第一章 炎龍メラーダ
天を突く赤黒い煙と、肉の焼ける匂いが大気を満たしていた。 焦土と化した谷底のただ中に、横たわる巨躯。山と見紛うばかりの巨体を誇る古代種、炎龍メラーダである。その全身を覆う紅蓮の鱗は未だ熱を帯び、地表をドロドロと溶かしていたが、生命の鼓動はすでに潰えて久しい。その巨竜の腹部、抉り取られた胸甲鱗の真上で、一人の少女が膝を突いていた。「……うん、焼き加減は上々だな」少女――サーシャ・リナールは、短剣の先で削ぎ落とした龍肉を口へと運んだ。 見た目は十六歳程度の可憐な少女。しかし、その耳は尖り、肌は深いコーヒー色を呈している。ダークエルフの血を引く者だ。彼女は口の端に付いた肉汁を細い指先で拭うと、満足そうに吐息を漏らした。 この炎龍メラーダは、国家ひとつを数日で滅ぼし得る災厄級の超大型魔獣である。しかしサーシャにとっては、ただの「少し手応えのあった晩飯」に過ぎない。彼女の生きてきた年月は千年以上。その膨大な時の中で、彼女がやってきたことはただひとつ。殺すことだ。 人間、魔族、聖獣、邪神。己の視界に入り、害を成す者、あるいは鬱陶しい者を、ただひたすらに抹殺してきた。積もりに積もった殺意と血の記憶は、彼女の魂に不可逆の刻印を遺している。サーシャは、自身の指先から揺らめく薄灰色のオーラを何気なく見つめた。 ダークエルフの強さは、戦闘時に身に纏うオーラの色で決まる。灰色から始まり、強者になるほど濃く、深くなっていく。そして、彼女が本気を発揮した際に生じる色は、光すら飲み込む「漆黒」。 歴史上、数人しか到達していないとされる殺戮の頂点。それが彼女の真の姿だった。(腹も膨らんだことだし、そろそろ別の場所に移動するか。竜の匂いに惹かれて、雑魚が群がってきても面倒だ)そう思考を巡らせ、身を起こそうとしたその瞬間――。
「――おい! あそこを見ろ!」
「嘘でしょう……炎龍メラーダが……倒れている!?」
谷の入口から、複数の足音が近づいてくる気配がした。
(やれやれ、さっそく鬱陶しい羽虫のお出ましというわけか)
サーシャは不機嫌そうに眉をひそめた。一千年の経験から弾き出される最善手はひとつ。「邪魔者は、最短最速で殺す」。 彼女は身を隠すため、巨竜の影へと滑り込むように姿を消した。身のこなしには一切の無駄がなく、音も気配も完全に消し去られている。至高の暗殺術。「……信じられん。我々が国王陛下の勅命を受けて駆けつけたというのに、先越されただと!?」 「ガルド、油断しないで。まだ奴の魔力の残滓が漂っているわ。それに……」影から覗き見ると、そこにいたのは四人の冒険者パーティだった。重厚な鎧を纏い、巨大な盾を背負った豪快な男――重戦士ガルド。 知的な眼鏡の奥で険しい光を宿す女性――宮廷魔導士リゼル。 優美な法衣を纏い、聖なる杖を握る聖女――エレノア。そして、その中心に立つ青年。 黄金の髪を陽光に輝かせ、腰に聖剣を佩いた爽やかな佇まい。正義感に満ちた真っ直ぐな瞳。彼こそが、人間界で名高き勇者、レオンハルト・アーデルハイムであった。(ふん、人間どもの勇者ごっこか。あの金髪の若造が頭らしいな。まずはあの首を跳ね、動揺した残りの三人の心臓を三秒以内に撃ち抜く。これで終わりだ)サーシャは呼吸を整え、足裏に重心を乗せる。 暗殺者としての本能が、完璧な殺害ルートを脳内に構築していく。距離、角度、風速、敵の反応時間。すべて計算通り。サーシャが跳び出そうとした、まさにその一瞬前。勇者レオンハルトが、ふっと振り返り、炎龍の死体を見上げた。 彼の金色の髪が風に揺れ、透き通った青い瞳が、まっすぐにサーシャの潜む影の方向を捉える。
(――……え?)
とくん。
胸の奥底で、奇妙な音が響いた。
(……な、なんだ?)
