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第七章 漆黒の真実と「最短最速死!」

 迷宮の最深部に漂う空気のすべてが、一瞬にして死滅した。光を吸い込み、空間の輪郭すら歪める絶対的な闇――「漆黒」。 少女の姿をしたサーシャ・リナールの体表から滾り溢れるそのオーラは、紫黒色の魔導結晶が発する不気味な光すら塗り潰し、洞窟全体を凍てつく死界へと変貌させていた。


「ひ……ヒィィッ!?」



 魔王軍幹部、執行者ヴァルゴスは、巨竜の骨から削り出された巨大な大斧を構えたまま、全身の筋肉を硬直させていた。 魔族としての矜持、幹部としての傲慢、身に纏う凄まじい魔力。それらのすべてが、目の前の小さなダークエルフから発せられる絶望的な圧力の前に、無価値なゴミ同然へと分解されていく。(な、なんだ……なんなのだこの怪物は!? 魔王様ですら、これほどの密度を持った純粋な『殺意』など放たれんぞ……!?)ヴァルゴスの全身の毛穴から、冷たい汗が噴き出す。 ダークエルフの纏うオーラの色は、彼らが積み重ねてきた殺戮の歴史と命の重さに比例する。灰色から始まり、濃い黒へ。そして最上位に位置するのが「漆黒」。後方で叩きつけられ、血を吐いていた重戦士ガルドが、震える手で地面を這いながら絶句していた。「お……おい……見ろよ、あのオーラ……。黒いどころの話じゃねえ……光が……光が吸い込まれて消えていくだと……!?」「信じられない……」 宮廷魔導士リゼルが、落ちた眼鏡を拾うことすら忘れ、青ざめた唇をガタガタと震わせる。「ダークエルフの伝承に存在する、数千数万の生贄を屠った者にのみ発現する絶滅の証……。み、見たことがねぇ……あんな黒……! あの子は……一体何人の命を殺せば、あの色に届くというの……!?」一千年のあいだ、立ちふさがる者すべてを無慈悲に刈り取り続けてきた罪の歴史。 それが、サーシャの身に宿る「漆黒」の正体であった。だが、今のサーシャの胸の奥にあるのは、過去の虚無な殺意ではない。 背後に横たわる金髪の青年――レオンハルトの温もりを守るという、千年間で初めて得た確固たる意志。サーシャは短剣の柄を逆手に握り直し、重心を深く、低く沈めた。



「お前……魔王の幹部と言ったな」



 酷薄な声が、凍りついた空間に小さく響く。 そこには先刻までの赤面も、ポンコツな言動も微塵も存在しない。一千年の血の修羅場を潜り抜けてきた、絶対なる殺戮者の面容。「勇者の命を奪うと言ったな。……この私から、あの男を奪おうとしたな」「くっ……調子に乗るなよ小娘がぁぁぁっ!」極限の恐怖に耐えかねたヴァルゴスが、狂乱の叫びとともに大斧を振り下ろした。 巨躯に似合わぬ必殺の速さ。大気を引き裂き、衝撃波が石畳を爆砕しながらサーシャの頭上へと迫る。



だが――。



シュッ。



サーシャの姿が、最初からそこに存在しなかったかのように消え去った。



「なっ――!?」



 大斧が虚空を穿ち、床に深々と突き刺さる。 ヴァルゴスの膨大な戦闘勘が、頭上の空間に跳ね上がった死の気配を捉えた。瞬時に反応し、巨大な肘で上方へ向けて迎撃の打撃を繰り出すヴァルゴス。魔王軍幹部にふさわしい、隙のない即応。しかし、サーシャの動作は彼の思考速度のさらに先を行っていた。空中での微細な体幹操作。ヴァルゴスの肘打ちのわずかな外側へと滑り込み、その巨大な腕を足場にしてトン、と軽やかに踏みつける。トスッ。「一歩」静かな声とともに、サーシャの肘(エルボー)がヴァルゴスの顔面甲冑へと叩き込まれた。ガゴォォン!「グハッ!?」重甲冑が粉砕され、ヴァルゴスの巨体が激しく揺らぐ。 間髪入れず、サーシャは空中で身体を半回転させ、右足の膝をヴァルゴスの喉元へ向けて垂直に打ち下ろした。ドガッ!「ガハッ……あ……!?」気道をつぶされ、眼球を血走らせるヴァルゴス。 魔法でも、派手な魔力放出でもない。それは一千年間、相手の肉体を最も効率よく破壊するためだけに削ぎ落とされた、極限の暗殺体術。「踏み込み」着地と同時に、サーシャの姿が再び霧のように揺らぐ。ヴァルゴスは半狂乱になりながら、残った左腕で周囲を薙ぎ払おうとした。だが、サーシャの身体はすでに彼の懐深く、絶対的な死角へと潜り込んでいた。関節の可動域を無視した、流麗にして残酷な身のこなし。 刃が閃く。



シュババババッ!



