第五章 近接身体接触のパニック
ひんやりとした湿気と、苔むした古石の匂いが立ち込める暗闇。 勇者一行が進むのは、古代王国が遺したとされる大規模な地下遺構、通称『黒層の迷宮』であった。通路の幅は人が二人並んで歩くのがやっとという狭隘さであり、天井からは絶え間なく水滴が落ちて冷たい音を奏でている。壁面に埋め込まれた魔導ランプの微かな光だけが、暗鬱な一本道を頼りなく照らし出していた。「……皆、足元に気を配ってくれ。古代の遺構だけに、複雑な防衛機構が生きて残っている可能性がある」隊列の先頭を行く勇者レオンハルトが、腰の聖剣の柄に手を添えながら注意を促した。そのすぐ後ろを歩むサーシャ・リナールは、壁に背を押しつけるようにして一定の距離を保っていた。(ふん、警戒など今更言われずとも分かっている。この程度の古い建築様式、踏み込みの深さと石畳の沈み込みを見れば、どこに罠が仕掛けられているかなど一目瞭然だ)サーシャの頭脳には、千年のあいだに幾度となく攻略してきた数々の難攻不落な迷宮の記憶が刻まれている。 床の微妙な傾斜、壁の装飾の左右不均衡、空気の流れの途切れ。彼女の鋭利な感覚は、十歩先に設置された高負荷重量式の落とし穴トラップをすでに正確に感知していた。(あそこを踏めば、即座に床が崩落し、底に植えられた無数の毒槍の犠牲となる仕組みだな。実に古典的で芸のない罠だ。私ならば何食わぬ顔で罠のフチをすり抜け、後続の羽虫どもだけを滑落させて全滅させるのだが……)サーシャは冷ややかな思考を巡らせながら、自身の細い足元に目線を落とした。(まあいい。わざわざ教える義理もない。あの金髪の男が不注意に足を滑らせ、下に落ちそうになったところを、私が襟首を掴んで引き上げてやればいい。そうすれば『助けてくれてありがとうサーシャ』と感謝され、私の優位性が保たれる……クックック)完璧なシナリオを脳内で描いたサーシャは、心の中で邪悪な笑みを浮かべた。しかし、彼女の計算には致命的な欠陥がひとつ存在した。 レオンハルトという男の、常識を遥かに逸脱した直感と、異常なまでの他者への保護本能である。「ん……? 足元が……」罠の設置ポイントにレオンハルトの一歩が差し掛かった、まさにその瞬間。
カチリ。
微かな石の噛み合わせ音が狭い通路に響き渡る。(かかった! よし、床が抜けるぞ――)サーシャが襟首を掴むべく指先に力を込めた瞬間、石畳がすさまじい速度で下方へと開放された。同時に、底から立ち上る凄惨な毒液と鋼鉄の槍の気配。当然、落ちるのは先頭を歩いていたレオンハルトのはずであった。だが、レオンハルトの反応速度は、サーシャの予測を遥かに上回っていた。「しまっ――トラップか! サーシャ、危ない!!」「……は?」レオンハルトは崩れ去る床を跳躍の踏み台にすると同時に、なぜか後ろにいたサーシャの方へ向かって全力で体を翻したのだ。レオンハルトの頭の中には『自分が助かること』など微塵もなく、『狭い通路で巻き込まれる危険のある後ろの少女を守る』という思考しか存在しなかった。
バッ!
「……え? あ、ちょっと――!?」
サーシャの視界が目まぐるしく回転した。次の瞬間、彼女の背中に回されたのは、鍛え上げられた青年の力強い腕。 膝裏にもう一本の腕が差し込まれ、サーシャの可憐な身体はふわりと宙に浮き上がった。そして、力強く引き寄せられる。ドサッ!レオンハルトは崩落口のギリギリの手前、安全な床の上へと見事な着地を決めた。 その腕の中には、完璧な形で抱え上げられたサーシャの姿があった。そう――世に言う『お姫様抱っこ』の体制である。「ふう……危なかった。間一髪だったな、サーシャ。怪我はないか?」安堵の息を吐きながら、レオンハルトが覗き込んでくる。 顔面間距離、わずか五センチメートル。 互いの吐息が混ざり合い、レオンハルトの胸板から伝わる脈動と温もりが、サーシャの薄い服を通して直接肌に伝わってくる。サーシャの脳内で、千年の記憶と全戦闘論理が崩壊する音が響いた。
ガラガラガラガラ――ポトン。
(あ……あ……あ……)
静寂。 死よりも深い静寂が、サーシャの意識を包み込む。指先から肩、腰、腿、背中に至るまで、身体のあらゆる部位がレオンハルトの肉体と強固に密着している。逃げ場のない、完璧な包囲。(肌と肌……服と服……全身が……彼と……同化している……?)サーシャの脳内中央処理装置が、エラー画面を連続吐出し始めた。(ご……『全身接触』……だと……!?)関節接触(指先がかすった)ですら白目を剥いて倒れた彼女である。 顔面異常接近(数十センチ)ですら呼吸困難を起こした彼女である。それが今、全身を隙間なく抱きかかえられるという、極限の密着状態に晒されているのだ。 もはや容量超過という生ぬるい表現では追いつかない。ポッ……。サーシャのコーヒー色の肌が、瞬く間に赤黒く加熱していく。 耳の先端から蒸気のような熱気がシュゥゥゥ……と立ち上り始め、目は虚空を見つめたまま完全にフリーズした。
トクントクン! トクントクン! トクントクン!
