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第三章 視界の中のプレッシャー

 深い森の樹海を切り開く街道沿いに、重苦しい咆哮が木霊していた。一行を取り囲むのは、頭部から無数の眼球を狂い咲かせた中型魔獣、百眼狼(ハンドレッド・ウルフ)の群れである。その数は二十を下らない。鋭い牙からは粘着質の毒液が垂れ落ち、土壌をじゅうじゅうと焦がしていた。「ガルド、前衛を維持して! 広域展開の陣形を保ちなさい!」 「応よ! この程度の雑魚、俺の大盾一枚で受け止めてやるぜ!」勇者パーティの連携は流れるように洗練されていた。重戦士ガルドが巨大な大盾を構えて突進を食い止め、後方からは宮廷魔導士リゼルが詠唱を重ね、聖女エレノアが正確な支援支援魔術を展開する。そして、その中心で一際の輝きを放つのが勇者レオンハルトであった。 彼の奮う聖剣は、一閃ごとに旋風を巻き起こし、群がる狼どもを次々と一刀両断にしていく。まさに絵に描いたような英雄の戦闘風景。その戦闘域の端、樹木の陰で、サーシャ・リナールは静かに短剣を構えていた。(ふん、たるんでいるな。構えが大きく、無駄な予備動作が多すぎる。私ならば三秒あればこの群れを全滅させ、全員の喉笛を掻き切って静寂を取り戻してみせる)サーシャの頭脳は、千年の戦闘経験に裏打ちされた冷酷な計算機として完璧に稼働していた。 百眼狼の死角、踏み込みの角度、最短の跳躍ルート。普段の彼女であれば、息を吸って吐く間、文字通りの「最短最速死!」で終わらせる作業に過ぎない。(よし、一瞬で終わらせてやる。あの人間の男どもに、本物の殺戮というものを見せて……)サーシャが身を沈め、地を蹴ろうとした、まさにその瞬間であった。「サーシャ! 危ない、一匹そっちへ行ったぞ!」レオンハルトの声が響いた。 彼が敵を切り払いながら、心配そうにこちらへ視線を向けたのだ。金色の髪をなびかせ、汗ばんだ額、真剣そのものの青い瞳。それが、まっすぐにサーシャの姿を捉えている。



――ズキュゥゥン。



サーシャの心臓に、目に見えない光線が突き刺さった。



(――ッ!?)



とくん! とくん! とくん! トクントクン! トクントクン!!



「……っぐ!?」



 身体が、ピキリと硬直した。 脚の筋肉に一瞬で力が入らなくなり、踏み出そうとした足が不格好に絡まる。(な、なんだ!? なんだこの身体の重さは!? 関節の潤滑油が切れたかのように動きが硬い……! 息が……息が上手く吸えない……!!)「ガアアッ!」迫り来る百眼狼の一頭が、隙だらけになったサーシャを目がけて飛びかかってきた。鋭い爪が彼女の喉元を狙う。(しまっ――!?)普段なら指先一つで叩き落とせる攻撃。しかし、今のサーシャの脳内は暴走する心拍数によって完全なオーバーヒートを起こしていた。 迫る牙。しかし視界の隅には、こちらを固唾をのんで見守るレオンハルトの顔。(見られている……! あの男が……私の一挙一動を凝視している……!!)「ダメ……呼吸が上がる……!」サーシャは顔面を真っ赤に染め上げながら、悲鳴のような喘ぎ声を漏らした。 必死の思いで短剣を振り上げるも、手元がガクガクと震えて軌道が大きく逸れる。ガキンッ!かろうじて爪を刃の腹で弾いたものの、衝撃を殺しきれず、サーシャは不格好に後方へ転がった。泥がコーヒー色の肌と可憐な衣服を汚す。「おいおい! 大丈夫かよお嬢ちゃん!」すかさず割り込んできたガルドが、大盾を叩きつけて狼を力任せに吹き飛ばした。「チッ……足手まといになりに来たのか!? 炎龍を倒したって話だから期待してみりゃ、ただのド素人じゃねえか!」ガルドが吐き捨てるように叫ぶ。 後方で広域解析魔術を展開していた宮廷魔導士リゼルも、眼鏡の奥の瞳を険しく細めた。(おかしいわね……。あの身のこなし、最初の回避動作までは完璧な暗殺者のそれだった。なのに、途中で突如として魔力と身体能力の同調が崩壊した……? まるで、極度の緊張状態に晒された素人のように……)リゼルはサーシャの周囲の魔力波形を観察し、怪しむような視線を向けた。 当のサーシャは、地面に手をついて肩で激しい息を吐いていた。(ハァ……ハァ……! なんだこの屈辱は……! 雑魚の一撃を弾くことすらままならんとは……! 呪いだ、やはりあの男の存在自体が邪悪な呪詛なのだ……!)「サーシャ! 無事か!?」残りの狼を全て斬り伏せたレオンハルトが、聖剣を鞘に納めながら凄まじい速度で駆け寄ってきた。



(来ないで! 近づかないで!!)