「ギャアアアアアッ!?」



 ヴァルゴスの両腕の腱が、正確無比に切り裂かれた。大斧を支える力を完全に失い、巨大な武器が虚しく床へと転がり落ちる。肘。膝。短剣。 一切の無駄な予備動作を排除した至高の幾何学。 一歩踏み込むごとに肉が削がれ、骨が砕かれ、内臓が破壊されていく。後方で見守るガルドとリゼルは、呼吸することすら忘れてその光景を注視していた。「強……強いなんてレベルじゃねえ……」 ガルドの声がガタガタと震える。「技じゃねえ……アレはただの技術じゃねえんだ……! 一千年間、殺すことだけを研ぎ澄まし続けた怪物だ……!」「ええ……」 リゼルが蒼白な顔で頷く。「魔法の詠唱も、魔力の練り上げすら必要としていない……。ただ最小限の動きで、確実に敵の生命機能を停止させるための連撃……!」ヴァルゴスは、すでに反撃の意思すら失っていた。 全身から噴き出す鮮血。漆黒の甲冑はズタズタに引き裂かれ、巨躯が膝から崩れ落ちる。



「ひ……ひぃ……助け……魔王様……!」



 命乞いの言葉すら、サーシャの耳には届かない。サーシャは二振りの短剣を胸前で交差させ、静かに脚の筋肉を締め上げた。 全身から放たれる漆黒のオーラが、極限の収縮を起こし、二枚の刃の先端へと集約されていく。千年間、幾千幾万の命を奪い去ってきた、彼女の絶対の哲学。「最短」サーシャの身体が、一瞬で消絶した。「最速死!」



――ズバァァァァァァン!!!!



 空間そのものを裁断するような、一筋の漆黒の線が走った。次の瞬間、サーシャはヴァルゴスの背後で静かに立ち尽くしていた。 短剣を逆手から正手へと返し、一滴の血もついていない刃を鞘へと納める。カチリ。静かな納刀の音が響いた。数秒の静寂。ズザァッ……!魔王軍幹部ヴァルゴスの巨体が、斜め一直線に切断され、大量の鮮血とともに石畳へと崩れ落ちた。 その魂も、魔力も、生命の残り香すらも、サーシャの放った漆黒の連撃によって完璧に叩き潰され、消滅したのだ。圧倒的な無双。 魔王軍の幹部すら、彼女にとっては「最短最速死!」の哲学に従って処理される作業に過ぎなかった。迷宮の最深部に、再び死のような静寂が戻ってくる。サーシャはゆっくりと振り返った。全身を包む漆黒のオーラが、シュゥゥ……と名残惜しそうに彼女の体内へと吸い込まれて消えていく。そこに立っていたのは、数千の生贄を屠った絶絶の暗殺者。ガルドとリゼルは、恐怖のあまり身体を強ばらせ、身構えた。 正体を明かしたこの怪物が、次に自分たちへ刃を向けるのではないかという恐怖に囚われて。



だが――。



 サーシャの視線は、ガルドたちなど見向きもしていなかった。 彼女の瞳が捉えていたのは、床に倒れ込み、呆然と自分を見つめている金髪の青年――レオンハルトただ一人であった。



とくん。



 漆黒のオーラが完全に消え去った瞬間、サーシャの胸の奥で、再び甘やかな拍動が跳ね上がった。(あ……私……ついに見せちゃった……)それまでの酷薄で冷酷な貌(かお)が、嘘のように崩れ去っていく。コーヒー色の美しい肌が、一瞬にして爆発的な赤みを帯び始めた。 耳の先から蒸気が立ち上り、短剣を握っていた手がガタガタと激しく震え出す。(見せちゃった見せちゃった見せちゃったーーーーーっ!? 私の真の姿! 一千年の殺戮者としての凶悪すぎる立ち振る舞い! 『最短最速死!』とかいうイタすぎる決め台詞までバッチリ聞かれちゃったーーーッ!!)サーシャの脳内が大パニックの渦に飲み込まれる。「サ……サーシャ……?」レオンハルトが、傷ついた身体を引きずりながら、不思議そうに彼女の名を呼んだ。「ひゃあぁぁぁっ!?」サーシャは悲鳴を上げて三メートル後方へと跳ね飛んだ。「き、近寄るな勇者! 私は……私は恐ろしい極悪ダークエルフなのだぞ! 一千年間人を殺し続けてきた、血も涙もない怪物なのだ! お前など指一本で……指一本で……っ!」威嚇しようとするものの、顔が真っ赤すぎて説得力が皆無であった。一千年の暗殺者としての圧倒的な強さと、初恋のトキメキに対する圧倒的な弱さ。 その極限のギャップを晒しながら、サーシャ・リナールは再び訪れた恋の混乱の中へと頭から転がり込んでいくのであった。


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