2章 疑念
ガレスは評議会のため政務室にいない。
無言の政務室を通り過ぎたルカは、ようやく全身の力を抜いた。脱力のあまり、小脇に抱えていた冊子を危うく落としかけたくらいだ。
北棟は今日もほの暗く、初夏の光が大して届かない空間はうっすらと冷えている。
「うまくいきますかね」
背中から飛んできたニコの不安げな声に、ルカが「大丈夫」と答える。その瞳は、廊下の突き当たりにある重厚な観音扉を静かに見据えている。
「調査団資料室にも専用閲覧室にも、僕は立ち入ることができるからね。特に不自然ではないよ」
「でも、陛下の資料を盗み見するんですよね?」
言ったニコが「あっ」と小声で叫ぶ。振り返ったルカの前には、両手で口を押さえて目だけで謝ってくるニコがいた。ルカは苦笑しながらニコへと歩み寄り、そっと顔を近づけた。
「父上がミラ殿下を調べさせている。彼女を政治的駒として扱う上で明らかにしておきたいことがあるんだろう」
囁くルカの眼差しは、再び扉へと注がれている。ニコの顔つきも静かに引きしまった。
「父上の欲しい情報が掴めれば、懸念材料も自ずと知れるはずだ。僕でも何とかできる隙があるかもしれない」
ルカの言葉に力強く頷いたニコが、ルカから一歩下がって軽く一礼する。
「健闘を祈ります」
「ニコも例の件、よろしくね」
ルカの言葉に「お任せくださーい」と笑って答えるのはいつものニコだ。その気楽さに背中を押されたルカは、とうとう扉へと対峙した。
ルカは扉脇の鉄環を、一定の間隔で三度打った。
観音扉に設けられた小窓が開く。戸を押さえる黒手袋と、こちらを窺う片目。すっと消えると同時に小窓が閉ざされた。
「合言葉を」
「黒革の麦が三粒」
小窓に口を寄せたルカが答えると、かんぬきの外れる重厚な音が三つ聞こえ、冷たく閉ざされていた観音扉がゆっくりと動き出した。
調査団資料室。
王立ヴァレン調査団が収集した全ての情報が収められた箱だ。王族と調査団員以外は立ち入れない。
廊下以上に暗い空間。あちこちに浮かぶ油灯の明かり。細長い窓から申し訳程度の光が差し、壁の古地図や書類箱を照らす。
左右の扉を支える二人のうち一人に「閲覧室へ案内を頼む」とルカは告げた。淡く照らされた団員の顔が意外そうな表情になるも、すぐに真顔に戻る。
「こちらへ」
書き物机がずらりと並ぶのを横目にし、きれいに分類された書架を抜け、調査道具の保管棚を通り過ぎる。団員の持つ明かりが古びた扉を照らした。
団員が隠しから取り出した鍵を差す。錆びれた音が鳴った後に、何かが噛み合う心地のいい響き。
ほとんど立ち入ったことのない閲覧室の空気が、ルカの全身をじっとりと撫でる。ルカは徐々に早くなってきた呼吸を、床に目を落としてやり過ごした。
案内の団員は、テキパキと動いて部屋のあちこちに新しい油灯を準備すると、ルカに一礼をしてさっと出ていった。
ぼんやりとした光に浮かび上がる室内。ルカは卓に持ってきた冊子をそっと置く。思ったとおり、おびただしい数の資料が積まれていた。
ガレスだ。
ルカは喉奥に速すぎる脈動を感じながら、震える手で資料を探り始める。ルカの落ち着かない視線は時折、自分が入ってきたほうと反対側の壁に設けられたもう一つの扉を見た。ガレスの政務室へと繋がる扉。
ガレスの説教を受ける時、彼の側近が卓の資料を隠すように抱え集めて、閲覧室行きの扉向こうへと消えていく姿を何度も見た。
「——これは……?」
やがてルカが見つけたのは、一枚の書きつけだった。羊皮紙やインキの感じから、ごく最近書かれたもののようだ。
日付。時刻。場所。
役職。
人名。
会話。
注記。
それらの情報が綺麗にまとめられている。
日付は春以降。時刻や場所はバラバラだ。城内だけでなく王都の様々な場所に散っている。
侍従長や女官長はそのまま記され、他の侍従や女官には番号が振られている。対して、人の名前は全てヴァレンの人間だった。
ミラの部下の接触記録。ルカにはすぐに分かった。その瞬間、脳裏に地図を凝視していた付き人の姿が浮かび上がる。ルカが見ていることにも気づかなかった、あの鋭利な目。
嫌な糸をたぐっている気がする。
