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第2話

2030年 7月 B社


C社で京田たち新入社員たちを襲ったマニュアルの毒はB社でも同時に撒かれていた。

B社中堅社員の古川という女性社員。

彼女たち既存社員たちも社内研修としてあの『マニュアルの毒』の洗礼を受けていた。


そして彼女が今、まさにその洗礼で受けたマニュアルとにらめっこしている。

そのマニュアルとはもう15年前の『日本電子記憶工業』のマニュアルだった。


この会社はいろいろな半導体チップを製造していたが、一番の製造量品目は『メモリー』だった。

そしてもう存在していない。

倒産してしまったのだ。


いろいろと言われるが、主な要因は『コスト競争に負けたこと』と『市場需要を読み間違えたこと』だった。


半導体産業は日本政府の肝いり事業なので、普通の企業のように『倒産したから人材は散らばっても構わない』とはならなかった。

複数あった受け入れ先の企業にB社があったのだ。


B社は復活のときを全社一丸で準備している。

彼女を含めた『転職者たち』と一緒にコスト削減案はあるか?

もっと効率的な運用ができる部分はなかったか?

仮にそのような方法があればどのようなマニュアルにするべきだったか?


それを精査している。

彼女の周りには日本電子記憶工業で働いていて今や熟練社員となった現場関係者たち。

先ほどの『転職者たち』とはアメリカや台湾、韓国でAI向けHBM競争に資本を集中するためにレイオフされたメモリ系製造メーカー元社員たち。

さらには定年退職したメモリメーカー社員すらも混じっていた。




B社が狙うのはHBMではない。

普通のDDR4という皆のパソコンや家電や電気機器などに搭載される安価で低性能なメモリだ。

さらに世代の進んだDDR5やDDR6もあるが、AI需要とは無関係な産業機器、低価格PC、車載補修市場では、依然DDR4需要が巨大だったからだ。


日本電子記憶工業もこの種類の汎用メモリを作っていた。

しかし、コスト構造に耐えかねて崩壊したのが最後の歴史だ。


なぜ今、そんな薄利多売なところに参入するのか?

それは今だからこそ、だ。


汎用メモリのほとんどはの大手数社で製造、供給される。

しかし一部企業が一般顧客向けのDDRシリーズラインを潰してでも、AI機器向けの高性能で、構造からして別物のHBMというハイエンドのメモリ製造に移った。

さらに残った企業もまだ一般向けを製造はするが、HBMの比率を年々上げている。


そのためメモリ価格は急騰し、一般ユーザーや製品工場たちは供給不足のままなのだ。

そこにB社が一般向けメモリのみで再参入する。

もし、このような特殊な環境でなければ、参入後2年か3年で以前と同じように巨額赤字を垂れ流して市場から追い出されるだろう。




「今だからこそ、粗削りながら日本電子記憶工業時代のノウハウがまだギリギリ生きている今だからこそ・・・」


粗削りだがDDR3シリーズまでのメモリなら生産した経験と記録が生きている。

製造方法などは大きく違うが、世界的に需要がひっ迫しているDDR4を作れれば、大手製のDDR4の2倍や3倍の価格だろうが買い手が付く。

それくらいの状況なのだ。


「おそらく、AIブームが落ち着けばまたメモリ巨人たちがDDRに戻って来る。

 それまでに粗削りながら参入し、改善を重ね、それをマニュアルにする。」


これはB社の賭けでもあるが、現実的に可能性もそれなりにある戦略でもあった。




運び込まれてきたのは、最新鋭のレーザーを放つ装置ではなかった。

かつて海を渡り、ライバルである海外大手メモリー企業の工場で酷使され、御役御免となった「中古品」の群れだ。


「……信じられない。これ全部、日本が昔売った装置の成れの果てじゃない」


古川は、汚れの目立つ搬入箱を見つめて息を漏らした。

装置メーカーの倉庫で埃を被っていたデッドストックや、海外勢がHBMへの投資資金を作るために二束三文で放出した旧式機。それらが今、複雑な迂回ルートを経て、この新設されたばかりの「空っぽの建屋」に集結している。


