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第二章 動悸の理由と「関節接触」

 深い闇の中から意識が浮上する感覚とともに、サーシャ・リナールはゆっくりと瞼を開けた。視界に入ってきたのは、見慣れぬ天幕の布地と、パチパチと薪が爆ぜる不快な音であった。身体の下には柔らかい毛布が敷かれている。固い岩場で寝起きすることに慣れきった身としては、かえって背痒さを覚える感触だ。「……あ、気がついた?」穏やかな声が頭上から降ってきた。 反射的に跳ね起き、短剣の柄へ手を伸ばそうとしたサーシャであったが、その直前に身体の力が失せた。声の主は、聖女エレノアだった。 彼女は薬草の入った木鉢と磨かれた布を手に、優しげな微笑みを浮かべてサーシャを見下ろしている。「よかったわ。急に倒れて白目を剥くものだから、何か恐ろしい呪いでもかけられているのかと心配したのよ。熱もひどかったし……でも、脈拍も落ち着いたみたいね」 「……ここは?」 「私たちの野営地よ。炎龍メラーダのいた谷からは、少し離れた安全な場所。覚えている? あなた、レオンハルトの顔を見た途端に倒れてしまったのよ」エレノアの言葉に、サーシャの脳裏へ前刻の失態が鮮烈に蘇った。(――そうだ! 私はあの金髪の男……レオンハルトとかいう勇者気取りの顔面を至近距離で拝み、謎の心不全を起こして気絶したのだ……!)一千年の歴史を誇る暗殺者として、これ以上の屈辱があろうか。 敵の攻撃ではなく、ただの目視による精神的動揺で意識を失うなど、暗殺者の始祖たちが知れば墓の下で叩き起きてくるレベルの不覚である。「……ふん。私はただ、龍の肉を消化する過程で一時的な魔力酔いを起こしただけだ。あの人間の男など、何の関係もない」サーシャは顔を背け、冷ややかな声で言い放った。ダークエルフ特有の傲慢さを演じつつ、必死に動悸を抑え込む。(落ち着け私。あれは恋などという生ぬるいものではない。あの金髪の青年は、私の本能が『危険視』した超危険人物なのだ。人間離れした精神汚染能力、あるいは視界に入った者を狂わせる不可視の魅了魔術の使い手に違いない。でなければ、この私が動揺などするはずがないのだから!)己の中で完璧な論理(と言い訳)を構築したサーシャは、心内で深く頷いた。(そうだ、間違いなしい。私は奴を監視せねばならない。あの恐ろしい魅了魔術の正体を突き止め、危険と判断すれば即座に首を跳ねる。……決して、奴のそばにいたいとか、顔をもっと近くで見たいとか、そんな不純な動機ではない! 観察と警戒だ! これは高度な暗殺任務なのだ!)「……おい、生きてるか?」天幕の入口がめくられ、眩しい光とともに男が姿を現した。 勇者レオンハルトである。甲冑を脱ぎ、平服姿となった彼は、眩しいほどの笑顔を浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。(来、来た……魅了魔術の源泉……!)サーシャは警戒の数値を最大限に引き上げ、天幕の隅へと背中を押しつけた。「体調はどうだ? 突然倒れたから驚いたよ。俺はレオンハルト。勇者パーティのリーダーをやっている。君の名は?」 「……サーシャ」 「サーシャか、いい名前だな。炎龍の討伐、君が一人でやったのか? だとしたら凄い実力だ。俺たちもあの龍には苦戦を覚悟していたんだが……助かったよ、ありがとう」まっすぐな瞳で感謝を伝えられ、サーシャの胸の奥が再びキュッと絞めつけられた。とくん。(……くっ! まただ! また精神汚染攻撃が……! この男、呼吸するように殺傷能力の高い言葉を吐き出しおる……!)「それで、サーシャ。これからどうするつもりだ? もし行くあてがないなら、次の街まで一緒に来ないか? 一人で旅をさせるのも心配だしな」 「……断る理由もない。同行してやる。ただし、私に気安く触れるなよ。殺すぞ」最大の虚勢を張って告げると、レオンハルトは嫌がるどころか、「ははは、強がりだな」と爽やかに笑った。その笑顔の破壊力に、サーシャは目眩を覚える。「あ、そうだ。喉が渇いていただろう? 冷たい果実水を作ったんだ。飲むといい」そう言って、レオンハルトは木製のコップを差し出してきた。中には甘酸っぱい香りを漂わせる、冷えた果汁が入っている。「……いらん」 「そう言わずに受け取れって。ほら」レオンハルトがコップをさらに前に突き出す。 サーシャは渋々手を伸ばした。コップの縁を掴み、素早く受け取って距離を取ろうとした――その、一瞬の事故。レオンハルトの親指が、サーシャの細い指先に、ほんのわずかに接触した。すっ。肌と肌が触れ合った面積、わずか数ミリメートル。時間にして零点一秒未満。しかし、サーシャの脳内では世界崩壊に等しい大爆発が巻き起こった。