思わず資料を卓へと戻し、顔を上げていた。
その瞬間、目に飛び込んできたものに、ルカは硬直した。卓の後ろに並ぶ本棚。ヴァレン王族が代々受け継いできた記録の数々。
飢餓図録。
滅亡史。
戦病詳細。
記憶の奥底に追いやっていた記述がルカの中にゆっくりと甦る。たくさんの文字列が頭の中でぐにゃりと歪んで陰惨な絵に移り変わり、静かな空間にいるはずのルカの視界に一気に流れ込む。音が消え、光が消えた。ルカの意識はもう、この部屋にはなかった。
「——殿下」
力強い手に揺さぶられてルカは我に返った。振り返ると、日焼けした壮年の男がいた。激しく胸を上下させるルカの背をゆっくりと撫でて、呼吸が落ち着くのを待ってくれた。
「隊長……」
調査団北部隊の隊長だった。
「珍しくいらっしゃっていると伺ったので、失礼ながらご様子を確認させていただきました」
そう言った隊長がルカの見ていた背表紙に目を留め、そっと眉根を寄せた。
「あまり無理をされないほうが」
「用があった。もう出るよ」
ルカは隊長に背を向けると、置いてあった自分の冊子を手に取った。先ほど手にしていた書きつけを、ページの間に素早く挟んで隠していた。
「ここを出たらしばらく体を休めてください」
隊長がそう告げた後、ぐっと声を低くする。
「冊子に挟んだものは置いていかれますよう」
「……やっぱり隊長の目は誤魔化せないね」
ルカが苦笑しながら冊子を振る。黒手袋がルカの手から冊子を取り上げると、挟まれた羊皮紙を抜き取った。隊長の目がわずかに見開かれたのを、ルカは見た。
「北部隊の仕事?」
ルカが静かに訊く。隊長は何も答えずに羊皮紙を卓上に戻すと、ルカへと冊子を差し出した。
「殿下は早くここを立ち去るべきです。外に案内の者を控えさせていますので」
そう言うなり、冊子を受け取ったルカに格式張った礼をした。顔を上げる様子はない。もう何を言っても答えてくれそうにはなかった。
「殿下!」
廊下の先で待機していたニコが駆け寄ってきた。
「どうでした……?」
「隊長に鉢合わせてね」
その言葉で結果が見えたようだ。ニコが「ああ……」と呟きながら肩を落とした。ルカは無言のままだった。今見た資料について、ニコに言うべきかはまだ迷っていた。
「ニコは?」
歩き出しながらルカが訊く。ニコがさっそく話し出した。
「ミラ殿下の例の付き人ですが、評判は高かったですよ」
「この短時間でさすがだね」
ルカの感心した声にニコが軽やかに笑う。
「僕、皆とお喋りすることだけは得意ですもん」
そして、表情を引きしめたニコが続きを語る。
「礼儀正しくて、慎ましやかで、殿方はもちろんご婦人たちにも嫌われている様子はないですね。さすがミラ殿下のお付きの方、という印象のようです」
ルカは頷いた。
意味深な態度が気になったが、どうやら取り越し苦労のようだ。よく考えたら、地図を見ること自体は怪しくも何ともない——
だが、自分を納得させようとするルカの脳裏には、今見た資料が頭をもたげていた。
「で、その付き人の方、常に農耕暦を抱えてるんですって。変わってますよね」
「農耕暦……」
そういえばこの間すれ違った時も抱えていた。ルカは思い出す。何かが引っかかる。思考の針がルカの頭の中を引っかいて、小さな痛みを発している。
「そうだ、変わっていると言えば面白い話も聞きましたよ〜」
一転して、ニコが楽しげな声を上げた。
「最近、市場に変な人がいるって噂ですよ」
「変な人?」
「すごい変わり者の兄ちゃんなんですって」
商流の要であるヴァレンの人間は、見知らぬ者や変わり者などいちいち気にもしない。そんな皆が、揃いも揃って”変わっている”と噂する。
ルカは冷たい刃を押し当てられたような、切迫した感覚に襲われていた。自分の心臓がせり上がり、喉の奥で鼓動が鳴っているような気がした。
「それ……どういう意味の変な人……?」
ルカの言葉にニコが不思議そうに首を傾げた。ルカの硬い声が言葉を続ける。
「つまり……——面白いのか、怪しいのか」
ニコの顔がさっと青ざめた。
無言のまま見つめ合う二人の横を、耳に残る嫌な音を立てて、衛兵が通り過ぎていった。




