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第四章 一人になった暗殺者

 深夜の森は、死者の吐息のような冷気と静寂に包まれていた。天幕の周囲に焚かれた篝火はすでに小さく爆ぜるのみとなり、くすぶる炭がほのかな赤を闇に落としている。天幕の中からは、重戦士ガルドの豪快な寝息と、一日中歩き詰めた旅の疲労に深く眠る勇者一行の静かな息遣いが聞こえていた。その天幕の影から、滑るように一筋の影が抜け出でる。 少女の姿をしたダークエルフ――サーシャ・リナールであった。昼間の失態と、レオンハルトの無自覚な攻勢によってズタズタに引き裂かれた精神を癒やすべく、夜風に当たろうとしたわけではない。



(……やれやれ。羽虫どもが、ゾロゾロと群れてきおったな)



 サーシャは不快そうに眉をひそめた。夜気の中に混じる、かすかな金属臭と毒薬の匂い。そして、踏み殺された下草の絶命の声。 千年のあいだ暗殺の極意を極め続けたサーシャの感覚は、周囲の樹上に潜む無数の気配を正確に捉えていた。その数、およそ二十五。(闇に紛れる足取りは手慣れているが、甘い。殺気が漏れ出ているぞ。狙いは間違いなく、天幕の中で泥のように眠るあの男……レオンハルトたちか)暗殺者ギルドの精鋭部隊。それが彼らの正体であった。 勇者一行の首に懸けられた巨額の懸賞金を狙い、夜陰に乗じて完全な包囲網を完成させつつあった。サーシャは静かに足を止め、頭上の梢を見上げた。(ここで騒がれては面倒だ。あの金髪の男が目を覚ませば、また『大丈夫かサーシャ』などと爽やかな顔で接近してくるに決まっている。そうなれば私の心臓は再び暴走し、脳の酸素が欠乏してまともに動けなくなる……!)思い出すだけでも顔面が熱を帯びてくる。(あの男を起こしてはならない。私の平穏な睡眠と、何より千年の矜持を守るため……ここで処理する)サーシャは足音ひとつ立てず、天幕から数十メートル離れた森の深淵へと足を進めた。 暗殺者たちの意識が、天幕から「一人で離れていく無警戒な獲物」へと引きつけられるのを感じながら。木々の密度が増し、月光すら届かぬ完全な暗闇が支配する開けた空き地。 そこでサーシャは足を止めた。シュバッ!頭上と背後の樹木から、黒装束を身に纏った影たちが次々と舞い降りる。 あっという間に、サーシャの周囲を二十人以上の刺客が取り囲んでいた。手に握られているのは、致死性の猛毒が塗布された湾曲刀(ダガー)と黒塗りのクロスボウである。「くくく……よう、嬢ちゃん。ようやく一人になったな」暗殺者たちのリーダー格と思われる、顔に大きな傷を持つ男が、嘲笑を浮かべながら踏み出してきた。「勇者パーティーの配下か何か知らんが、こんな夜更けに一人で散歩とは命知らずな奴だ。俺たちの標的はあの金髪の勇者だが……気配に勘づかれたかと思って焦ったぜ。まさかただのド素人が離れてくれただけとはな」刺客たちはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、着実に間合いを詰めてくる。「大人しくしていれば、苦しまずに殺してやる。まあ、そのコーヒー色の綺麗な肌を切り刻むのは少しばかり惜しい気もするがね……」男の薄汚い言葉が、夜の静寂に響く。サーシャは、下を向いたまま動かなかった。 ただ、深々と息を吸い込み、吐き出した。「……テメーら」低く、冷ややかな声。 昼間のポンコツぶりや、レオンハルトの前で見せる取り乱しは、どこにも存在しなかった。「勘違いしてんじゃねぇぞ」サーシャが、ゆっくりと顔を上げた。



「一人になったんだよ!」



――ズウン!!!!



 一瞬の無音の後、世界が歪んだ。サーシャの華奢な全身から、ブワァァァ……! と噴き出したのは、光を固めて流し込んだかのような、圧倒的な密度の濃密なオーラであった。灰色ではない。 濃い黒でもない。それは、あらゆる物質と情念、そして命の光すら塗り潰す、絶望の「漆黒」。ブワッ! と広がった漆黒のオーラは、一瞬にして周囲の空間を侵食した。月光は途絶え、草木の色彩は奪われ、空気中の熱量すらも氷点下へと叩き落とされる。「ひっ……!?」暗殺者のリーダーが、引きつった悲鳴を上げた。 湾曲刀を握る手が、恐怖のあまりガタガタと激しく震え出す。目の前に立つ少女の姿が、闇に溶けて消えていく。 服も、皮膚も、コーヒー色の美しい肌も、すべてが漆黒の渦の中に飲み込まれ、そこに残ったのは――闇の底で妖しく爛爛と輝く、二つの光る眼(まなこ)だけ。「な、なんだ……なんだこのプレッシャーは……!? 人間じゃねえ……魔物どころの騒ぎじゃねえぞ!?」 「ひ、ヒィィッ! 息が……息が吸えねえ……!」刺客たちが次々と膝を折り、自身の首を掻きむしり始めた。 ただオーラを解放されただけで、殺気に晒された彼らの魂が拒絶反応を起こし、生体機能を停止させようとしているのだ。一千年間、何万人もの命を狩り続け、命を奪うことのみを研ぎ澄ませてきた存在。 それが、漆黒のサーシャ・リナール。「これで……好きに暴れられるぜ」闇の中から、酷薄な声が響く。 そこには恋に悩む乙女の面影など微塵もなく、ただ淡々と生命を刈り取る悪魔の貌(かお)があった。サーシャはゆっくりと一歩を踏み出す。 その瞬間、刺客たちの視界から、すべての距離感が消失した。「安心しろ」指先に握られた、二振りの漆黒の短剣。 魔法など使わない。ただ千年の経験が導き出す、最も美しく、最も無駄のない、肉体と武具による殺戮の幾何学。



