↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/10

第六章 魔王軍幹部の急襲

 迷宮の最深部――そこは古代の理が壊れ、禍々しい魔気が霧となって立ち込める絶望の空間であった。天井からは無数の歪な晶石が垂れ下がり、紫黒色の不気味な光を脈動とともに放っている。空気は粘つき、息を吸い込むたびに肺液が焼けつくような錯覚すら覚える。「……皆、警戒を緩めるな。ここから漂う気配は、これまでの魔物とは根本的に異なる」聖剣を構える勇者レオンハルトの声にも、かつてない緊張が走っていた。 その背後で、重戦士ガルドが巨盾を握り直し、宮廷魔導士リゼルが魔導書を開き、聖女エレノアが神聖護符を握りしめる。サーシャ・リナールは、一行の最後尾で静かに息を潜めていた。 コーヒー色の肌に流れる汗。顔の熱は冷めていたが、彼女の感覚器官は限界まで研ぎ澄まされていた。(この匂い……この肌を刺す不快な魔力波形……。間違いない。魔王の直属、幹部級の魔人か)サーシャの千年の記憶が警鐘を鳴らす。 過去に何体も屠ってきた害虫の同類。だが、今の勇者一行の戦力で真っ向から挑むには、あまりに危険すぎる過酷な存在であった。



ド……ン。



 空間が歪み、霧の奥から巨大な人影が姿を現した。二本の禍々しい角を天に突き立て、漆黒の重甲冑を纏った魔人――魔王軍幹部、執行者ヴァルゴスである。その手には、巨竜の骨を削り出して作られた巨大な大斧が握られていた。「クハハハハ! こんな辺境の遺構にネズミが迷い込んだかと思えば……勇者レオンハルトではないか!」ヴァルゴスの声が迷宮全体を激しく揺さぶる。 その身から解き放たれた圧倒的な圧迫感(プレッシャー)に、ガルドの脚がピキリと不自然に強張った。「チッ……上等だ! 魔王の犬がぬけぬけと現れやがって! 俺の大盾で叩き潰してやる!」「待ちなさいガルド! 相手の魔力波形が異常です、単独で突っ込んでは――」リゼルの制止も空しく、ガルドが豪快な雄叫びとともに踏み出した。巨大な盾を前面に掲げ、全身の重量を乗せた突撃。だが、ヴァルゴスは冷酷な嗤いを浮かべ、大斧をただ一振り、無造作に振り下ろした。



ズドォォォォン!!!!



「ぐあぁぁぁぁっ!?」



 凄絶な衝撃音が轟く。 数々の魔獣の爪弾を弾き返してきたガルドの自慢の大盾が、まるでガラス細工のように脆く粉砕された。ガルドの巨体が血飛沫とともに弾き飛ばされ、壁面へ激突して吐血する。「ガルドっ!?」「クハハ! 不快な盾持ちめ! 次はお前だ、勇者!」ヴァルゴスは大斧を旋回させ、一瞬で間合いを詰めた。 速い。その巨体からは想像もつかない超高速の踏み込み。レオンハルトは即座に聖剣を交差させ、大斧の軌道を外そうと試みた。バキンッ!「くっ……!?」衝撃がレオンハルトの全身を打ち叩く。 骨が悲鳴を上げ、膝が屈する。聖剣が火花を散らす中、ヴァルゴスの放った極大の魔力波がレオンハルトの胴体を直接穿った。「ガハッ……!?」鮮血が舞った。 レオンハルトの体躯が崩れ、膝が重く石畳につく。金髪が血と泥に汚れ、正義感に満ちていた青い瞳から光が失われかけていた。「レオンハルトっ! 嫌……嫌よ! 回復魔術を――」エレノアが半狂乱になって杖を構えようとするが、ヴァルゴスから放たれる邪気がそれを遮る。「無駄だ聖女! 貴様らの力では、この男の死をコンマ数秒遅らせることすら出来ん! さあ勇者よ、その首を魔王様への土産とさせてもらおう!」ヴァルゴスが大斧を極限まで引き絞り、レオンハルトの首元へ向けて振り下ろそうとする。絶体絶命。 ガルドは沈黙し、リゼルは魔力を枯渇させ、エレノアは恐怖に崩れ落ちていた。その中で――傷つき、倒れかけるレオンハルトが、虚ろな瞳で最後尾の少女を見つめた。「……逃げろ……サーシャ……」血を吐きながら、自分ではなく、彼女の無事を祈る声。「……早く……走れ……お前だけは……守る……」自分が死に直面しているというのに。 最後まで、ただの「無力な少女」だと思い込んでいるサーシャの身を案じ、手を差し伸べようとする愚かな男。