 サーシャの心内の悲鳴も虚しく、レオンハルトは心配そうに彼女の前に屈み込み、その華奢な肩へ手を伸ばそうとする。「怪我はないか? すまない、俺が注意を促すのが遅れたばかりに……」 「触るな……! 寄るなと言っているだろうが……っ!」サーシャは顔を背け、激しく肩を揺らした。その顔は、もはや湯気が立ち上らんばかりに赤く加熱している。「おい、サーシャ……本当に顔色が悪いぞ。どこか痛むのか? 毒でも受けたのか?」 「違う……! 毒などではない……!」 「じゃあ何なんだ? 遠慮せずに言ってくれ。俺たちは仲間だろ?」レオンハルトの真っ直ぐな、純粋すぎる心配の眼差し。 それが至近距離からサーシャの全細胞を射抜く。サーシャの忍耐の限界が、音を立てて弾け飛んだ。



「お前のせいだーーーーっ!!」



サーシャは地を踏み鳴らし、血吐くような勢いで叫んだ。



「……え?」



 レオンハルトが鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で首を傾げる。「俺の?」 「そうだ! お前が……お前が変な目で見つめてくるからだ!!」 「えっ、俺はただ、危険を知らせようとして見ただけで……」 「うるさい! 視線だ! 視線が痛いのだ! お前のその無駄に眩しい顔が視界の端に入った瞬間、胸がトクントクンと暴走し、全身の関節が狂い、酸素が脳に行き渡らなくなるのだ!!」サーシャは乱れた呼吸を整えることも忘れ、指を突きつけて捲し立てた。「だって……勇者の視界に入ってるんだもん!!」 「……」静寂が訪れた。戦場に残された血生臭い風が、吹き抜けていく。 ガルドは大盾を構えたまま固まり、リゼルは眼鏡を指で押し上げたままフリーズしている。聖女エレノアだけが、口元を扇で隠して「あらあらまあまあ」と肩を揺らしていた。「……あの、サーシャ?」 レオンハルトが混乱した様子で頭を掻く。「つまり……俺が見ていると、緊張して実力が発揮できないということか?」 「知らん!! 理由など私にも分からん!! とにかく今、私は戦闘に集中できない!! お前が存在しているだけで、私の千年の戦闘論理が崩壊するのだ!!」サーシャはキーキーと叫びながら、近くに転がっていた小石を力任せにレオンハルトへ投げつけた。小石はレオンハルトの額にペチッと当たり、虚しく地面へ落ちる。「おいおい……なんだあいつは。戦力にならねえどころか、ただのワガママな子供じゃねえか」ガルドが呆れたように鼻を鳴らした。「ええ……ですがガルド、油断は禁物です」 リゼルが低い声で割り込む。「彼女のあの乱れ方……ただの緊張にしては尋常ではありません。何らかの精神疾患か、あるいは……私たちに実力を隠すための高度な演技の可能性も捨てきれません」 「演技だあ? あんな真っ赤な顔して逆ギレするのが演技に見えるかよ」 「わかりません。ですが、あの無駄のない最初の動作……彼女の真の実力は、あんな失態で測れるものではないはずです。引き続き、警戒を強めましょう」重戦士と宮廷魔導士の視線が、疑念と警戒を孕んでサーシャへと向けられる。当の本人はといえば、ツンと横を向いたまま、必死に乱れた呼吸を整えようと胸元を抑えていた。(くそっ……くそっ……! 千年の殺戮者たるこの私が、雑魚相手に醜態を晒すとは……! すべてあの金髪の男のせいだ。あの男の『魅了の呪詛』が強大すぎるのだ……!)とくん、とくんと、未だ胸の奥でうるさく打ち鳴らされる拍動。(許さん……絶対に許さんぞレオンハルト……! この呼吸の乱れ、この屈辱……いつか必ず、お前の息の根を止めることで清算してやる……!)殺意を燃やそうと試みるサーシャであったが、直後にレオンハルトが「水、飲むか?」と爽やかに水筒を差し出してきた瞬間、「ひやああっ!? か、関節接触の再来かーーーーッ!?」と、悲鳴を上げて三メートル後方へ飛び退くのであった。恋という名の不治の病に侵された最強ダークエルフの戦闘力は、今やスライム以下にまで著しく低下していた。


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