる術を得たとしたら……行ってしまうかもしれない……ごめんなさい……」
書庫は静けさに包まれた。だいぶ日が昇ってきていることが、明かり取りの向こうに見える空の白さで分かった。薄ぼんやりと柔らかに光る空間に、やがて小さな衣擦れの音が響いた。
「こっち来ないでください」
ニコの低い声。
「ニコ」
カシアンが座りっぱなしのニコを見下ろしていた。
「あっち行ってください」
拒絶の言葉に怯むことなく、カシアンはニコの前へとしゃがみ込む。そして、ニコの様子を窺いながらぽつりぽつりと話し出した。
「俺の力にはさ、元いた時代のことが少しずつ薄れちまうって欠点があるんだ。これに関しちゃ王子には関係ねえよ。能力を持って、そんで使ってきた俺だけの問題だ」
カシアンの手が隠しへと伸びる。カシアンの広げた手のひらには木印と銀片が転がっていた。
「だから俺は目印を持ち歩く。出発点と到着点を忘れねえように」
手のひらのものを見て、痛みを堪えるように目を細めたカシアンが、再びニコを見上げる。
「だけどな、時には目印よりずっと強いもんがあるんだよ」
カシアンの視線がここで一瞬だけルカへと向けられて、そして戻っていった。
「俺にとっちゃこの場所は王子やニコなんだ」
楽しそうな声。
「あっちに王子を連れてって、こっちのニコの元に必ず帰す。驚くことにな、そういう意識があるだけで力はちゃんと応えてくれるんだぜ」
カシアンが手のひらのものを隠しに戻すと、居心地悪そうに頭をかいた。
「……わりいな。王子が帰ってくる場所なのに、ニコが無関係なはずないんだよな」
ニコは返事をしなかった。だが、それ以上カシアンを追い払うこともしなかった。
***
中庭も気づけば秋の気配がそこここにあった。
夏野菜の収穫は終わり、均された土には乾いた茎だけが残っている。太陽の下で鮮やかな緑色に輝いていた草葉が、少しくたびれて黄みを帯び始めた。
「どこへ行かれるんですか」
ニコが訊いてくる。心なし、いつもより声が硬い。
「内緒」
ルカはそんなニコを振り返ると、目的の場所へと急いだ。
「ここだよ」
「わ……」
ニコが立ち止まった。
中庭の片隅にある煉瓦造のガゼボだった。
幼い二人の集合場所であり、遊び場であり、誰にも教えたくない秘密のスポット。以前訪れた時にかなり汚れて傷んでいたのを、ルカが内々に手入れさせていたのだ。
「まだ残ってたんですね〜!」
弾む声でそう言ったニコが、中へと入りながら「わ〜、記憶より小さい!」とはしゃぐ。
「懐かしいよね。城のみんなに忘れられて長いこと放置されてしまったけど、こうやって手入れすればまだ全然使えるんだ」
「当時から忘れ去られてましたよ。だから僕らが好きにできたんですもん」
ニコに続いて中へと入ったルカに、先にベンチに座っていたニコがいたずらそうな顔つきで言う。ルカは見違えるほど綺麗になったガゼボの中を見回した。
「昼間も薄暗くて人が近づかないからね。僕は父上から隠れてここで散々泣いた」
「僕は苦手な勉強を怠けられるだけ怠けましたね、絶対に見つからなかったんで」
お互いに子供時代のかわいい罪を告白して、二人して笑う。
「いつの間にか来なくなっちゃったな……」
「忙しくなりましたもんね」
向かい合ってベンチに腰掛けた二人が、煉瓦柱越しの景色を眺めながらぽつりと言葉を漏らす。
「懐かしいな……」
ニコは囁いたきり黙り込んでしまった。もう会えない人を記憶の中で追いかけている、そんな目をしている。
ルカの側近として教育を受けてきたニコだが、一時期エリオの付き人をしていたことがあった。たった一年でルカの元へと帰ってきたのは、エリオが旅立ってしまったからだ。
『お水、間に合わなかったんですよ』
ニコが一度だけルカに呟いたことがある。一杯の水を頼まれて、戻ってきたら息を引き取っていたのだという。
『水も飲まないで、苦しかったろうな』
それきりニコからエリオの話が出たことはない。ただ、ルカのそばへ戻ってきたニコは、前よりもずっと世話焼きになっていた。
「……ニコ、ごめん」
やがて、ルカはニコへと真っ直ぐに体を向け、真剣な声で言った。
「僕はニコに対して残酷なことをしていたんだ。能力があって、人柄が良くて、心が強い。エリオ兄様と全然違うけど、エリオ兄様みたいに完璧な人だって思い込んで、ずっと甘えっぱなしで無茶をさせていた」
ルカがそっと俯いた。
「どんなに凄い人だって心が傷つかないことなんてないのに。僕はそんなことも忘れて、ニコの気持ちを考えることを怠ってしまった」
そう言ってルカが正面に座るニコへと深々と頭を下げる。沈黙。長すぎるニコの無言に耐えかねてルカがそろそろと視線を上げると、あんぐりと口を開けたニコと目が合った。
「……僕のこと、そんな完全無欠に見えてたんですか? そりゃ無茶振りもされるわけだ……」
合点が入った、とばかりの呟き。
「本当にごめん……」
ルカの情けない声にニコが笑い出した。笑いがひとしきり収まってから、ニコがおもむろに切り出した。
「覚えてますか? ルカ殿下が僕に灰王の話をしたの、この場所が初めてなんですよ」
「そうだっけ?」
「そうですよ。いつも物静かな殿下が大興奮しながら喋ってたのを見て、僕びっくりしたんですもん」
笑いながらそう言ったニコが、その表情をすっと引き締める。ルカも思わず姿勢を正した。
「……正直、怖いですよ。二百年離れた場所に行って帰ってくる。それをひたすら待つ。でも、殿下の見たいものは多分、そこにしか無いんですよね」
ニコが一瞬口を閉ざし、僕も、と躊躇いがちに続けた。
「灰王が一体、どんな気持ちであの地下空間に立って、どんな気持ちで出来上がった煉瓦壁を見つめたのか、興味はあるんです。遺構や記録は見つかっても、心はどこにも残らないから」
心は残らない。
ルカが確かめたかったのは、まさにそこだった。
歴史が決して語らないこと。
それは、その時代を生きた人々の姿そのものだ。どんな風に笑い、どんな風に泣き、何を背負い、何を手放したのか。復興の王と呼ばれた歴史上の偉人ではなく、灰王その人自身を見てみたいと、ルカは今はっきりと思っていた。
「僕は多分、帰る場所としては快適ですよ。能力があって、人柄が良くて、心が強い、でしたっけ? まあ、よく考えたらそのとおりなんですよねえ〜」
冗談めかして言ったニコはそして、念を押すようにしてルカを見つめた。
「だから、ちゃんと帰ってきてね、ルカ」
ルカはニコの眼差しに応えるように「うん」と力強く返事をした。




