第八章 殺せなくなること
血の匂いと焦土の熱気が残る迷宮の最深部において、静寂はどこまでも重く、そして深かった。砕け散った魔王軍幹部の死骸が黒い塵となって空気中に溶けていく中、サーシャ・リナールは硬直したまま動くことができずにいた。(終わった……。私の平穏な潜伏生活も、何より……すべてが、完全に終わったのだ)体表を覆っていた漆黒のオーラは完全に消失していた。 だが、その余韻はあまりにも残酷な証拠として、この場に集う全員の網膜に焼き付いている。数千数万の命を屠らねば決して辿り着くことのできない、絶滅の証たる「漆黒」。 それを白日の下に晒してしまった以上、もはや「身寄りのない哀れなダークエルフの少女」という偽りの仮面を取り繕うことなど不可能であった。重戦士ガルドと宮廷魔導士リゼルは、依然として解けない恐怖に身体を強張らせ、サーシャから一定の距離を保っている。彼らの瞳に宿っているのは、仲間に対する愛おしさなどではなく、圧倒的な捕食者に対する本能的な拒絶と警戒であった。(……当然だ。これが私という存在の真実。一千年のあいだ、血の海を歩み続けてきた化け物の本性なのだから)サーシャはぎゅっと拳を握りしめ、自嘲気味に下を向いた。 胸の奥が、焼けつくように痛む。誰かに怖がられることなど、千年前から日常茶飯事であった。世界中から忌み嫌われ、恐れられ、遠ざけられることこそが、最高峰の暗殺者として生きてきた彼女の誇りですらあったはずだ。なのに、なぜこれほどまでに息が苦しいのか。 なぜ、視界が滲んで歪んでしまうのか。
(嫌われた……。あの男に、恐ろしい化け物だと……知られてしまった)
恐る恐る、サーシャは目線を上げた。 そこには、血を吐き、膝をついたまま自分を見つめる勇者レオンハルトの姿があった。彼の青い瞳は、真っ直ぐにサーシャを捉えている。 その視線に耐えかね、サーシャは咄嗟に数歩後ずさった。「ち……近寄るな、勇者」絞り出すような声だった。 普段のポンコツな慌てぶりとは違う、本当に弱々しく、傷ついた声。「見たであろう……。私は……お前たちが倒すべき魔物以上に凄惨な命を奪ってきた、最悪の暗殺者なのだ。お前たちが追う悪党どもなど、私にとっては爪先の垢ほどにも及ばん……」サーシャは短剣の柄に手を取り、拒絶するように己の身体を抱きしめた。「お前が私に注いできた優しさも、温もりも、すべて反吐が出るほど滑稽だったのだぞ。私はいつでもお前の首を切り落とせる機会を狙っていたのだ。だから……私を刺せ。拒絶しろ。いつものように爽やかな顔で『仲間だ』などと……気安く吐き捨てるのはもうやめろ……っ!」血を吐くような叫びが、無機質な洞窟に虚しく響き渡る。サーシャは目を背けた。 レオンハルトの顔に浮かぶであろう、失望、憎悪、そして恐怖の表情を見たくなかったからだ。静かな足音が、近づいてくる。ザッ、ザッ。怪我を負った脚を引きずる、重く頼りない足音。「……! 来るなと言っているのが聞こえないのか!?」サーシャが短剣を抜き放とうとした、まさにその瞬間。すっ。大きな、温かい手が、サーシャの震える細い手を優しく包み込んだ。
「……え?」
サーシャの思考が止まった。見上げると、そこには血と泥に汚れながらも、陽だまりのように穏やかに微笑むレオンハルトの顔があった。 そこには恐怖の欠片も、拒絶の意も存在しない。あるのは、深く、澄み渡った感謝と愛おしさだけであった。
「……ありがとう、サーシャ」
柔らかい声が、サーシャの耳腔をくすぐる。
「お前が……俺を守ってくれたんだな」
「な……なにを……何を言っているのだお前は!?」
サーシャは混乱に目を白黒させ、手を振り払おうとした。だが、レオンハルトの手は力強く、それでいて決して彼女を傷つけない絶妙な加減で握りしめられている。「正体が見えなかったか!? あの漆黒のオーラが見えなかったのか!? 私は……私は人を殺すことしかできない化け物なのだぞ!?」「見えたよ」レオンハルトは包み込むような瞳で、真っ直ぐにサーシャを見つめ返した。「恐ろしいほどの力だった。ガルドやリゼルが怯える気持ちもわかる。だが……俺にはそれ以上に、お前がどれほどの覚悟でその力を解き放ってくれたかが伝わってきた」レオンハルトはもう一方の手も重ね、サーシャの手を慈しむようにしっかりと握りしめた。「お前は、自分が傷つくことも、俺たちに正体がバレることも恐れずに……俺の命を救うために前に出てくれたんだろう? 理由がどうあれ、俺を助けてくれたのは事実だ。俺の命はお前に救われた。それに……」レオンハルトは少し首をかしげ、いたずらっぽく微笑んだ。「過去にどんな理由があろうと、今目の前にいるお前が、誰よりも繊細で、優しくて、俺のために命を張ってくれる最高の仲間だってことは……俺が一番よく知っている」「……っ!?」サーシャの胸の中で、何かが音を立てて崩壊した。拒絶される覚悟はしていた。 斬りかかられる準備もしていた。 だが――これほどまでに無防備で、無条件な受け入れなど、一千年の人生において一度として経験したことがなかった。温かい。 手から伝わる彼の熱が、血液を通じてサーシャの全身へと巡っていく。
(なんだ……これは……)
サーシャの手から力が抜け、短剣がカランと音を立てて石畳に転がった。彼女の頭脳の中で、一千年間揺らぐことのなかった絶対の命題が激しく旋回し始める。
(私は……なぜこいつを殺せない?)