「新品を特注すれば、ラインを開けさせるだけで数十億が飛ぶ。だが、こいつらならメンテナンス費用だけで済む。動けばいい、DDR4が焼ければそれでいいんだ」


現場では、熟練工たちが錆びついた勘を取り戻すように、慣れた手つきで装置をバラし、組み直していた。


「最高級品は作らない。だが、世界が今一番欲しがっている『妥協の産物』を、どこよりも安く、確実に供給する」


かつての敗者が、勝者の「ゴミ」を拾い集めて牙を研ぐ。

その光景は、美しさとは無縁だったが、戦慄するほどの合理性に満ちていた。





2030年 11月、青森


工場の建設自体は上場廃止が正式に決定した2028年10月中に始まっていた。

下北半島をなでる冷たい海風が、新設されたばかりの工場の壁を叩いていた。


なぜ、最先端の集積地ではないこの地なのか。答えは、冷徹なまでの計算式の中にあった。

東京から新幹線と在来線で繋がるアクセスの良さ、そして空港の近接。だがそれ以上に決定打となったのは、広大な遊休地が生む圧倒的な低地価と、抑えられた労務コスト、そして県庁が差し出した「破格の免税」という毒入りの蜜だった。


「かつて、日本中がハイテクの夢を見ていた時代には、ここは選ばれなかったでしょうね」


古川は工場の窓から、灰色の空を見上げて呟いた。

かつては工業の空白地帯と呼ばれたこの場所が、今は「マニュアル第一主義」を掲げるB社の聖地になろうとしている。


「ここなら、誰にも邪魔されずに、ただひたすらに『石ころ(DDR4)』を焼き続けられる」


冷涼な気候はサーバーや製造ラインの冷却効率を極限まで高め、浮いたコストはそのまま利益へと直結する。

青森の静寂の中に、中古装置が上げる規則正しい駆動音が響き始めた。それは、世界中がAIという熱病に浮かされる中で、日本が静かに放った「冷徹な反撃」の鼓動だった。





青森の工場が産声を上げる三ヶ月前。

すでに戦いは、新潟の巨大な保税倉庫の中で始まっていた。


「……操作盤の配置が違うだけならまだマシよ」


古川は、防塵服の袖をまくり、ある海外企業の工場から買い戻した露光装置を見上げた。

長年、ライバルの癖(仕様)に染め上げられた機械たちは、もはや市販の純正品とは別物に変貌していた。独自の最適化というやつだ。


「装置メーカーに連絡して。すべて出荷時の『純白』に戻させるわ。一ミリの妥協も許さないで」


装置を一度解体し、呪縛を解く。その気の遠くなるような作業の裏で、青森に雇用された千人近い労働者たちは、一冊の「聖書」と格闘していた。


私たちが新潟で、一文字、一工程ずつ血を吐く思いで修正を重ねている、あのマニュアルだ。


建設の遅れは、弱腰の証ではない。

青森の工場が動き出すその瞬間、すべての作業員が、すべての装置の癖を、自分の指先のように把握している状態を作る。「誰がやっても、一投目からストライクを投げる」ための、狂気じみた精度。


8月の稼働予定を11月まで引き延ばしたのは、勝つためだ。

降り始めた雪が工場の屋根を白く染める頃、その巨大な廃熱ファンがいよいよ、復讐の熱気を帯びて回り始めようとしていた。




同日 島根県松江市


宍道湖しんじこの湖面を揺らす風は穏やかだったが、雑居ビルの一画にある「城島ファンド」の執務室は、見えない熱気に包まれていた。


「青森、ラインが回りました。まずは三ヶ月、テスト生産に入るとのことです」


部下の報告に、窓際で茶を啜っていた男が静かに頷いた。


「そうか。ようやくか。俺たちの金が、ようやく『形』になり始めたな」


彼らは金融の捕食者だ。東証が「お通夜」になる数年も前から、彼らは来るべき崩壊を見越して準備を進めてきた。

株という脆い絶対評価の市場を見限り、巨大なFX(外国為替)の波へ資金を移した。ドルと円、ユーロとドル。相対的な価値の歪みを突いては、B社の装置代や、C社の研修費、そして24社の解体資金を、音も立てずに稼ぎ出してきた。


