第十章 「関節接触」の克服
数々の苦難と凄絶な死闘を乗り越えた『黒層の迷宮』の戦いから数日。街を取り巻いていた暗雲はすっかりと晴れ渡り、澄み渡った青空から差し込む温かな光が、宿場町の石畳を優しく照らし出していた。木々の葉は秋の気配を含んだ爽やかな風に揺れ、旅立つ者を祝福するかのように心地よい音を奏でている。宿屋の大きな庭先には、旅支度を整えた勇者パーティーの面々が集っていた。「よし、荷物の積み込みは完了したな。ガルド、身体の具合はどうだ?」隊列の先頭で荷馬車の縄を締め直しながら、勇者レオンハルトが爽やかな笑顔で問いかける。「おう、バッチリだ! エレノアの回復魔法と、宿屋の親父がくれた特製薬草酒のおかげで、砕けた肋骨もすっかり繋がりやがった。いつでも行けるぜ!」重戦士ガルドが胸を叩き、豪快に笑い飛ばす。その傍らでは、宮廷魔導士リゼルが厚い魔導書を愛おしそうに撫でながら、静かに眼鏡のつるを押し上げていた。「迷宮の奥底で回収した古代の文献の解析も、概ね目処が立ちました。次の目的地である『陽炎の砂漠』へのルートも確保できています。……準備に手落ちはありませんわ」「ふふ、二人とも頼もしいわね。さあ、今日も素晴らしい旅の始まりよ!」聖女エレノアが神聖な杖を軽く掲げ、晴れやかな声を響かせる。そんな賑やかな輪から数歩離れた木陰で、一人腕を組み、冷ややかな眼光で虚空を見つめている少女がいた。 ダークエルフのサーシャ・リナールである。コーヒー色の美しい肌。凛と伸ばされた背筋。腰に携えた二振りの漆黒の短剣。 彼女が放つ隙のない立ち姿は、一千年の血の修羅場を潜り抜けてきた絶対の暗殺者そのものであった。(ふん……羽虫どもめ、朝から浮かれおって。次の目的地が砂漠だろうが魔王城だろうが、この私にとっては変わらん。立ちふさがる邪魔者はすべて処理し、あの金髪の男の安眠と生命を脅かす存在を徹底的に叩き潰すのみ……)サーシャは心の中で酷薄な思考を巡らせる。あの日、迷宮の最深部で己の真の姿たる「漆黒」のオーラを晒し、魔王軍幹部を最短最速で殺戮した記憶。そして、正体がバレて拒絶されることを恐れていた自分を、レオンハルトが無条件の優しさで抱き締めるように受け入れてくれた、あの奇跡のような瞬間。あの夜以来、サーシャの胸の中に存在していた「迷い」は完全に消え去っていた。(私はもう逃げん。己の内に宿るこの狂おしい感情……『恋』から目を背けることはせん。私は最強の殺戮者としてあの男の盾となり、そしていつの日か……あの男の隣に立つにふさわしい存在となってみせる!)決意に満ちた瞳で青空を見上げるサーシャ。
だが――。
一千年の暗殺者としての崇高な覚悟と、現実に立ちはだかる「物理的課題」との間には、太平洋よりも深い溝が存在していた。
とくん。
レオンハルトがこちらへ歩み寄ってくる気配を感じた瞬間、サーシャの胸の奥で、恐ろしいほどの速度で心臓が脈打ち始めた。
トクントクン! トクントクン! トクントクン!
