2章 運河
思い悩むルカの耳に飛び込んできた、ニコの声。
「殿下、お腹空きません?」
活気づいた市場の往来。その真ん中で立ち止まってしまったニコを、ルカが呆れ顔で振り返った。
ニコの目は屋台に並べられたパンへ釘づけだ。ルカがニコを引っ張って行こうとすると、ニコの熱い視線に気づいた店主が顔を上げ、すぐに丁寧なお辞儀をした。
「ルカ王子。ニコの坊っちゃんも。今日はお忍びですかい?」
「まあ、そんなところかな」
「今日、いつもより数が少ないね。売れちゃった?」
台を見回したニコに店主が弱ったように頭をかく。
「実はかまどからここに運んでる間に荷台をひっくり返しちまって……ダメになっちまったものも多いんですよ。大赤字でかみさんから怒られちまうなあ」
「え、そうなの?」
ニコが驚きの声を上げる。
「店主、残っているパンを全て買わせてくれないか?」
ルカがすかさず口を挟んだ。
「城の皆でおいしく食べることにしよう」
「あ、ありがとうございます……!」
店主が心なしほっとした様子で麻袋へとパンを詰めていく。ルカとニコが徐々に大きくなる袋を眺めながら待っていると、作業の手を止めないまま、店主がふと思い出したように話し始めた。
「荷台を起こすのを助けてくれた兄ちゃんが随分と変わり者で」
「変わり者?」
「恐らく旅のもんだとは思うんですけどね――お待たせしましたっと」
ニコが数枚の硬貨と引き換えに大きな麻袋を抱えると、満足げな表情でルカを見て、それから歩き出す。ルカもすぐ隣に続いた。
市場はどこまで行ってもごった返している。広い運河には何艘もの川舟が行き交っているのが見えた。
「ルカ王子! ニコ坊!」
顔なじみの船頭たちが声をかけてきた。川べりに舟を寄せて、各々が水を飲んだり果実を齧ったりしている。しばしの休憩を楽しんでいるようだ。
「やけに大荷物ですなぁ、王子!」
「ちょっとした掘り出し物があってね」
ルカの軽口に、ニコが麻袋を見せつけるようにちょっとだけ持ち上げてみせる。
「羨ましい?」
ニコの声に船頭たちが楽しそうに笑う。
「そりゃ運ぶものが大きけりゃ大きいほど精が出ますからねえ。ちと苦労はしますが」
「苦労といや、この間荷積みを手伝ってくれた兄ちゃんはなかなか役に立つ男でね」
一人の言葉に、別の男が「ああ、あの兄ちゃんな」とぶっきらぼうに返す。
「積み荷の計算が早いのなんの。おかげで随分助かった」
「オレは仕分けを手伝ってもらいましたよ」
「変な兄ちゃんだったけどな。体調悪そうだったけど平気かな」
船頭たちの会話に、ルカとニコが顔を見合わせる。
「――と、いけね、そろそろ行かねえと」
彼らは慌てた様子で櫂を掴むと舟に飛び乗り、ルカたちに一礼をしてから川へと滑り出していった。
「同じ人ですかね?」
ニコが首を傾げて言ったのに「そうかもね」と返し、ルカは再び歩き出した。
旅人が路銀のために、行く先々で仕事を見つけるのはよくある話だ。とはいえ、皆が揃いも揃って”変わってる”と言うのは何故だろう。ルカの中に疑問が浮かぶ。
二人はいつの間にか市場の外れへと来ていた。ごった返していた人がだいぶ減り、道幅は狭まり、煉瓦の建物も小さくなっていく。広い運河だけは変わらずに悠々と流れていた。
人質。
歩き続けるルカの耳に、ガレスの言葉が残ったまま離れない。ヴァレンのことを熱心に学ぶ姿にも、穏やかな笑顔にも、父は何も思わないのか。彼女はただの政治に過ぎないのか。
もし、本当にアルドとの関係が悪化したら――
ミラ殿下の身が危ういかもしれない。
「――元気ないですね?」
ふいに隣を歩くニコが訊いていた。ルカがおずおずと訊き返す。
「父上に叱られた顔、してた?」
「そりゃあもう」
ルカは思わず苦笑し、そっと目を伏せた。
「……僕じゃ頼りないんだろうな」
「そんなことないですよ!」
ニコの強い口調にルカは曖昧な笑みを浮かべ、それからそっと顔を近づけた。
「それより、城内では話せないことがあるんだ。相談に乗ってくれるかい?」
「これはまた、ずいぶん思い詰めた顔ですねえ、殿下」
口調こそ軽いものの、ニコの表情はぐっと引きしめられている。そこへ――
「――困ってるなら手を貸してやろうか?」
ふいに背後から声がして、ルカとニコは同時に振り返った。
一人の青年が立っていた。
川商人の古びた丈長外套に、南方風の薄いシャツ。海商が履くような丈夫なズボンに、砂漠の民を思わせる革紐の靴。
どこの国の人間かと問われても、誰も答えられない格好だった。
「安心しろ。俺はそこそこ役に立つぜ」
自信満々に言いきるなり、彼は左の口元をぐいっと大きく引き上げる。どうやら笑っているらしい。
「変な兄ちゃんってまさか……」