だが、このファンドの真の恐ろしさは、モニターの中の数字だけを信じていないことにある。


「金融がいくら荒れようが、人間は明日も飯を食う」


画面の端には、島根ファンドが着々と買収を進めている『スーパーマーケットチェーン』の進捗状況が表示されていた。

実需(食)という最強の盾を持ち、FXという最速の矛で外貨を狩る。

松江の片隅から、彼らは日本の再起動リブートを「資金」という血液の巡りからコントロールしていた。




「さあ、今日も日経もS&P500も絶好調だ。……カモを逃すな。じゃんじゃん買って行こう」


昭和の時代で時間が止まったような、コンクリート剥き出しの壁。適当に塗られたペンキが剥げかかったその部屋で、20名ほどの男女がディスプレイの光に顔を白く染めていた。


叩かれるキータッチの音だけが、数億、数十億という単位の「数字の移動」を物語る。


「半導体関連には指一本触れるなよ」


部屋の主が、冷めたコーヒーを口に含みながら釘を刺した。

「俺たちがB社の背後にいることが露見した瞬間、インサイダーの嫌疑で横槍が入る。世間に『非上場24社の財布』だと悟られるわけにはいかないからな」


彼らの投資基準は、企業の価値ではない。

「自分たちの壮大な計画を悟られないために、どこへ資金を逃がしておくのが最も自然か」

その一点に尽きる。


松江の古い雑居ビル。外から見れば倒産寸前の零細企業にしか見えないこの場所が、今やウォール街や丸の内のエリートたちが血眼で探している「市場の歪み」の正体だった。


「銘柄選びはいつも通りだ。本命を隠すための、美しいノイズを積み上げろ」





「社長、先週の収益です。ご確認を」


女性秘書が差し出したのは、報告書と呼ぶにはあまりに簡素な一枚の紙だった。

そこにはニューヨーク、ロンドン、東京――各市場で荒稼ぎした「利益」が、単なる冷たい記号として並んでいる。


男は数字を追うことすら数秒で切り上げ、紙を机に置いた。


「よし、いつも通りだな。……例の処理を頼む」


「承知いたしました。直ちに実行します」


この会社には、鉄の規律がある。

実現損益が過去最高を更新した場合、その超過分は機械的に4つに裁断される。


価値の最終担保である『ゴールド』への変換。

胃袋を守る『スーパーマーケット』への注入。

次の戦いのための『運用原資』への充当。

そして、有事の際に24社を救うための、最も流動性の高い『現金』としての蓄積。





同日 アメリカ カリフォルニア


「では、このスーパーの債権は6割の値段で契約成立です。」


「助かりますよ。」


ロバーツは城島ファンドのスーパーマーケット事業の物件調達担当者である。

まさに今、物価高にあえぐアメリカの、その中でも特に悲惨なカリフォルニアのサンフランシスコの売店の債権を地銀から買い取った。

この売店はアメリカ人感覚からしたら売店だが、日本人からしたら小さなスーパーにはなる。


なぜ銀行は6割の値段でスーパーの債権を売ったか?