隙なら山ほどあった。 今この瞬間だって、至近距離で無防備に微笑むこの男の喉元を、爪一本で引き裂くことなど容易い。一千年の経験が、最も効率的な殺害手順を勝手に脳内で弾き出している。なのに、身体が動かない。 殺意を練り上げようとすればするほど、胸の奥から湧き上がる温かな感情が、それを優しく包み込み、消し去ってしまうのだ。
(そうか……)
サーシャは、呆然と己の手を見つめた。かつて、彼女にとって殺戮とは「存在証明」であり「生存の術」であった。人を殺すことでしか己の輪郭を保てず、だからこそ一千年の時間を殺意だけで塗り潰してきた。だが、今の彼女の手は――人を殺すためではなく、この男の温もりを守るために振るわれたのだ。殺意の代わりに胸を満たす、狂おしいほどの愛おしさ。 触れられるだけで胸が締め付けられ、嫌われることが死ぬことよりも恐ろしく思える、この奇妙で愚かしい感情。
(これが……恋というものなのか)
サーシャの中で、落雷のような衝撃とともに答えが結びついた。
(恋とは……殺せなくなることなのか……)
一千年の時を経て、最悪の暗殺者が辿り着いた境地。 誰かを殺すことによって世界と繋がってきた怪物が、初めて「殺さないこと」「守ること」によって誰かと繋がる道を理解した瞬間であった。
フッ……。
サーシャの身体から、微かな光が立ち上った。それは、かつて数万人を殺め、罪の重さとして彼女を縛り続けていた絶滅の証――「漆黒」の残滓であった。だが、その漆黒はもはや邪悪な殺意を孕んではいなかった。 光すら飲み込む闇は、まるでレオンハルトから贈られた温もりを閉じ込めるかのように柔らかく形を変え、深みのある漆黒の輝きへと変化していく。一千年の罪の色が、ただ一人の男を守るための「絶対の盾」へと昇華したのだ。「……ふん」サーシャは顔を背けた。 だが、その頬は夕焼けのように真っ赤に染まっており、握られた手を振り払おうとする力はどこにも入っていなかった。
「……バカめ。本当に、救いようのないお人好しだ……」
「はは、よく言われるよ」
レオンハルトが爽やかに笑う。後方でそのやり取りを見ていたガルドとリゼルは、深々と溜め息をついた。「ハァ……なんだありゃ。命がけの戦闘の直後に、二人だけの世界に入りやがって……」 ガルドが呆れたように頭を掻く。「……警戒していた私が馬鹿みたいね」 リゼルも脱力したように眼鏡をかけ直した。「凄まじい殺戮者であることは間違いないのでしょうけれど……あの男の前では、ただの恋する乙女でしかないみたいだわ。……全く、やりにくいことこの上ないわね」二人の警戒心は、完璧に毒気を抜かれて消え去っていた。サーシャは胸の奥で静かに跳ねる拍動を感じながら、握られたレオンハルトの手の温もりにそっと身を委ねた。一千年間、闇の中だけを歩んできた足跡。 その果てに出会った愚かで温かい光。殺せなくなった暗殺者は、照れくささと切なさの混ざり合った感情に包まれながら、初めて己の心に宿った一筋の光を、愛おしそうに抱きしめるのであった。




