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時越えの盟約路―気弱王子は歴史をやり直さない―  作者: 遠見夕己


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1章 婚約

 ページをめくるたび、疲弊した心が癒えていくようだった。


 石の壁で囲まれた、ルカだけの世界。初夏の光に温まった石畳。そこにしゃがみ込んだルカは、夢中で本を読む。

 

「ルカ殿下っ!」

 

 突然耳に飛び込んできた声にルカが顔を上げた。書庫の入り口にひっそりと立ち、情けない顔でルカを見つめる従者がいた。

 

「ニコ!」

「お祭りの支度、手伝ってくださいよ〜」

「待って……ここだけ読みたい……」

「僕は待てても、お祭りが待ってくれませんよ~」

 

 忠臣のもっともな返答に苦笑したルカが、小さく細い銀片をページに挟む。


「ごめん、行くよ」

 

 ルカは名残惜しむように本を振り返りつつ、書庫のアーチを潜り抜けた。


「今日は快晴ですね〜」


 渡り廊下に差しかかると、ニコが声を弾ませた。透きとおる青の色を見上げたルカは、賑やかな気配に誘われるように視線を落とした。


 ヴァレンナディア王国が誇る、赤茶の煉瓦の街。輝く運河。


 川という動脈に沿って連なる市場には、ヴァレンの民のささやかな日常が流れている。積みすぎた荷車を皆で引っ張る声や、船頭と商人が怒鳴り合う声が、華やかな喧騒となって王城のルカのところまで届く。


「殿下は市場を見るのが本当に好きですよね〜」


 ニコの声に振り返ると、ニコのほうも煉瓦の柵にもたれて眼下の景色を眺めている。


「今日、少し行きたいな。だめ?」


 ルカが上機嫌なニコの横顔にこっそり聞くと、

 

「お祭りの準備が終わったら!」


と即座に声が返ってきて思わず苦笑いした。


「はい」


 素直に返事をしながら視線を市場へと戻す。ふと違和感に気づき、ルカは目を凝らした。


 衛兵。


 ルカは思わず止めた呼吸を、そっと吐き出した。


 市場をやけにゆっくりと往復する姿が、ここから見ているだけでも四つ。以前より増えた。聞こえないはずの金属音が、ルカの耳の奥で鈍く鳴り始める。


「最近、衛兵の数増えましたよね〜」


 ニコが少しだけ声を潜めた。


「やっぱ噂は本当、なんですかね」

 

 ルカは返事をしなかった。思わず庇が作る影へと下がっていた。まばゆい景色や騒がしい音が急に遠ざかってしまった。水門を開く角笛の、地を這うような響きだけがやけに大きかった。


「行こうか」

 

 ルカは言うなり市場から目を背け、ホールへと歩き出す。その視線は、壁に掲げられている大きなタペストリー地図へ嫌でも吸い寄せられていく。

 

 ルカが見たのは自国ヴァレンではない。その北にある隣国だ。

 

 山岳国家アルドレク王国。通称アルド。


 ルカは振り切るように目を逸らし、足を速める。


 地図から浮かび上がって見えるほど、ルカの中へと刻みこまれたその形。


 資源不足に喘ぐこの隣国が、春にはヴァレンに侵攻すると囁かれていた。


「あれ」


 ニコがふいに呟いた。ルカも耳を澄ませた。二人は立ち止まって音のするほうを見た。


 廊下の向こうを、鎧甲をまとった兵が堂々と歩いていく。彼が足を動かすたび、重なり合う金属同士が擦れる硬質な音がした。


「……やっぱ落ち着かないですよ」


 ニコがぼそりと言う。


 ニコはルカ以上に知らない。ただ、仕事柄色々な職務の人間と話をする。何かを聞いている可能性はあった。


「お祭り前だからだよ。皆忙しくなって城内が手薄になるからね」


 ルカは努めて明るく答えた。


 アルドは侵攻してこなかった。


 だが、ルカが王都で目にする兵の数は変わらない。彼らは一様に不気味な金属音を立てている。

 

 父王はこの件について情報統制を徹底した。王子であるルカでさえ完全に締め出された。

 

 冬の間、ヴァレンは変わらず平和だった。秋の恵みを存分に楽しみながら温かな春を待つ、いつものヴァレンの光景があった。

 

 だが、政治の中枢である北棟は常に暗く、寒く、行き交う人の顔は強張っていた。陰鬱な空気は、春になっても変わらずルカの肌にまとわりついた。

 

「——ルカ殿下」

 

 ふいにルカを呼ぶ声がした。わずかに緊張が走る。声のしたほうを向くと、一人の女性がしずしずと近づいてきた。

 

「ミラ殿下」

 

 ルカの婚約者だ。


 背が高く、姿勢がよく、所作の一つ一つが細やかで行き届いている。


 彼女はルカの少し手前で歩みを止めた。壁に下がる色褪せた世界図に、彼女の華やかなドレスの色がわずかに反射した。


 ミラの美しい一礼に続いて、背後の付き人が深々とお辞儀をした。その手に農耕暦の書物を抱えている。たくさんの文字が書き込まれた羊皮紙がページのあちこちから覗いていた。


「今日も熱心に学ばれているのですね」

 