理由は2つある。


1つは銀行自体の経営が厳しいこと。

これは城島ファンドがこの銀行が発行する決算資料を見て、狙い撃ちの対象にしていたから。


2つ目はこのスーパー候補店の立地。

治安がサンフランシスコで最悪レベルのエリアに隣接していること。

夜中の外出どころか昼ですら一人で歩くには危ないと言われるほどだ。


ロバーツは当然この治安を知っている。

何度も現地を視察して路上に落ちている注射器や項垂れるホームレスなど、さらにはスマホを持って歩いていない人数まで。

数字にできるものはすべて数字で表して銀行と交渉していた。


不良債権化して何年も経ち、銀行も早く手放したい案件。

それを6割の値段で買い取ってくれるというのだ。


さらに内情を語るなら、その割り引いた4割は実はすべて支払期限切れによる割増利子で膨れ上がったもの。

そのため、4割引きといっても銀行としてはちゃんと融資額面金額にわずかな利子を乗せた金額で売却は成功している。


銀行側は、喉に刺さったトゲが抜けたような顔をしていた。

何年も焦げ付き、利息だけが膨らんだ不良債権。それを、元本を割らずに現金化してくれる「奇特なファンド」に感謝すらしている。

だが、ロバーツの眼鏡の奥に、情けの欠片かけらなどない。





HV車の静かなモーター音が、サンフランシスコの荒廃した街並みに溶け込んでいく。

ロバーツはバックミラーに、先ほど手に入れたサンフランシスコでの「4店舗目」の残骸を映しながら、口角をわずかに上げた。


「カリフォルニアで17店舗……。ようやく、チェス盤の駒が揃ったな」


全ての書類において、『城島』の二文字は徹底的に排除されている。

契約の主体は、デラウェア州で登記された名もなき新興法人『NEXA Corporation』。

銀行の担当者も、この街の市役所も、NEXAを「地元の不良債権を拾い集める物好きな若手投資家集団」だと信じ込んでいる。


だが、その実体は、太平洋を越えた松江の雑居ビルから伸びる、24社連合の鋭い触手だ。




ダッシュボードでスマホが震えた。表示されたのはNEXA本社の番号。

ロバーツは通話ボタンを押し、ヘッドセットを調整した。


「どうだった? 向こうはごねたか?」


上司の、感情を排した低い声が響く。


「ええ。予定通り『銀行としてのプライド』とやらを振りかざしてきましたよ。ですが、交渉の末に……多少、色を付けてやった『フリ』をしたら、最後はころりと落ちました」


ロバーツは、サイドミラーに映るサンフランシスコの街並みを一瞥して鼻で笑った。

元本に、雀の涙ほどの利子を乗せる。それは城島ファンドが導き出した『強欲な凡人が、勝利を確信する最低ライン』だった。


最初から「元本割れ」などという無慈悲なノルマ条件は設定しない。相手に「粘って条件を改善させた」という偽りの達成感を与え、握手を交わす。そうすることで、契約後の恨みや余計な調査を封じ込めるのだ。


「ご苦労。これでカリフォルニアの面は確保できた」


「はい。銀行の連中は、自分が腐ったリンゴを高く売り抜けたと信じて、今頃祝杯を上げているはずです」


彼らが手放したのは、ただの不良債権ではない。24社連合がアメリカという巨人を内部から作り変えるための「発火点」だ。ロバーツはアクセルを踏み込み、霧の向こうへと車を走らせた。





翌日 島根県 松江市


霧が立ち込める宍道湖を背に、城島ファンドのスーパー事業部長・向島は、NEXAから届いた最終報告書をタブレットに映し出した。


「購入金額、基準値よりさらに12%下振れか……。ロバーツの奴、いい『演技』をしたようですね」


向島は、ディスプレイ上のカリフォルニア全図を指でなぞった。

サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴ。大手が逃げ出し、絶望だけが沈殿した3つの巨大都市。そこに、NEXAの赤い点が17箇所、星座のように浮かび上がる。


