第3幕 慢心の代償
禍々しい紫色の雲が空を覆い尽くし、遠くに黒々とした魔王城の威容が視認できる距離までやってきていた。
道中の魔物はすべて一撃。どんな強敵が立ちはだかろうと、俺の全属性魔法と強力な遠距離斬撃の敵ではなかった。
(よし、ここまでは順調そのものだな。見た目は完全に卵だけど、これだけの魔法と耐久力があれば魔王城までの道中は問題なさそうだ。この調子なら、魔王戦もこの無敵の強さで押し切れるはずだ)
魔王城の城下町であったろう場所は、今や魔王軍の軍勢に占領され、捕らわれた人々が囚人のように働かされていた。
(よし、魔王城に乗り込む前に、まずはあの街と人々を解放してやるとするか!)
俺は周囲の魔物たちを蹴散らすべく、果敢に街の入口へ突撃していった。
集まってきた魔物たちが「な、なんだあの卵は!?」と驚き慌てる様子に、俺は心の中で小さく笑いながら魔法の準備に入る。これまで通り一撃でさっさと終わらせる。そう考えながら魔法を発動させようとした瞬間――
殺気すら、なかった。
空間そのものが歪んだかのような錯覚。背後の死角、完璧な気配遮断によって、一人の男が「無」から生じるように現れていた。
(なッ――!?)
死角からの超高速の奇襲。鋭利な漆黒の爪が、俺の背後……いや、卵の頂部へと肉薄していた。
「……貰った」
淡々とした、氷のように冷たい声。
最大限の反応速度が働き、俺は反射的に体を捻るように跳ねた。しかし――
――パリィンッ!!!
耳を裂くような澄んだ衝撃音が、俺の全身を貫いた。直撃は避けたにもかかわらず、これまではびくともしなかったはずの殻に、深い亀裂が走っていた。
(嘘だろ……!? 防御力はカンストしてるはずなのに……なんで……!?)
アルツが驚くのも無理はない。卵の殻が破られた理由、それはひとえにゼグの暗殺者としての能力にあった。魔王軍の中でも随一の暗殺者『影爪のゼグ』。彼の奇襲による『急所狙い』と『耐性貫通』という希少スキルにより、本来であれば傷一つ付かないはずの攻撃がアルツに届いたのだ。
「チッ……仕留め損なったか。だが、次は――」
(させるかあ!)
ゼグが追撃のために爪を構え直す。だが、正面から相対した状況であれば流石に俺の方が早かった。
――ズババッ!!!
「ガッ……!? バカな……そんな状態……で……」
俺が怒りの声と共に放った反撃の刃に切り刻まれ、ゼグは回避の暇すら与えられずに一瞬で消滅した。だが、その代償として俺の身体は勢いよく地面へと落下した。
(ぐっ! くそっ、能力を過信しすぎた。ここまであまりにも上手く行き過ぎていたせいで、敵の気配や死角への警戒を怠って無警戒に突っ込んじまった……っ!)
奇襲を受けて初めて、俺は己の慢心と油断の恐ろしさを痛感した。
――ガサ、ガシャッ。
軽い音を立てて地面に叩きつけられ、頑丈だった殻の残骸がそこらに散らばる。視界が不自然に傾き、地面にぬらぬらとした液体が広がっていく。
(あ……ああ……マジかよ……)
視界に映るのは、砕け散った白い殻の破片と、地面に垂れ流しになった黄色と透明の液状の自分の身体。半透明のドロドロとした生身が地面に広がっていく。
(ここまでか……調子に乗って油断した結果がこれかよ……。わりぃ、女神様。俺、魔王に挑む前にやられちまった……)
胸を締め付けるのは、強い衝撃と自らの甘さへの後悔。圧倒的な力を持ちながら、自分の油断ゆえに致命的な隙を晒し、こんな無残な姿で倒れることになるなんて。
『……聞こえますか、アルツ? しっかりしてください!』
暗転しかけた意識の中に、神聖な念話が飛び込んできた。アストライアの声だ。
(アストライア?……すまん、俺の不覚だ……油断して殻を割られちまった)
『何をおっしゃっているのですか! 大丈夫です、諦めてはいけません! 失われたのは、あなたを守る殻だけなのですから!』
(え……? でも、頑丈な殻が失われて、こんな生身の状態じゃ……)
『大丈夫です。あなたの魂と魔力は、その生身の中にしっかりと残っています! 確かに殻という固い防具の一つは失われてしまいましたが、あなたはまだ十分に戦えます!』
言われるがまま、俺は自分の身体に意識を集中させてみる。すると、先ほどまでと比べていくらか感覚は異なるものの、黄身を中心として白身を足のように動かせることに気づいた。
(うわっ……動ける……動けるけど、なんだこの感覚。ヌメヌメしてすごい違和感……)
『そればかりは仕方ありません。ですが、それもあなたの体ですから、動かしているうちに慣れるはずです』
(慣れていいんだろうか……って、ん?……おい待て、なんだこの減り方は!?)