――とくん。



 サーシャの胸の奥で、小さな、しかし決定的な音が響いた。これまでの動悸(トクントクン)とは違う。 赤面も、動揺も、頭のネジが飛ぶ感覚も存在しない。静謐にして、絶対的な熱。千年間、彼女の胸を満たしていたのは「殺戮の記憶」であった。誰をいかに効率よく殺すか。どんな断面で肉を裁つか。それだけが彼女の世界のすべてだった。だが今、彼女の全身の細胞を突き抜けたのは――未だかつて経験したことのない、狂おしいまでの衝動。



(……あいつを……殺させない)



 守りたい。 この命に代えても、あの金髪の男の笑顔を、真っ直ぐな瞳を、無知で愚かしい温もりを、壊させはしない。シュッ。空気の音が消えた。大斧がレオンハルトの首を切り落とす、まさにその零点一秒前。ヴァルゴスとレオンハルトの隙間に、一人の少女が滑り込んでいた。「……え?」レオンハルトが目を見開く。目の前に立っていたのは、華奢な背中。 コーヒー色の肌をした、弱々しく怯えていたはずのダークエルフの少女。サーシャは振り返りもしなかった。 ただ、静かに、氷のように冷ややかな声で告げた。「……下がれ、勇者」「サ……ーシャ……?」その瞬間、世界から一切の音が奪われた。サーシャの体表を覆っていた、偽りの薄灰色のオーラ。 「そこそこ強いダークエルフ」を演じるための薄汚い皮膜が、ピキピキと音を立てて亀裂を生じさせていく。内側から溢れ出すのは、抑えきれぬ真実の力。



灰色から、濃い黒へ。 黒から、光すら飲み込む闇へ。



ブワァァァァァァッ!!!!



漆黒。



 歴史上、数人しか到達したことのない、数千何万の殺戮の果てに与えられる極悪の証明。 それが、サーシャの全身から怒涛の勢いで噴出し、迷宮の最深部を極夜の闇へと塗り潰していった。「な……なんだ……このオーラは……!?」大斧を振り下ろそうとしていたヴァルゴスの腕が、恐怖によって凍りついた。 魔王軍幹部たる彼の本能が、目の前の存在を「狩る者」ではなく「圧倒的な絶対捕食者」として認識し、全身の毛穴から冷汗を噴出させる。「お、おい……嘘だろ……」崩れ落ちていたガルドが、粉砕された盾の隙間から絶句して目を見開いた。「い、今まで何人を殺せば……あんな漆黒を纏えるんだ……!?」「み、見たことがないわ……あんな黒……! あの子は……あの子の正体は……!」リゼルがガタガタと膝を震わせ、魔導書を落とした。 そこにいたのは、守られるべき可憐な少女などではなかった。一千年の血の歴史をその身に宿した、殺戮の絶対者。サーシャはゆっくりと短剣を二振、逆手に構えた。普段のポンコツな表情は完全に消え去り、その瞳は冷酷にして至高の殺意に満ち溢れている。「私は、私を知られてもいい」サーシャは低く呟き、初めて己の真の姿を勇者一行に晒した。「だが――」彼女はチラリと背後のレオンハルトを見つめた。 その瞳の奥には、漆黒のオーラすら溶かすほどの、一筋の温かな光が宿っていた。



「勇者の命は、守らせてもらう!」



 漆黒のオーラが渦を巻き、サーシャの姿を闇の異形へと変貌させていく。 言葉の意味を、己の心の変化を、彼女は完全に自覚していた。これまで人を殺すためだけに磨き上げてきた千年の殺戮術。 それが今、初めて――たった一人の男を守るための力へと変わる瞬間であった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。