「サンフランシスコからサンディエゴまで、カリフォルニアの『腹』は確保した。あとはサクラメントの中規模店をハブにすれば、物流の網が完成する」


彼は不敵に笑い、窓の外を見た。


「さあ、いよいよ正念場だ。計算通りにいくか……我々の『秩序』が、あのアメリカの混沌を食い破れるかどうか」


日本の地方都市で練り上げられた、冷徹なまでの「再生マニュアル」。

それが今、太平洋を飛び越え、世界最大の経済州を内側から塗り替えるためのカウントダウンを始めた。




2031年 2月


アメリカ カリフォルニア州


NEXAが買いたたいたスーパーが営業再開、もしくはリニューアルした。


「おい、ハットンストアってとこが安いぞ!」


「あら、本当、卵も肉も・・・ピーナツバターまで安いじゃない。」


ある家族はSNSのアプリで流れて来たサンフランシスコ市内のお得情報アカウントの報告を見る。

そこには国内大手スーパーたちよりも安い価格の商品の写真と値札が次々と投稿されていた。


「ん?デリアルって店もか?」


「シャンデリア・ルートってお店も安いらしいわよ。」


家主の夫と妻はお互いのスマホでアカウントをスクロールして辿ると同じサンフランシスコ市内でも同じ価格帯の店があることを知る。





翌日の午後、ロバーツはしなびたパーカーを羽織り、一般客に紛れて『ハットンストア』の敷居を跨いだ。

物件調達という「狩り」を終えた彼に与えられた次なる任務は、顧客の視線でこの「毒」の回りを観察することだ。


「……本当に、看板一つ変えていないんだな」


見上げた先には、前オーナーが残した煤けた看板。だが、一歩足を踏み入れれば、そこにはかつての無秩序な売店グロッサリーの影はなかった。


店内は、アメリカ人には窮屈すぎるほど棚が密集している。日本の都市型スーパーを彷彿とさせる、極限の空間圧縮。


「それにしても、この客の数はどうだ……」


狭い通路を埋め尽くす人々。彼らが手に取るのは、通常のスーパーどころか大量仕入れによるコスト削減する大手スーパーたちの底値をさらに5%も下回る「暴力的な安さ」の生活必需品だ。