微妙な感情のままそう呟きかけたところで、俺はステータスウィンドウに表示された驚愕の数値に目を見開いた。
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HP:850,008 /850,210
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(減るスピードが、さっきまでの比じゃないぞ!? おいアストライア! 勢いよく最大HPが削られていってるんだが!?)
『あ、あの……落ち着いて聞いてくださいね? それは、殻という保護層を失ったことで卵としての質が急速に劣化、つまり賞味期限が加速してしまったんです』
(賞味期限が加速だって!?)
『は、はい……殻がない状態の生卵は、非常に傷みやすいのです……! さらに、その状態で移動しようと身体を引きずると、空気抵抗や地面との摩擦で生命力の消耗が何倍にも加速してしまうのです……!』
(いや、生卵の傷みやすさまで再現するなよ!! なんでそこだけリアリティたっぷりなんだよ!!)
焦った俺は、なんとか消耗を抑えつつ高速で移動する方法を考えた。
(……そうだ! 空を飛べばいい! 飛行魔法を使えば、地面との摩擦はなくなるだろ! えーっと、飛行魔法の呪文は……って、あれ?)
ステータスウィンドウの膨大なスキル一覧をいくら探しても、『飛行』や『浮遊』といった便利そうな魔法が見当たらない。
(なあ、アストライア。飛行魔法が見当たらないんだが、どうなってるんだ?)
『あ、ええと……その……』
念話の向こうで、アストライアが気まずそうに口ごもった。なぜか、彼女が視線を逸らし、冷や汗を流していそうなイメージが脳裏に浮かぶ。
『戦闘能力を……その、攻撃力と耐久力を極限まで高めることにリソースを割きすぎてしまいまして……移動や飛行といった魔法を付与するのは……』
(……付与するのは? なんだ?)
『忘れてました!』
(やっぱりかよ! この脳筋ポンコツ女神!! こんな大事なところでフォローできるような能力つけ忘れてどうすんだよ!)
『だ、だって! 勇者といえば強力な魔法で敵を薙ぎ払うのが一番重要じゃないですか! それに、あの時は卵の体になることまで考えてませんでしたし!』
(開き直るな!!)
叫びつつも、HPの最大値は一刻一秒ごとに削られていく。
(くそっ、焦っても仕方ない! え~っと……そうだ! 回復魔法なら……)
『アルツ……。回復魔法で癒せるのは、あくまで受けた怪我や傷だけなのです。賞味期限の経過によって失われた『生命力の限界値』は、元には戻せません……』
(……そうだった、今減っているのはHPの最大値だった。くそっ、動けたのは良いが、このままじゃ結局、魔王城に着くころには瀕死になっちまうぞ!)
魔王城は目の前だというのに、俺は摩擦と急速な劣化という理不尽な制約によって、完全に追い詰められていた。
(何か、何か方法は……)
ぬめりけのある白身で地面を這いながら、俺は必死に知恵を絞る。
絶望的な状況の中、ふと俺の視界の端に先ほど砕け散った卵の殻の破片が転がっているのが映った。