(くっ……またか! また私の体内器官が暴走を始めたというのか!? 静まれ! 落ち着け私の脈拍! 私は一千年の王だぞ! たかが人間の男が近づいてくる程度で、なぜ全身の血液が逆流を起こさねばならんのだーーーっ!?)先刻までの凛とした表情は一瞬で崩壊し、サーシャは心の中で悲鳴を上げた。思い返せば、この男と出会ってからの日々は過酷な敗北の連続であった。指先がかすかに掠れただけの「関節接触」で白目を剥いて卒倒し。 顔面が数十センチに接近した「顔面異常接近」で酸欠を起こし。 挙句の果てには、抱きかかえられた「全身接触」で脳のネジが全滅してオーバーヒートを引き起こした。暗殺者として百戦百勝を誇ってきた彼女が、このレオンハルトという存在に対してだけは、手も足も出ずに全敗を喫し続けているのだ。(いかん……! このままではいかんぞサーシャ・リナール! いくら『殺せなくなること』を受け入れたからといって、接触するたびに気絶していては、暗殺者としての矜持どころか、旅の同行者としての尊厳すら削り落とされてしまう! 今日こそ……今日こそ勝つ! 今日こそ試練を越えてみせるのだ……!)サーシャは両拳を強く握りしめ、襲い来るパニックを力ずくで抑え込もうと全身の筋肉を硬直させた。ステップを踏むように、爽やかな足音が近づいてくる。ザッ、ザッ。「やあ、サーシャ。出発の準備は万全かい?」光を反射する金髪、澄み渡った青い瞳、そして一切の悪意も計算も存在しない、あまりにも眩しすぎる爽やかな笑顔。レオンハルトが、サーシャの目の前で足を止めた。距離、およそ一メートル。
(きた……! 敵機接近! いや敵ではない! 勇者様接近……!!)
サーシャの顔面が一瞬で朱に染まり、耳の先端からシュゥゥ……と微かな蒸気が立ち上り始める。「これから砂漠越えの長旅になるからな。乾燥して喉が渇くだろうと思って、途中の果樹園で獲れた冷たい果実水を買ってきたんだ」そう言うと、レオンハルトは木製のコップに入った、鮮やかな橙色のジュースをサーシャに向けて差し出した。「はい、サーシャの分だ。しっかり水分を補給しておいてくれよ」ごく、当たり前のように。 何の疑いも、何の他意もなく手渡される、冷たい果実水。だが、サーシャの視線は、そのコップを握るレオンハルトの「指先」へと釘付けになった。
(な……なんだと……!?)
サーシャの脳内で、警報が鳴り響く。レオンハルトの指は、木製コップの側面をしっかりと包み込んでいる。 つまり――もしこのコップを受け取ろうとすれば、必然的に彼の指と私の指が擦れ違い、あるいは彼が握っていた温もりが残るコップを通じて、間接的かつ不可避な「肌の熱の伝達」が発生する……!これぞ、かつてサーシャを幾度となく地獄の底へと叩き落としてきた恐ろしい現象。 悪魔の術式――「関節接触」である!(お、おのれレオンハルト……! 朝一番からこのような恐ろしい罠を何食わぬ顔で仕掛けてくるとは……! やはりお前こそが世界最強の殺し屋……っ!)サーシャの手がガタガタと激しく震え出す。今までであれば、この状況に陥った時点で脳の許容量が限界を突破し、白目を剥いてその場に卒倒していたはずであった。だが――今日のサーシャは違った。(逃げるな……! 逃げるなサーシャ・リナール! お前はあの日、あの男の手の温もりに救われたのではないのか!? あの温もりを守ると、心に誓ったのではないのか!? たかがジュース一杯の受け渡しごときに日怯えていて、どうしてあの男の隣を歩けるというのだーーーっ!!)千年のあいだ鍛え上げられてきた精神力が、恋の恐怖を激しく押し返す。サーシャは深く、深々と息を吸い込んだ。(呼吸を整えろ……! 重心を下げろ! 全集中……心臓の鼓動を意識の外へと追いやるのだ! ターゲットはコップの上部! 彼の指が触れていない、わずか数ミリメートルの空白地帯……! そこに私の指を最速で滑り込ませる……!)一千年の暗殺技術が、果実水を受け取るためだけに全開で稼働した。手筋の角度、筋肉の弛緩、皮膚の感覚神経の局所遮断。「……いただくぞ、勇者」絞り出すような声とともに、サーシャは細く可憐な右手をそっと伸ばした。スッ……。レオンハルトの指先と、サーシャの指先が、わずか数ミリメートルの距離で交差する。 レオンハルトの体温が、空気の揺らぎとなってサーシャの皮膚を叩く。
トクンッ!!!!