(手の甲と指先が……触れ……た……!?)



静寂。そして――。



ドゴォォォォン!!!!



 サーシャの全身の血流が逆流した。指先から伝わる熱線が神経系を駆け駆け抜け、脳幹を直接強打する。(ひ、皮膚接触……! いや違う! これは……間接的に互いの熱を共有する禁断の儀式……!!)「手が……触れた……これが噂に聞く『関節接触』!!!!」サーシャは心の中で死力を尽くした絶叫を上げた。(注:間接接触、あるいは間接キスの誤認であり、そもそも指先同士の接触はただの接触である)「……? サーシャ? どうしたんだ、顔が真っ赤だぞ? また熱が返ってきたのか?」レオンハルトが不思議そうに顔を覗き込んでくる。その顔面間距離、再び三十センチ未満。(あ、アカン……! 関節接触からの顔面異常接近の二連撃……! 死ぬ! 今度こそ魂が物理的に消滅する……!!)「触るなと言っただろうがーーーーーっ!!」サーシャはコップを奪い取るように引き寄せると、天幕の隅へと転がり込み、毛布を頭から被って丸くなった。 全身がガクガクと震え、吐く息が異常な熱を帯びている。コーヒー色の肌は、もはや熟した果実のように真っ赤に染まっていた。「お、おい、大丈夫かレオンハルト? 怒らせちゃったんじゃないか?」 「いや……俺、何か悪いことしたか……?」レオンハルトは困惑した様子で頭を掻き、毛布の丸まりを見つめている。その一部始終を、天幕の脇で薬草を刻みながら観察していた聖女エレノアは、そっと溜め息をついた。「……あらあら」エレノアの瞳には、哀れみと、深い面白がりが同居していた。一千年間を生き抜いたという、漆黒の雰囲気を纏うダークエルフの少女。どれほど恐ろしい暗殺者かと思えば、その本質は――男子に触れられただけでオーバーヒートを起こす、生娘以下の恋愛初心者。(レオンハルトの無自覚な天然人たらしぶりが、あの子の純情な脳みそを破壊しつくしているわね……)エレノアは「ふふっ」と微笑み、薬草を刻む手を再開させた。助け船を出すつもりは一切ない。この極上の観察対象をもう少し楽しむことにしたのだ。一方、毛布の中で丸まるサーシャは、自身の胸を激しく叩いていた。



とくん! とくん! とくん! トクントクン! トクントクン!!



 (うるさい……うるさい……! 静まれ私の心臓! なぜだ、なぜ言うことを聞かない!? 相手はただの人間……いつでも殺せる羽虫のような存在なのだぞ!?)



 胸の深脈は一向に収まる気配を見せない。それどころか、レオンハルトの指先が触れた瞬間のあの熱い感触が、何度も脳裏で再生され、そのたびに全身の毛穴が開くような甘美な恐怖に襲われる。(おのれレオンハルト……! どんな卑劣な呪いを使っているのだ……! 生物は殺せても……! この胸のざわめきだけは殺せない……!!!!)サーシャは毛布の中で歯を食いしばり、涙目で呪文のように呟いた。



「トキメキが憎い……! トキメキが憎い……っ!!!!」



 一千年の殺戮の歴史に、新たな一ページが刻まれた。 それは「関節接触(誤解)」という名の未曾有の猛毒に侵され、夜の野営地でひたすら悶絶する、最強ダークエルフの哀れな姿であった。


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