「時間も手間もかけさせねぇよ」



 短剣を交差させ、沈み込む。「最短!」消えた。音も、風も、予備動作すらなく、サーシャの存在が世界から消失する。「なっ――!?」暗殺者のリーダーが叫ぼうとした瞬間には、すでに彼の背後に、光る二つの眼が存在していた。「最速死!」



――ズバッ!!!!



 肉を裁ち、骨を砕く音すら、遅れてやってきた。一秒。 いや、コンマ数秒の出来事であった。暗闇の中で閃いた数筋の極光。 肘、膝、短剣の柄、そして刃。至近距離における格闘技と短剣術が融合した、極限の連撃。首が飛ぶ。 心臓が穿たれる。 延髄が打ち砕かれる。刺客たちは、自分が殺されたことすら理解できないまま、次々と泥のように崩れ落ちていった。叫び声すら上がらない。ただ、肉が落ち、血が噴き出す音だけが森に満ちる。「ヒィ……あ……あ……」最後に残った一人が、ガタガタと震えながら尻餅をついた。 目の前には、二十4人の仲間が無造作な肉塊と化して転がっている。サーシャはゆっくりと振り向き、光る眼を男に向けた。トス。踏み込んだ爪先が地面を叩いた瞬間、男の喉元から短剣の先が飛び出していた。「……ッ」男の瞳から光が消え、静かに横たわる。二十五人の精鋭暗殺者。 彼らが全滅するまでに要した時間は、わずか三秒に満たなかった。静寂が戻ってきた。



シュゥゥ……。



 サーシャが深く息を吐くと同時に、周囲を支配していた漆黒のオーラが、まるで生き物のように彼女の体内へと吸い込まれて消えていく。転がる大量の死体と、大地を染める濃厚な血の匂い。 サーシャは短剣についた血を慣れた手つきで払い、鞘へと納めた。「ふぅ……。まったく、夜中にコソコソと鬱陶しい奴らだ。これで心置きなく眠れる」サーシャは冷淡な瞳で惨劇の跡を見下ろした。 千年間、見慣れすぎた風景。彼女にとって、殺戮とはこれほどまでに容易く、日常的で、何の意味も持たない作業であった。しかし――。(……あ)サーシャはハッと息を飲んだ。(待てよ? 私……今、あいつらを殺す時に、何の手応えも感じなかった……?)かつては、殺すこと自体が目的であり、生きている証明であった。 だが今は違う。(私は……あの男を起こさないために、こいつらを殺したのか……?)胸の奥で、再びあの不快にして愛おしい拍動が芽生え始める。



とくん。



(……守った、のか? 私が……人間の命を……?)



 自分の手のひらを見つめる。 血で汚れていない、コーヒー色の小さな手。 この手は今、殺すためではなく、レオンハルトの安眠を守るために振るわれたのだ。その事実を自覚した瞬間、サーシャの顔面が爆発的な熱を帯び始めた。(あ、アカンアカンアカン!! 何を作文みたいなエモーショナルな思考に浸っているのだ私はーーーッ!?)湯気が立ち上らんばかりに熟れ落ちた林檎のような赤顔になり、サーシャは頭を抱えてその場でバタバタと悶絶した。(守る!? この私が勇者を守るだただと!? 冗談ではない! 私はただ、奴が起きてきて『サーシャ、夜風は冷えるぞ』などと上着をかけてくる二次被害を防いだだけだ! 関節接触からの全身接触を回避するための正当防衛だーーーッ!!)一人で誰もいない森の中でキーキーと騒ぎ立て、悶絶すること三分間。ようやく呼吸を整えたサーシャは、両頬をポンポンと叩いた。「……さて」冷酷な殺戮者のオーラは影も形もなく消え去っていた。 頬をほんのりと朱に染め、瞳をキラキラと輝かせた、恋する十六歳の少女の顔がそこにあった。「勇者様のところに帰ろっと♪」サーシャは軽やかな足取りで跳ねるように向きを変えると、惨劇の残骸など見向きもせず、レオンハルトの眠る天幕を目指して嬉しそうに駆け出していった。月光が再び差し込み、静まり返った森を照らし出す。 世界最強クラスの殺戮者は今夜も、その恐るべき力を「不純すぎる初恋の防衛」のために存分に振るったのであった。



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