 ルカの声に応えるように、ミラが奥のサロンを見やる。席についていた数人の婦人たちが、ルカを見るなり示し合わせたように頭を下げた。


「皆さまからヴァレンの実りについてお伺いしていました。そしたら殿下をお見かけしたので、ぜひお礼を申し上げたくて」


 ミラがゆったりと微笑む。


「この間ご案内いただいた麦畑は壮観でした。この国は何もかもが本当に美しいですわ」

「今度はぜひオリーブ畑を見に行きましょう。この時期は高台から一面の白い花をご覧になれますよ」

「まあ!」

 

 ミラが身を乗り出した。

 

「高台からですか? 馬で向かうのでしょうか?」

 

 ここでミラがはっとしたように姿勢を正し、例のタペストリーへと目を移した。その視線が素早く地図を廻る。

 

「祖国アルドでも夏には白い花が咲きます。小さい頃はよく摘んで遊んでいました」

 

 アルドという言葉に、ルカが一瞬返事に詰まる。背後のニコからもわずかに緊張感が伝わってきた。ミラが空気の変化を敏感に察したのか、軽やかに身を引いてゆったりと頭を下げた。

 

「ルカ殿下」

 

 顔を上げたミラがわずかに眉根を寄せた。

 

「最近お疲れではありませんか?」

 

 やわらかな響き。

 

 ルカの中にぽっと温かいものが灯る。大丈夫です、と返事をするのがようやくだったルカに、ミラが安堵したような微笑みを見せると、女性たちの輪の中に優雅な足取りで帰っていった。

 

「殿下」

 

 歩き出したルカの顔を、ニコが覗き込みながらイタズラそうに笑った。

 

「二十歳も過ぎて婚約話の一つもないから心配してたんですよ、まさか僕らと同い年のあんなに素敵なお姫さまが来てくださるなんて〜」


 ルカは肩をすくめてみせた。


 雪解けと共にアルドからやってきたのは、軍隊ではなくミラだった。


 ヴァレンの美しさに目を輝かせるミラを見るたび、ルカの中には温かな感情が宿った。ともすれば暗い水の底に沈み込んでいくルカの心を、その光はそっと照らした。


 ミラとならばきっと、争わずに済む道を進んでいける。


 ルカはそう確信していた。


 ルカは最後にひと目だけミラを見ようと振り返った。


「あれ……?」


 先ほどミラについていた付き人がホールに残っていた。彼女はサロンの入口に控えるでも、諸用を片付けるでもなく、ただ立っていた。

 

 その目はタペストリーを見ていた。瞳に宿る冷徹な光は、まるで地図を読み解こうとする戦術家のそれのように見えた。


 妙に収まりの悪い、靄のような感情がルカの中で動き出す。が、ルカはそれを打ち消すように首を振り、踵を返した。

 

「——殿下」


 ルカの元へ、廊下の向こうから執務官が足早に近づいてきた。

 

「ガレス国王陛下がお呼びです」

 

 ルカはミラとの会話で高揚していた気持ちが急降下していくのを感じた。

 

 光が潰えていく。

 


  ***


 

「父上、参りました」

 

 ルカの声にガレスは「うむ」とだけ答えた。卓の向こうに構えたガレスは、ところ狭しと並べられた資料に目を落としたまま、一瞥すら寄こさない。


 ルカは早すぎる自分の鼓動に耐えながらしばらく待った。

 

 壁の運河図の隣には真新しい地勢図が下がっている。北部のものだ。おびただしい数の印が書き込まれている。印が少しずつアルドの山城へ近づいていることに、ルカは戦慄した。

 

「アルドの王女殿下のご様子は?」

 

 ふいに投げられた問いかけに、ルカは思わず「へ?」と気の抜けた声を出していた。


 ミラのことだ。


 我が父にしては珍しい気遣いだ。ルカが半ば驚きながら口を開く。

 

「彼女は熱心に我が国のことを学んでくれています。城の者ともうまくやっているようです」

 

 ガレスは無言のまま再び資料に目を落とした。重苦しい沈黙。ルカは汗ばんだ手をそっと握った。

 

「お前は彼女を何者だと考えている」

「いずれこのヴァレンを共に支えてくれる女性です」


 ガレスが黙る。次いで、深いため息。責められたような心持ちになり、落ち着かなくなったルカが口を開く。

 

「父上、彼女は――」

「ルカ」

 

 ため息混じりの声がルカを打った。


 ルカは自分の中にあるやわらかな部分がどんどん冷えて固くなっていくような気がした。

 

「アルドからの婚約打診は我が国に益がなかった。今回は違う」

「一体何をおっしゃりたいのか……」

 

 困惑したルカを責めるようにガレスの指が資料を何度も叩く。苛立った時の癖だ。

 

「王女殿下は人質だ」

 

 心臓をじかに掴まれたような衝撃。


 ――人質。

 

 背筋を駆け上った寒気にすくみそうになったのを、両足に力を込めて耐える。硬い床が指先にわずかな痛みを伝えてきた。

 

 ガレスがルカをひと睨みして席を立つ。ルカに背を向け、古い煉瓦に囲われた窓から城下を見つめているようだ。 

 

 ルカは唇を噛みしめた。血の味がした。


 ルカが平和への足がかりだと信じた光は、ガレスにとってただの駒だった。


 うまく声が出ないルカの脳裏に、これまで読んできた様々な戦記が蘇る。


 歴史書は常に同じ結末を告げていた。争いが始まれば、奪う者も奪われる者も壊れていく。

 

 ならば、彼女のためにも。

 そして、父のためにも。

 この美しいヴァレンのためにも。


 絶対に奪わせない。


 ルカは、ともすれば震えそうになる拳を必死に握り込み、ガレスの背中を見つめ続けた。

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