金融界に身を置くロバーツには、その5%の重みが痛いほどわかる。それはインフレという名の怪物に食い潰される市民にとって、最後の生命線に他ならない。


カリフォルニアの青い空の下、ロバーツは冷や汗を拭った。

手元のメモには、他社を凌駕する「5%の安さ」と、それを年中維持するという正気とは思えない指令。


「本当に利益が出るのか? これではただの慈善事業か、自殺行為だ……」





同日 島根県 松江市


スーパー事業部。そこはもはや事務所ではなく、戦時下の司令部だった。

壁一面のモニターには、カリフォルニア17店舗のPOS端末から吸い上げられた生データが、3秒刻みの波動となって押し寄せている。


「各店の平均予想利益率、0.87%」


部下の報告に、向島は表情を変えずに頷いた。


「利益を出すことが目的ではない。0.87%の余剰があれば、この組織システムは死なない。死なない限り、我々はアメリカの毛細血管に入り込み続けることができる」


0.87%。それは、資本主義の常識を捨てた24社連合が導き出した「生存の最小単位」だ。


「順調すぎるな。……だが、慢心は傲慢を生む。傲慢はマニュアルを腐らせるぞ」


向島は不敵に笑い、モニターを消した。

利益率1%未満の「静かなる侵攻」。

アメリカの小売巨頭たちがこの数字の「真の恐怖」に気づく頃には、カリフォルニアの食卓は、すでに逃れられない城島ファンドの影響下にあるはずだ。





同日 アメリカ カリフォルニア州


カリフォルニアの昼下がり。NEXAの店舗――『ハットンストア』の店内は、安さを求める熱狂と、思い通りにいかない苛立ちが渦巻く戦場と化していた。


「おい! 牛肉がもう空っぽだぞ、どうなってるんだ!」


「無限に用意できるわけないだろ。欲しけりゃ明日の朝に来るか、他を当たれ」


品出しに追われる店員は、客と目を合わせることもなく吐き捨てた。

顧客満足度? 接客スマイル? そんなものは向島が作った「マニュアル」には一行も記されていない。


別の棚では、マヨネーズの種類の少なさに憤る主婦が店員を捕まえていた。


「ちょっと、普通のしかないの? 私はカロリーオフが欲しいのよ!」


「うちは一番売れるやるだけしか置かないことになっている。これのみだ。……文句があるなら、他の店に行ってくれ」


これがNEXAの、ひいては城島ファンドの回答だった。


選択肢を捨て、利便性を削ぎ、誇りすらも効率の祭壇に捧げる。

メーカーを一種、サイズを一種類に限定することで、物流のパズルは最短ルートで解かれ、5%の安さが捻出される。


客たちは悪態をつきながらも、結局はカゴの中にその「唯一の選択肢」を投げ込んでいく。

自由の国アメリカで、彼らは「選ぶ自由」を、わずか数ドルの節約のために自ら手放し始めていた。




カリフォルニアに展開した17の拠点。最後の一軒が産声を上げてから10日が過ぎた。

SNS上では、異常な光景が拡散され続けている。開店初日の「ご祝儀価格」だと思われていた信じがたい安値が、2週間経っても1セントたりとも動かないのだ。


「……開店セールではない、というのか。これが彼らの『通常運転』なのか」


NEXA本社の役員室。並べられたモニターには、SNSに投稿された空っぽの牛肉の棚と、その横に記された「他店より5%以上安い」という残酷な数字が映し出されていた。


「正気とは思えん。現場からは悲鳴が上がっている。赤字ギリギリであるというのに……城島ファンドは一体、どこからこの体力を捻出している?」


一人の役員が震える声で問いかけた。配当は? 銀行への利払いは? 投資家への説明は? 彼らの頭にある「経営の教科書」が、目の前の現実を拒絶していた。


「……配当など、彼らは端から考えていませんよ」


窓際で腕を組んでいた専務が、冷ややかに言い放った。


「彼らとの契約書を読み返してください。我々は税引き後利益の8割を献上する。その代わり、彼らは一切の借入金に頼らず、すべて自前のドルキャッシュで運営費を賄っている。金利の変動も、株主の突き上げも、彼らには無縁だ」


役員室に沈黙が降りる。


「つまり、彼らは倒産しない。1セントでも黒字が出る限り、この地獄のような安売りは永遠に続く。」


「化け物、だな」


誰かが呟いた。

役員たちの顔には、恐怖と、そして隠しきれない「悦び」が浮かんでいた。

自席の報酬額を計算しているのだろう。この「化け物」がカリフォルニアを飲み込み、全米へと侵食していけば、自分たちは何もしなくても、2割の「純粋な蜜」を啜り続けることができるのだから。


だが、彼らNEXA上層部たちは知らされていない。

これはあくまで城島ファンドの保険の一つであるという事実を・・・




「なあ、給料は相場より二割もいい。そこは文句ないんだ」


仕事終わりのバーで、同僚がロバーツにグラスを向けながら不満を漏らした。


「だが、ストックオプションの話が一切出ないのはどういうわけだ? このペースで全米に広がれば、上場した瞬間に俺たちは億万長者になれるはずなのに。上の連中、何を出し惜しみしてるんだ?」


「……さあな。まだ地盤を固めている最中なんじゃないか?」


NEXA上層部は株式上場は絶対にしないことを前提にした契約であることを知っているが、そのことを一般社員まで通知することもまた禁止されている。

まだ、知らせるときではないからだ。


アメリカ人社員たちは、自分たちが「巨大な成功物語」の登場人物だと信じている。だが、城島ファンドが彼らに求めているのは、物語の共有ではない。

高い給料という名の「潤滑油」を注がれ、文句を言わずにマニュアルという歯車を回し続けること。


労働の対価は「現金」で即座に清算され、会社の未来という「富」は一滴たりとも分け与えられない。


「様子見、か。そうだといいんだがな」


ロバーツは苦いビールを飲み干した。

夢を見ることを許されない、完璧な雇用。

その徹底した「非・アメリカ的」な構造こそが、城島ファンドがこの地に持ち込んだ、最も静かで強力な毒であることを、まだ誰も気づいていなかった。


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