心臓の拍動はもはやドラムロールの如く高速化し、体内血管の圧力が限界値を突き破ろうとしている。「お、おい……サーシャ? 本当に大丈夫か? 顔がすごい熱気なんだが……!」レオンハルトが心配そうに腕の中の少女を揺すった。グラグラ。サーシャの首が、人形のように頼りなく揺れる。 口からは「あう……あう……」という、一千年の殺戮者とは思えぬ謎の言語が漏れ出していた。(ダメだ……ネジが……私の頭のネジが……一本残らず吹き飛んでいく……! レオンハルトの胸筋が……固い……熱い……! 息が……息の吸い方が思い出せない……!!)「レオンハルト! 早くその子を下ろしなさい!」後方から駆け寄ってきた聖女エレノアが、半ば呆れ、半ば可哀想なものを見る目つきで叫んだ。「これ以上抱きしめていたら、彼女の精神が崩壊してしまうわ! 見なさい、目が完全に泳いでいるでしょう!」 「えっ!? あ、ああ、すまない!」レオンハルトは慌ててサーシャを優しく床へと降ろした。
すとん。
足が地面についた瞬間、サーシャの膝から全ての力が抜けた。
ドサッ。
彼女はまるで糸の切れた傀儡のように、その場に崩れ落ちた。 顔は熟しきったトマトのように赤く染まり、口から魂の破片のような白い蒸気を吐き出しながら、ピクピクと痙攣している。「サーシャ! しっかりしろ!」 「……触るな……」絞り出すような声だった。「触るなと言っているだろうが……この……天然たらしが……っ!!」サーシャは弱々しく手を伸ばし、レオンハルトの脛をペチッと叩いたが、もはや力など入っていなかった。「……また、俺のせいなのか?」レオンハルトは心底困惑した様子で頭を抱えた。その傍らで、ずっと沈黙を守っていた人物がいた。 宮廷魔導士リゼルである。彼女は眼鏡のつるを細い指先で静かに押し上げ、床に倒れ伏すサーシャの姿を、氷のように冷徹な瞳で見つめていた。(……おかしいわ)リゼルの頭脳は、先ほどの数秒間の出来事を詳細に再構築していた。(トラップが作動した一瞬前……彼女の身体の動き。レオンハルトが飛び出すよりほんのコンマ数秒早く、彼女の重心はすでに崩落を予測して完全に移動していたわ。あの足運びに無駄は一切なかった)リゼルは心内で戦慄を覚えていた。(さらに、レオンハルトに抱きかかえられた瞬間の身の熟し。衝撃を殺し、相手の体勢を崩さないように無意識に体幹を逃がしていた……あれは訓練された武人の反応よ。それも、生半可な兵士ではない。幾多の死線をくぐり抜けた、只者ではない暗殺術の心得がある者の動き……!)リゼルの疑念は、確信へと変わりつつあった。このサーシャと名乗るダークエルフの少女は、哀れな被害者などではない。 正体を隠し、勇者一行に潜入してきた極めて危険な暗殺者、あるいは他国の隠密である可能性が極めて高い。(ですが……だとしたら、あの過剰なまでの狼狽ぶりは何なの? 抱きかかえられただけで、なぜあそこまで本気でオーバーヒートを起こしているの? あれも演技だというの……? だとしたら、あまりにも完璧すぎて意味が分からなさすぎる……)知的で冷静な宮廷魔導士の頭脳が、サーシャの『ガチのポンコツ恋愛脳』という解に到達できるはずもなく、思考は混迷を極めていく。(……とにかく、彼女から目を離すわけにはいかないわ。もしレオンハルトに危害を加えるような素振りを見せたら、即座に封印魔術で拘束する……!)リゼルは心の中でサーシャへの警戒レベルを最大値へと引き上げた。当のサーシャはといえば、リゼルの視線など知る由もなく、地面に突っ伏したまま悶絶を続けていた。(胸筋……レオンハルトの胸筋の感触が……頭から離れない……! これが……これが『全身接触』の恐ろしさなのか……!)サーシャは両手で真っ赤な顔を覆い、心の中で血を吐くように叫んだ。(おのれレオンハルト……! 私を殺すのに武器など要らぬということか……! ただ抱きしめるだけで、私の千年の命を刈り取れるというのか……!!)
とくん、とくん、とくん。
胸の奥で鳴り響く激しい拍動は、迷宮の冷気をもってしても一向に冷める気配を見せなかった。最強の暗殺者としての矜持と、初恋の過酷すぎる物理的攻撃の間で、サーシャの精神は今日も今日とてボロボロに引き裂かれていくのであった。