心臓が、跳ね馬のように暴れ狂う。(ひっ……!? あ、温い……! 彼の熱が……指先から伝わってくる……! だ、ダメだ……意識が……意識が白濁する……!)白目が剥きかけ、膝から崩れ落ちそうになる感覚。(折れるなァァァァァっ! 踏みとどまれ私ーーーーッ!!)サーシャは歯を食いしばり、必死の思いで踏みとどまった。そして――。ギュッ。サーシャの指先が、確実に木製のコップを捉えた。レオンハルトの手が、そっとコップから離れる。とん。コップは今、確かにサーシャの手の中にあった。 レオンハルトの残した温もりをたっぷりと含んだ、冷たい果実水が。立ち尽くすサーシャ。 その場に倒れ伏すこともなく、白目を剥くこともなく、二つの足でしっかりと大地を踏み締めながら、彼女はコップを保持し続けていた。「あ……」サーシャは自らの手元を見つめ、驚愕に目を見開いた。倒れていない。 気絶していない。 視界はクリアなままであり、レオンハルトの爽やかな笑顔が目の前に存在している。「喉が渇いていたのか? 美味しいから、ゆっくり飲んでくれよな」レオンハルトは嬉しそうに微笑むと、「みんな、出発しよう!」と叫びながら荷馬車の方へと歩み去っていった。一人、木陰に取り残されたサーシャ。一秒。 二秒。 三秒。静寂の後――サーシャの全身から、歓喜と爆発的な達成感が解き放たれた。「や……やった……!」サーシャは拳を天高く突き上げ、心の中で、いや声にならない叫びをあげて跳ね上がった。(やった……! ついにやったぞ!!! 勇者様のジュースを普通に受け取れた!!! 関節接触を克服したぞ!!!!)奇跡だ。 一千年の歴史において、彼女が恋という未知の病に対して収めた、記念すべき「初勝利」であった。倒れなかった。気絶しなかった。 あの恐ろしいまでの「接触の熱」に耐え抜き、己の意思で物品の授受を完遂してみせたのだ!(見たか世界! 見たかレオンハルト! 私は勝ったのだ! 一千年の暗殺者たるこのサーシャ・リナール、ついに恋の試練を一つ打ち破ってみせたのだーーーっ!!)誇らしげに胸を張り、ドヤ顔でジュースを一口すするサーシャ。 甘酸っぱい果汁が喉を潤し、極上の達成感が全身を駆け巡る。
しかし――。
トクントクン! トクントクン! トクントクン!
彼女の胸の奥からは、依然としてドラムロールのような激しい鼓動が鳴り響いていた。顔面は熟しきったイチゴのように真っ赤であり、耳からは相変わらずシュゥゥ……と大量の蒸気が噴出し続けている。そう――「克服した」というのは完全な彼女の勘違いであり、実際には耐性値が極小アップしただけで、鼓動も赤面もパニックも、何ひとつ根本的には解決していなかったのだ。遠くからその様子を眺めていたガルドとリゼルが、深々と溜め息をつく。「……なあリゼル。あいつ、ジュース一本受け取っただけで、なんであんな覇王みたいな勝ち誇った顔してんだ?」「……深く追求してはいけませんわ、ガルド。あれは彼女なりの、壮絶な戦いの結末なのですから」リゼルは呆れを含んだ眼差しで眼鏡をかけ直し、哀れみの視線をサーシャへと向けた。「でも、あの調子じゃ……先が思いやられますわね。ハグやキスなんて領域に辿り着く頃には、彼女の命が尽きてしまうのではないかしら」「ガハハ! 違いねぇ!」二人の呆れ顔など知る由もなく、サーシャは宝物のようにジュースのコップを抱え締め、興奮冷めやらぬ様子でレオンハルトの後ろ姿を追いかけた。(ふふふ……クックック! 進歩しているぞ、私は確実に前進している! 次の『顔面異常接近』も、その次の『全身接触』も、この調子で克服してみせる! 待っていろレオンハルト、私はお前の最強の仲間であり……そしていつか、お前を完全に落としてみせるのだからな!)青空の下、ガタゴトと音を立てて動き始める荷馬車。 果てしなく続く街道の先には、まだ見ぬ強敵と、さらなる試練が待ち受けている。最強にして最悪の漆黒の暗殺者。 そして、世界一ポンコツで愛おしい初恋の少女。サーシャ・リナールの過酷にして甘やかな「初恋攻略道中」は、まだまだ終わる気配を見せず、どこまでもどこまでも続いていくのであった。
【エピソード一 完】




