第九章 夜の悶絶と二千歳
迷宮での激闘を終え、勇者一行が辿り着いた宿場町の夜は、静けさに包まれていた。木造の素朴な宿屋の一室。月光が小窓から差し込み、室内を柔らかく照らし出している。 だが、その静寂とは裏腹に、女子部屋のベッドの上では死闘を越えた惨劇――いや、極限の精神的暴走が繰り広げられていた。「――っ!!!!」サーシャ・リナールは、声にならない悲鳴を上げながら、勢いよく枕を壁に向かって投げつけた。
ドカッ!
「トクントクン! トクントクン! うるせ~~~!!!! 静かにしろ私の心臓! 落ち着け! 一千年間を生き抜いた誇り高き闇の王たるこの私に対して、何という失礼な暴動を起こしているのだテメーはーーーーっ!?」
ベッドの上で身をよじるサーシャの全身は、まるで沸騰したヤカンの如く熱気を放っていた。 コーヒー色の美しい肌は、もはや元の色がどこへ消えたのか判別がつかないほど朱に染まり、耳の先端からはシュゥゥゥ……と真っ白な蒸気が絶え間なく立ち上っている。頭を抱え、足をバタバタと激しく暴れさせる少女。 昼間の「最短最速死!」で魔王軍幹部を極小の微塵へと砕いた絶対の暗殺者の面影は、どこを探しても存在しなかった。(あの男……あのレオンハルトという天然たらしは……っ! 『ありがとうサーシャ』だと!? 『最高の仲間だ』だと!? あのような殺し文句を、なぜあの距離で、あのような澄み切った瞳で吐き捨てることができるのだ……! 私の『漆黒』のオーラすら効かないとは、奴こそが真の怪物なのではないか……!?)あの時、握られた手の温もりが、今なお皮膚の奥深くに残っている。 思い出すだけで、全身の血管に激痛のような甘やかな衝撃が走り、脳の思考領域が片端から焼き切れていく。「ふふふ、相変わらず激しい狂いようね、サーシャちゃん」部屋の隅にある椅子に腰掛け、優雅に紅茶を嗜んでいた聖女エレノアが、半ば呆れ、半ば心底面白そうに微笑んだ。「昼間の大活躍は凄かったわよ? まさかあんな凄惨なオーラを纏って敵を瞬殺するだなんて。でも……今のあなたを見ていると、あの格好良い姿が夢だったんじゃないかって思えてくるわ」「うるさい! 黙れエレノア!」サーシャはベッドから跳ね起き、真っ赤な顔でエレノアを指差した。指先がガタガタと震えている。「私を弄ぶな! 私はただ……あの男の無警戒さに呆れていたに過ぎん! あの状況で暗殺者たる私の手を握るなど、言語道断! 隙だらけだ! 万死に値するのだ!」「はいはい、ツンデレツンデレ」エレノアはティーカップをソーサーに置くと、悪魔的な笑みを浮かべてサーシャへと接近してきた。「でもねぇ、サーシャちゃん。いつまでもそんな調子じゃ、レオンハルトを誰かに取られちゃうわよ? 彼はああ見えてモテるんだから。町に行けば女の子から声をかけられるし……そろそろ、もっと進んだ関係にならなくていいの?」「す、進んだ関係……!?」サーシャの思考がフリーズした。「そうよ。例えば……お礼のハグとか。ううん、もっと素直になって……『口唇接触』とかね♪」
ドグゥゥゥゥン!!!!
サーシャの脳内で、巨大なメテオが落石した。
「く……口唇接触――ッ!!!!????」
声が引きつり、裏返る。
「き、貴様……今なんと言った!? こ、こうしん……くちびる……触れ合う……だと!? バ、バカな! 正気か!? 肌と肌の接触ですら意識が飛ぶというのに、粘膜と粘膜の至近距離結合など……! そのようなことをしたら……そのようなことをしたらぁぁぁっ!」
「あら、妄想しちゃった?」
エレノアが楽しそうに顔を覗き込んでくる。
「想像してみて? 静かな夜、二人きりの部屋で……レオンハルトがあなたの頬をそっと撫でて……顔が近づいてきて……唇が、重なるの……」
「あ……あ……あ……っ!」
サーシャの脳内で、恐ろしいほどの解像度で映像が再構築され始めた。月明かりの下、目の前に迫るレオンハルトの整った顔立ち。 熱い息遣い。 重なる、互いの唇。ドッ!!!!サーシャの顔面が爆発的な熱を帯びた。 赤いを通り越して、コーヒー色の肌がどす黒い朱色へと変色し、ついに目から光が消え去った。「ぐはっ……!?」サーシャは胸を押さえ、そのままベッドの上に吐血する勢いで崩れ落ちた。 ビクン、ビクン、と身体が足先まで痙攣を起こしている。「あ、あら……煽りすぎたかしら?」さすがのエレノアも少し焦って駆け寄った。「ちょっと、サーシャちゃん!? 大丈夫!? 息をして!」「……はぁ……はぁ……」サーシャは天井を仰ぎ見ながら、虚ろな瞳で消え入りそうな声を発した。
「無理だ……。生物は殺せても……! 恋心はころせない……!!!!」
一千年間、立ちふさがるあらゆる生命を滅ぼしてきた最高峰の殺戮者。 竜をも一撃で裁ち切り、魔王の幹部すら最短最速で葬り去った絶滅の刃。そのすべての武功と暗殺術をもってしても、己の胸の中に芽生えた、たった一つの小さな恋心を打ち消すことなど不可能なのだ。「私……私は……暗殺者なのだぞ……。血と惨劇の中にしか生きられない怪物なのだ……」サーシャは弱々しく両手で顔を覆った。「それなのに……なぜあの男の顔を思い浮かべるだけで……こんなにも胸が苦しくて……幸せな気持ちになってしまうのだ……っ」絞り出すような、切なくも初々しい告白。 エレノアはクスッと柔らかく微笑むと、サーシャの頭を優しく撫でた。「それが『好き』ってことよ、サーシャちゃん。一千年生きていようが、どれだけ強くても関係ないわ。恋をした女の子は、みんな等しく臆病で、愛おしいの」「く……」サーシャは顔を背けた。 しかし、エレノアの手の優しさに、少しだけ強張りが解けていく。「……そ、そんな恋は……っ!」サーシャは最後の抵抗とばかりに、枕に顔を埋めながら叫んだ。「そ、そんな恋は二千歳を超えてからじゃないと……早すぎるのだーーーっ!!!!」「あはは! あと一千年も待たせる気!? レオンハルト、人間だから寿命で死んじゃうわよ!」「あ……っ!? そうであったーーーっ!?」自分の余命計算のミスに気づき、再び大パニックを起こしてベッドの上で芋虫のように転がり回るサーシャ。夜はどこまでも深く、彼女の悶絶の叫びは、月明かりの宿場町へと静かに吸い込まれていくのであった。一千年の時を生きた漆黒の暗殺者。 彼女の過酷で、そして不純すぎるほどに純粋な初恋の闘いは、まだまだ終わる気配を見せないのだった。