サーシャは思わず胸元を押さえた。 一千年間、一度も聞いたことのない音だった。死線をくぐり抜けようと、邪神の爪牙が目前に迫ろうと、彼女の心臓は常に氷のように静まり返っていたはずだ。それなのに。
とくん、とくん、とくん。
脈拍が跳ね上がる。胸の奥が熱くなり、みぞおちあたりがキュッと絞めつけられるような、不快にして未知の感覚。(なんだこの不調は!? 毒か!? 炎龍の肉に毒でも仕込まれていたのか!? いや、私の肉体はあらゆる毒を無効化するはず……!)動揺するサーシャの視界の中で、レオンハルトの顔が眩しく輝いて見えた。爽やかな笑み、引き締まった顎のライン、熱を帯びた瞳。(あ、あの男の顔を見た瞬間から、鼓動が止まらない……!? ま、まさか、これは……)一千年間、人間界の愚かな営みを遠巻きに観察してきた記憶が、脳裏を駆け巡る。 酒場で泥酔した詩人が語っていた戯言。街角で幼い人間たちが騒いでいたお伽話。『胸がキュンとして、鼓動が早くなって、その人のことしか見えなくなる……それが恋だよ!』(こ、恋……!? この私が……!? 一千年間で何万人という人間や魔物を殺してきた、漆黒のサーシャが……恋だと……!?????)あり得ない。絶対にあり得ない。 殺戮こそが我が命、血煙こそが我が呼吸。恋などという軟弱にして愚かしい人間の錯覚に、この己が囚われるはずがないのだ。(落ち着け私! これは敵の精神攻撃だ! 誘惑の呪言か、幻術の類に違いない! ならば、術者を殺せば解けるはず……!)サーシャは必死に自我を保とうとした。しかし、動揺のあまり脚の力が抜け、隠れていた岩の陰から盛大に足を踏み外してしまう。ガラガラッ!「……誰だ!?」重戦士ガルドが即座に大盾を構え、宮廷魔導士リゼルが杖を突き出す。 岩陰から転がり出たのは、コーヒー色の肌をした華奢なダークエルフの少女であった。「ダークエルフ……!? まさか魔王軍の残党か!?」 「待ってガルド、様子がおかしいわ。殺気を感じない……それどころか……」聖女エレノアが制止する。 地上に突っ伏したサーシャは、必死に頭を働かせた。(くそっ、姿を見られた! 正体を察せられるわけにはいかない! 一千年の殺戮者だと知られれば、警戒して近づいてこなくなる……いや違う、なぜ近づいてこないと困るんだ!? 私は殺すために……いや、殺せない!?)パニックに陥ったサーシャは、咄嗟に「無害で怯える哀れな少女」を演じることにした。演技もまた、暗殺者の必須技術である。「ひっ……! た、たすけて……!」サーシャは上目遣いで、プルプルと身体を震わせてみせた。完璧な演技だ。弱々しい声、保護欲をそそる瞳。「大丈夫か!?」声とともに、風が吹いた。 一瞬だった。勇者レオンハルトが、凄まじい脚力で間合いを詰め、サーシャの目の前に膝をついたのだ。(は、早い……!? いや、違う! 近すぎる!!)レオンハルトの顔が、サーシャの目の前、わずか二十センチの距離に迫っていた。 金色の髪から漂う、爽やかな野草の匂い。整った鼻筋。自分を本気で心配している、温かくまっすぐな瞳。「怪我はないか? いったいここで何があったんだ? 炎龍を倒したのは君なのか?」レオンハルトが親身になって顔を覗き込み、サーシャの華奢な肩へ手を伸ばそうとする。
(か、顔面間距離、異常接近……!!!!)
サーシャの脳内で、警報が鳴り響いた。
とくん! とくん! とくん! トクントクン! トクントクン!!
心臓が肋骨を突き破らんばかりの勢いで脈打つ。顔面に血流が激流となって押し寄せ、体温が異常上昇を起こす。肌の色がコーヒー色から、急速に赤黒く変色していく。(アカンアカンアカン!! 呼吸が……酸素が脳に届かない……! なんだこの破壊力は!? 古代の禁忌爆発魔法か何かか!? 無理無理無理、耐えられない……!!)「おい、顔がすごい色になっているぞ!? おい、しっかりしろ!」 「レオンハルト、離れなさい! 彼女、キャパシティを超えているわ!」レオンハルトの手が、サーシャの肩に触れそうになった瞬間――。(ご、言語道断……接触などされたら……私死ぬ……!!)バタッ。サーシャの意識はぷっつりと途切れ、彼女は白目を剥いて豪快に倒れ伏した。「え?」レオンハルトは差し出した手を途中で止めたまま、間抜けな声を上げた。「……ええぇぇぇ!? 何もしてないぞ俺!? おい、大丈夫か!?」 「レオン、倒れたわ! 脈が……脈拍が異常なスピードで動いているわ! 何なのこの子!?」慌てふためく勇者一行の声が、薄れゆくサーシャの意識の渦の中に消えていく。
(……トクントクン、うるせ~~~!!!!)
一千年の歴史上、最強にして最凶と恐れられた漆黒のダークエルフ、サーシャ・リナール。 彼女の輝かしい殺戮の歴史は今、たった一人の青年に向けられた「初恋」という名の未知の暴力によって、呆気なく叩き潰されたのであった。