「お前のことか……」
ルカが気の抜けたような声を出した。
***
青年はカシアンと名乗った。
気安い言動は若者そのものだ。だが、眼差しや空気感には、経験を積んだ年長者特有の重みがある。もしかしたら自分たちより少し年上なのかもしれないとルカは思った。
彼は今、土手に座り込んで両手のパンを夢中で頬張っている。不審、を顔いっぱいに貼りつけたニコが、カシアンから目を逸らさないままルカに囁いた。
「そんなに気をかけてやってよろしいんですか?」
「顔色が悪かったからね」
ルカの言うとおり、カシアンは日差しの下でもそれと分かるほど青白い。
「あまり食べていなかったのか? それとも船酔いでもしたのか?」
気遣うルカに、カシアンは少し考えるように視線をさ迷わせた。
「どっちも合ってるし、どっちも間違ってるって感じだな。ちなみに普段はもう少し良い男だぜ」
「そんなこと聞いてませんけど……」
ニコがぼそっと呟く。
「それより困ってることを教えてくれ」
ニコの声を無視するようにカシアンが言った。カシアンに真っ直ぐに見上げられたルカが黙り込む。ニコも警戒心を露わにした顔でカシアンを睨んだ。
「あー……まあそうなるよな。王子だろ、あんた」
カシアンが頭をかく。
「わかった、こりゃ見せたほうが早そうだ」
そう言うなり、カシアンは残りのパンを口の中に押し込むと、勢いよく立ち上がった。
「ごちそうさん。旨かったぜ。——それじゃこれは恩返しってことで」
ここでカシアンがちらりとニコに目をやる。
「ま、従者ならいても問題ねえか」
そして、改めてルカを見た。
「カシアン」
ルカが口を開く。
「街の人間がお前の話をしていた。助かった、と」
ルカは少し迷ってから言い足した。
「礼を言わせてほしい」
カシアンがわずかに口元を緩ませた。
「じゃ、その街の人間とやらに免じてちょっとだけ俺に付き合ってな」
言うなりカシアンがルカの腕を強く引っ張った。ニコの抗議の叫びがした。
「先にこれだけ言っておくが――自分自身に絶対見られるなよ」
「どういう意味だ?」
問い返した自分の声が妙に歪んで聞こえた。
ニコの大声がみるみる遠ざかる。
ふいに川のせせらぎが消える。
足元がわずかに沈み、遅れて地面が戻ってくる感覚。
思わず目を瞬かせる。
――古びた煉瓦の壁が目の前にあった。
「え……?」
声が出た。喉の奥にかすかな不快感がある。
「少し前に行きすぎたな」
呟くカシアンの手がルカから離れた。途端にぐらりと体が揺れ、ルカはとっさに壁へと寄りかかる。妙な脱力感。頭も痛い。ルカの様子に目ざとく気づいたカシアンが心配そうに声をかけてくる。
「最初はきついよな」
「一体何が……」
「あ、ほら、見ろよ」
建物の影から通りを見るように促され、ルカはズキズキとする頭を抱えながらもそれに従った。そして、目の前の光景へ釘づけになった。
大袋を抱えたニコが歩いていた。袋の向こうにちらちらと見えるのは、王族が身につける臙脂のケープ。
「僕だ……」
ルカの唖然とした声に、カシアンが満足げに笑う。
『元気ないですね?』
ニコの声にどきりとした。さっき聞いたばかりの言葉だった。
「おっと、そろそろ俺が来る」
カシアンが勢いよく身を引いて煉瓦壁へと完全に身を隠す。ルカもつられるように隠れた。息を潜めてしばらく待っていると、カシアンの声が聞こえてきた。
『困ってるなら手を貸してやろうか?』
これもやはり先ほどのやり取りだ。
「何が起こっているんだ……?」
ルカは今の状況を飲み込めずに思わず呟いていた。足の力がいよいよ保たなくなって、その場へとしゃがみ込んだ。
「簡単に言うとな、王子、あんたはちょっとだけ前に戻ったんだ」
つまり、時間を遡ったということか。
あまりにも突飛すぎて理解が追いつかない。
「慣れるまでは大変だが、便利なことは多々あるぜ。といっても、期待はしすぎんなよ」
カシアンの声が低くなる。
「あんまりでかいことは止められねえし、変えられねえ」
ルカが思わず見上げたカシアンは、怖いくらいに真剣な表情をしていた。その視線がどこか遠くをさ迷っていた。
「だがな、あ、やっちまった、程度のことなら十分取り戻せるぜ」
明るい声を取り戻したカシアンが、ルカの腕を再び掴む。途端に、遠ざかっていた音が急に押し戻された。
「――殿下!」
ニコの声が耳元で弾ける。
目の前には、見慣れた運河があった。
「ニ……うっ」
ルカはその場へと突っ伏して、こみ上げてきたものを吐き出した。
「殿下!」
「しばらく休んだほうがいいぜ」
カシアンがルカのそばにどかっと腰を下ろす。
「な? そこそこ役に立ちそうだろ?」
カシアンがそう言って、左の口元を大きく引き上げてみせた。




